現代スサノウの言霊 

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はじめに

「古事記と言霊」という題でお話をします。古事記は奈良時代に書かれた日本で最も古い書物の一つであります。また言霊と言いますのは、先に刊行された「コトタマ学入門」で説明しましたように、これも日本の大昔の言葉である大和言葉の語源となったアイウエオ五十音に関します人間の心と言葉の法則であります。
 この古い古事記と言霊の双方がどんな関係にあるのか、「コトタマ学入門」の中では取り分けて詳しい説明はしませんでした。余りに話が難しく専門的になるのを避けるためであります。とは言いましても日本人と日本語の原点であり、そして長い年月日本人の意識から忘れ去られていた言霊の学問がどうして現代に甦って来ることが出来たか、古事記を抜きにしては考えられない問題なのです。実に古事記なくして言霊はなく、言霊の原理なくして、古事記を語ることはできません。この切っても切れない、古事記と言霊との関係についてお話するのがこの書物の目的であります。
 古事記、特にその中の神代の巻と言霊との関係を調べて行きますと」、現代の心理学や言語学等の学問ではまだ解明することが出来ないでいる人間の心の全構造とか、私達日本人が日常使っている日本語の起源、その他古代から現代に至る日本や人類の文明の歴史の筋道等々が手に取るように鮮明に分って来ます。
 以上お話ししました問題については、著者の言霊学の師でありました小笠原孝次氏が、この道の諸先輩の研究を受け継ぎ、御自身の一生をかけた思索と研究の成果を発表された「古事記解義言霊百神」という名著(1969年東洋出版社刊)があります。氏はその著の中で、豊富な宗教的・哲学的知識を駆使して古事記神代の巻の神話と言霊との関係の謎を正確に解き明かしたのでした。歴史の上で約二千年の間、人間の潜在意識の底に眠っていた言霊の原理が現代に不死鳥の如く甦りました。
「古事記解義言霊百神」が刊行されてから二十数年の歳月が過ぎました。この間、著者の内容を心の中に噛みしめ、その宗教的・哲学的な言葉を咀嚼し、消化して、人間の心と言葉というものに関心を持つ方ならば誰でも理解出来るよう解説を試みたのが本書であります。
 古事記と言霊との関係物語をするに当って、本書では先ず、古事記という書物の内容についてあらましの解説をし、次に言霊とは何か、を簡単に説明して読者の御理解を頂き、その上で両者の関係を詳細にお話することとしました。この物語の中で読者が、人間の心とはどのような構造を持っているのか、心の構造の法則を基礎として私達の日本語がどのようにして作られたのか等々、また更に日本人や世界の悠久の歴史の心躍るような壮大なロマンを感じ取って頂く事が出来れば著者の希望は達せられたと言うべきありましょう。
 当初の御挨拶この位にして古事記と言霊の話を始めることにしましょう。

