現代スサノウの言霊 

島生み(その1)

是に天つ神諸の命以ちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に、「是の多陀用弊流国を修め理り固め成せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき。故、二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下ろして画きたまへば、塩許々袁々呂々邇画き鳴して引き上げたまふ時、其の矛の末より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき。是れ、淤能碁呂島なり。 .其の島に天降り坐して、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。

 心の先天構造を構成している十七個の言霊が出揃って、その十六・七番目に当る伊邪那岐・美の二神、言霊イ・ヰが「いざ」と立ち上がり、いよいよ二神の子供である三十二の子音を生むことになります。「島生み」と名付けられましたこの章は、実際に岐・美二神が子である子音を生む前にどんな事が行われたか、という言わば子を生む前の前奏曲とでも名付けたらよい章であります。文章の一節一節を追って説明して行きましょう。

是に天つ神諸の命以ちて、

 天つ神とは先天の十七神のことであります。けれどこの文章を文字通りに「先天の十七神の命令によって」と解釈していたのでは言霊の意味が出て来ません。古事記神代の巻が言霊原理の教科書であることを頭において考える必要があります。古事記の神々の名前が言霊を表わす指月の指であることの見地に立ちますと、神様の物語がすぐ生きた人間の心の活動の話として了解出切るようになります。「神様の命令で」ということは「人間の心の先天構造である十七の言霊が活動を開始して」という人間の心の働きの話となります。

伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に、
「詔りて」を命令して、と解釈せず、先天十七の言霊が動き出し、その十六・七番目の言霊イ・ヰの創造意志が「いざ」と立ち上がって、と生きた人間の行為として考えますと意味が明瞭になります。ここに伊邪那岐・美の神ではなく伊邪那岐・美の命という言葉が出て来ました。伊邪那岐神といえば、原理法則であり、原理法則としての存在という意味であり、命といえば原理法則を表現した言葉またはその実行者である人間を示すこととなります。

「是の多陀用弊流国を修め理り固め成せ。」と詔りて、

先天の構成要素は全部出揃ったけれど、それは目に見えない先天のことで、現象としては何も生れない渾沌(漂える)とした状態であります。この状態を日本書記には「滄海」「天霧」などと記し、また「我が生める国、ただ朝霧のみありて、薫り満てるかも」と述べられています。現象が生れて来る以前の状態の美しい表現です。
 修め理り固め成せ、というのは、人間に与えられている天与の性能を働かせて、宇宙の中で人間に関係する一切のものを創造し、確認して、それぞれに名を付け、人間に相応しい文明社会を建設して行く事であります。それは渾沌として何だか分らない現象の世界や物や事を、人間の天与の能力によって確認し、応用し、その内容に応じて適当な名を付け、その事物の意義を決定して行く事だという事が出来るでしょう。
 何だか難しい表現になったようです。物事や社会を創造する、と言いますと、直に工場で物を生産したり、農業で米や野菜を作り、また道路やダム、そして近代的な社会を創って行くことである、と思います。勿論それには違いないのですが、それは物質という立場、客体という立場から見た言い方です。心の側、主体の側から見て表現したらどうなるでしょうか。
 以前に「無名は天地の始め、有名は万物の母」という老子の言葉を取り上げたことがあります。そこに物があっても、見る人が居なければ何も始まりません。名前がないこと、それが物事が始まる以前、全てのものの始まりです。人が居て、物を確認し、それに名前を付けること、それが物があることになります。名前がなければ、それが何であるかが分らず、渾沌ということです。
「修め理り固め成せ」というのは、先天の十七個の言霊を働かせて、子音である現象の要素を生み、その子音を結合させることによって一切の現象に名前を付け、その名前自体を指し示す道理を実現するような人間社会を創造して行く、ということなのです。言葉が一切のものの母であり、人間の社会の実体は言葉であり、言葉が次々に発展して行くことが文明の発展ということになります。人間の社会において「創造する」ということを心の側から見ると以上の様に言うことが出来ます。