古事記とは

 古事記、日本古代の言葉で「ふることぶみ」と読みます。奈良時代初代の天皇であった元明天皇の時(七一二年)、天皇の命令により撰上された日本古代の歴史書であります。その序文には稗田阿礼という人が暗誦していた天皇・国家に関する歴史を太安万侶が選録した、と書かれています。
 古事記の原文は全て漢字で書かれました。と言っても漢文で書かれたのではありません。日本語の文章に、その一語一語の音を当てる漢字やその意味を表わす漢字を当てて書き綴った、というわけです。私達は現在読めない漢字に振り仮名(ルビ)を付けますが、それとは逆に日本語に漢字のルビを使って文章にした、ということです。その読みづらい漢字の文章は後世(一七九八年)本居宣長によって「古事記伝」として普通の日本文訳の本となり、誰でも読めるようになりました。
 古事記は上中下の三巻から成っています。上巻は天の御中主の神より鵜草葺不合の尊までの神代の物語です。中巻は神倭伊波礼毘古の天皇(神武天皇)より一五代応神天皇までの歴史、次に下巻には仁徳天皇より三三代推古天皇までの歴史的記録が記されています。
 この古事記という歴史書の特徴としては、先ず第一にその歴史が中巻以下天皇の年代別に区切られて書かれていることが挙げられます。後世古事記が天皇中心の歴史書だ、といわれる所以であります。第二にその天皇制中心の歴史に先立って、上巻に神代の神話が述べられていることです。これが最も大きな特徴といえるでしょう。
 古事記の上巻の最初の文章は次のように始まります。
 天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主の神、次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。…
 そして以上の文章の後に次から次にと数十、数百という神様の名前が出て来るのです。それら神様の名前には日頃聞いたことのあるものや全く聞いたことのない名前が記されていて、その神の名前を読むだけでは中巻以後の現実の歴史とどのように関わって来るのか見当もつかなくなります。日本の神道は多神教だといわれるのはこの事からでありましょう。
 この最大の特徴であります現実の歴史の前置きとして神々の物語を記しました太安万侶の意図は何だったのでしょうか。当時の天皇の命令による国家的事業として編纂された歴史書なのですから、最初の上巻に単なる神代の空想物語やおとぎ話を載せるはずはありません。撰者太安万侶は重要な意味をこめて古事記の上巻の神話を書いたに違いないのです。としたらその意図は何か、神話は現実の歴史とどんな関係を持っているのでしょうか。
 それら大勢の神々と現実の歴史とは実際にどんな関係にあるのか、の検討に当って代表的な二つの考えを先ず挙げて見ることにします。その一つは先の大戦の時まで、日本の思想界の大勢を占めていた日本神道に基づく天皇制の神秘的国体思想であり、他の一つは大戦後の天皇制否定の上に成り立っている実証主義的歴史研究の態度だ、ということが出来ましょう。
 以上の古事記の神話に対する二つの考え方を検討することによって古事記の撰者であった太安万侶の真意に迫ることにします。先ずは神道思想を基とした神秘的国体論から始めます。
 先の戦争が敗戦で終わるまで、日本の歴史の中心のテーマは何と言っても「天皇とは」の問題に尽きると言うことが出来ます。そして天皇とは、日本国とは何か、の意義を決定づけるものとして古事記の神話が挙げられたのです。神話という私達の現実の生活とは直接には結び付くことのない超越的な事柄を裏付けとした天皇の存在であり、国体論でありますから、その主張は厳密な証明の不可能な神秘思想ということが出来ます。それはただ、そう信じることによってのみ成立する考え方であります。
 極めて手短に要約してその主張を説明することにしましょう。
 前に書きましたように、古事記の神話は最初の天の御中主の神から次々と神様の名前が出て来るのですが、十六・十七番目に表れる伊耶那岐の命、伊耶那美の命という二柱の神が大勢の御子神を生みます。そして最後に神様の世界(高天原)で最も徳の高い、私達の太陽系宇宙の太陽にたたえられる天照大神という神様が誕生します。
 ある時、この神様は孫の邇々芸の尊に次のように命令しました。「この豊葦原の水穂の国(日本)は、汝の知らさむ国なりとことよさしたまふ。かれ命のまにまに天降りますべし」この日本国は汝が治めるべき国であるから命令に従って日本の国へ降りて行って治めなさい、という訳です。また天照大神は自分の表徴であります八咫の鏡に八尺の勾玉と草薙の剣の二つを添えて(三種の神器)邇々芸の命に与え、こうも命じました。「これの鏡は、もはら我が御魂として、吾が御前を拝くがことく斎きまつれ。」この八咫の鏡を私だと思ってお祭りし、政をやりなさい、という意味であります。こうして邇々芸の命は筑紫の日向の高千穂の奇振峰にお降りになった、というのです。
 以上が古事記の神代の巻の中の天孫降臨という神話の一節です。先の戦争の時までの神道思想による天皇の地位はこの神話によって裏付けられておりました。天照大神の御魂である八咫の鏡を邇々芸の命以来代々受け継ぎ、その徳の光によって天皇は日本民族を統治する人なのである、という考え方です。八咫の鏡(三種の神器)は日本国天皇の皇位のしるしであり、その徳の恵みによって日本天皇の皇統と日本民族は永遠に栄えるのだ、という天皇観、歴史観でありました。これが神道思想による日本の歴史観であります。
 日本という国家の中での天皇の地位が、人間の信仰の対象であります超越的な神の世界の物語に基礎を置いておりましたので、その天皇の地位と日本国の国柄は学問的に真偽を実証する、という範囲を超えています。それはただ信じるより他に方法がない世界のことに属していました。その上この考え方が国家の法律(憲法)で定められますと、天皇の尊厳や、それを中心とした国家の歴史等はただ信じることだけが許されて疑うことの出来ない絶対的な権威を持つことになります。これは神秘的な歴史観の当然の結論という事が出来ましょう。
 このように先の戦争が終わるまでの歴史観では、古事記神代の巻の神話はその超現実的な神様の物語そのままで日本天皇の権威の基礎と考えられて来たのでした。
 次に戦争後の日本の歴史観について考えてみましょう。
 神道信仰による神懸り的天皇観・国家観で戦争し、そして完敗しました。外国の攻撃による国家の危機が迫った時には、神風が吹いて国難を切り抜けることが出来ると信仰上信じて来たその神風も吹くことなく、日本中が焦土と化しました。神秘的な天皇観・国家観は衰退しました。その上昭和天皇の人間宣言、日本の天皇と古事記の神話とは無関係である、との宣言が出されて、日本人の歴史観はまったく百八十度の転換をすることとなりました。
 古事記上巻を土台とした神道信仰による神懸り的歴史観に代って科学的・実証的な歴史観が登場しました。「神様が天皇の権威を定めた」などということは、科学的・実証的な歴史研究からは承認できるものではありません。古事記の神話はどんな意味においても日本の歴史とは無関係であり、古代のおとぎ話か民話程の意味のものと見なされることとなりました。遺跡の発掘や外国の文献等によってその存在を確認されていない事物は従来の日本の歴史の中から全部否定されました。
 天皇制中心の歴史は民衆の生活中心の歴史に書換えられました。民主主義国家の歴史の主人公は天皇ではなく、民衆である、ということがその理由です。天皇は従来の日本国の神聖なる統治者の地位から「日本国民統合のシンボル」という民主主義政治体制の中の一地位、一種の役職の立場に変わったのでした。神話に基づいて定められて来た宮中の数々の伝統行事は単なる天皇個人御一家の習慣行事として遺され、国民との関係は一切否定されました。
 かくて現実の歴史の前置きとして書かれた古事記上巻の神話は、戦後の歴史観からは百%その意義を無視される結果となったのです。

 以上太安万侶が古事記を書くに当って、その上巻に膨大な神様の物語を書いた意義について、戦前の神道的神秘思想と戦後の科学的実証主義の歴史の二つの見方を検討して来ました。
 さて、ではどちらの見解が正しいでしょうか。勿論現代の歴史学者の大部分は後者の実証的歴史学を支持するでしょう。しかし日本国民の心の奥底に前者の神秘的歴史観が消えてしまった訳でもないようです。その証拠には天照大神をお祭りしてある伊勢神宮の参拝者は増える一方と聞いていますし、日本国家の建国記念日の是非もめぐる論争も絶えることがありません。読者の皆様はこの問題をどうお考えでしょうか。
 この問題に対する著者の考えをお話する前に、一つ検討して置きたいことがあります。歴史とは何でしょうか。過ぎ去った出来事の真相は唯一つしかないはずです。にも拘わらず今迄の日本の歴史について全く違う二つの見解が生まれて来るという事自体何とも奇妙な事ではありませんか、歴史とは何なのでしょうか。
 歴史とは過去の出来事についての記述です。とは言っても起きた出来事を順序に従って綴って行けば歴史書が出来上がるというわけでもありません。一人の人の歴史にしても、その人が毎日行った事柄を起った順序通り全部書き記せばよい、というものでもありません。一人の人間でも、社会や国家・世界の動きにも意図・目的があり、習慣・風俗等全てのことが関係して来ます。ですからそれらの出来事をどう表現し、どう記述するか、は多分に歴史を書く人の主観に左右されて来るのでしょう。歴史を書く人の人生観に関係して来ます。そこに問題があります。
 人生は金なり、と信じている人が歴史を書いたらどんな歴史が出来るでしょうか。科学者が、芸術至上主義者が、宗教家が書いたらどうでしょうか。それぞれ違った歴史になることは間違いありません。
 歴史がそれを書く人の人生観に左右されることがさけられないとすれば、その歴史が正しいか、否かは如何で判断したらよいのでしょうか。突き詰めて考えて行きますと、人間そのものが問題となって来ます。人間というものの持つ全ての性能を理解した立場から歴史を書くことが要求されて来るでしょう。そうでない歴史は如何か偏って、ねじれた歴史となってしまいます。歴史とは何か、の問題は人間とは何かの事に帰着して来ます。
 歴史書としての古事記、特にその上巻である古事記の神話の取り扱いについて考えている内に、歴史とは何か、の問題が考えられました。そして歴史を考えると結局人間の営みとは、人間とは何かの問題が浮かび上がってきました。人間とはそも如何なるものなのでしょう。これは人間社会が始まって以来、繰り返し繰り返し問い続けられて来た永遠のテーマと思われて来ました。「人生不可解なり」といって若き生命を日光の華厳の滝に投じた藤村操の絶叫に今現在でも答えることが出来たとは言えないのです。
 それでは現代の人々が未解決だと思い、永遠のテーマだと思い込んでいる「人間とは」「人生とは」という問題に対して人類はその長き歴史の中で完全な答を一つも出していないのか、というとそうではありません。人間の心はどんな構造をしているのか、どんな活動をしてどのような結果を生むのか、の問題に人類は己にはっきりと然も完全な答を出しているのです。それが日本古来の学問であります言霊の原理です。大昔の言葉で布斗麻邇と呼ばれました。
 この学問は二千年もの長い年月、日本人の脳裏の底に眠っていたのですが、今世紀に入って徐々に潜在意識から発掘され、今や昔にあったと同様な完全な姿で復活されて来たものです。この学問は人間とは何か、に必要にして十分な解答を与えてくれます。そしてそれが示す人間の性能の全局の立場に立って過去を振り返って見る時、日本と世界の歴史が整然とした真実の姿で理解されて来ることになります。
 初めて言霊の学問に接する方には「そんなことがあるのか」と一切を疑う事にもなりましょうが、この本のテーマである古事記神代巻と言霊との関係をお読み下されば「成るほど」と納得して頂けるものと思っています。さて次に言霊とは何かを簡単に解説することにしましょう。