天の沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき。
 矛とは古代の武器で、両刃の太刀に長い柄がついたもの、と辞書にあります。古代の神々の物語としてそのままの説明で済みますが、言霊の教科書として何を意味するのでしょうか。それが言葉に関係するものとなりますと人間の言葉に関係するものとなりますと人間の言葉を発する器官即ち舌のこことなりましょう。舌に矛の形をしています。舌を動かして言葉を発します。けれど舌だけでは言葉は出ません。舌を動かすのは心です。心である霊に言葉という音(言)を合わせて言霊(ことたま)とする器官が舌です。この舌で宇宙の実在を表わすと縦にアオウエイの五母音となり、現象を生む人間の創造知性の律を表わすと横にチイキミシリヒニの八父韻が現われます。沼矛の沼は貫(横)の意味であり、矛は霊凝のいであります。父韻チイキミシリヒニを発音して見て下さい。特に微妙な働きを必要とすることがわかるでしょう。

天の浮橋に立たして、
 吾と汝、私と貴方、主体と客体は母音と半母音で示されます。その主と客は、唯それだけでは独り神で何の現象も生むことはありません。その黙っている実在と実在との間を取り持ち、そこに現象を生んで行くキッカケとなるのがチイキミシリヒニの八つの父韻です。この主と客の間に懸ける橋、これを天の浮橋といいます。「天」は先天の意、「浮橋」とは先天の宇宙の中で主体と客体をわたす橋ということです。「天の浮橋に立たして」を人間の心の働きとして表現しますと、「伊邪那岐・美の二神である言霊イ・ヰの創造意志が、その実際の働きである八つの父韻となって活動して」ということになります。心の先天構造を開始して、いよいよ後天の実相の言葉を生み出す瞬間です。「立たして」というのは伊邪那岐・美の二神が天の浮橋である八父韻の両端に立って向き合うことであります。

其の沼矛を指し下ろして画きたまへば、
「画きたまへば」は撹きの謎、かき回すことであります。人間が舌を使って音を色々に出して見ることです。八つの父韻の作用で種々の現象(言葉)が現われ出て来ます。

 

塩許々袁々呂々邇画き鳴して
 塩(シホ)は四穂の意で、四つの母音言霊を指します。アオウエイの四音です。「しほ」は他に機(しほ)の意味もあり、物事の変化のキッカケを言い、それは八つの父韻のことでもあります。「汝は地の塩なり」という新約聖書マタイ伝の言葉はこの意味です。けれども今は「塩」は四母音の事でありましょう。八父韻を以て四つの母音アオウエを舌を使ってかき廻して音を出して見ることをいいます。父韻と母音の結合で子音が生まれます。例えばk+a=ka、t+u=tu等でカ・ツ等の子音が出て来ます。その子音の数は父韻の八、母音四で8×4=32即ち三十二個の子音が生れます。

引き上げたまふ時、其の矛の末より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき。
 舌を使って八つの父韻で四つの母音をかき廻し、引き上げて、さてどんな事が起るか。舌の先から音が出て来ます。島とは宇宙の「締まり」の意。一個の言霊は広い宇宙のある一部を占有(しめ)その内容を分担しています。島とは広い海の一部を占め、その特徴を表わしています。父韻Sで母音Aをかき回せばサという心の締まりとなります。サという一音は、宇宙の中のサと名付けるべき全ての物事を締めくくって表現します。この様に締めくくられた宇宙の部分々々を島といいます。

淤能碁呂
河図、洛書  己の心の締まり、という意。舌を使い父韻で母音をかきくって見ると音が出ました。その音の一つ一つが人の心の部分々々をそれぞれ締めくくって表現している、という事が分って来た、という意味です。
 この事を日本書記には次の様に美しく表現しています。
「二神(伊邪那岐・美)天霧の中を立たして曰く、吾れ国を得んとのたまひて、乃ち天瓊矛を以て指し垂して探りしかはおのころ島を得たまいき。即ち矛を抜きあげて喜びて曰く、善きかな国のありけること」これは人類が初めて言葉をもって自分の見、聞き・触れた事を表現することが出来た喜びである、ということができましょう。言葉という人間の芸術の始まりです。

其の島に天降り坐して、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。
 天の御柱とは主体であるアオウエイ確立の姿を言います。これに対し客体であるワヲウヱヰの国の御柱と呼びます。この柱は主客合一の絶対の実在として心の中心に一本となって立っている場合と、相対的に主と客として二本立つ場合とがあります。この絶対と相対との立場については言霊ウの章で詳説しました。宇宙の中の一切のものはこの柱より現われ出で、またこの柱に帰って行く宇宙の根本実在であります。
天之御柱  八尋殿とは文字通り八つを尋ねる神殿とはこの場合心の中に画かれる図形といったらようでしょう。図で示しますとA図またはB図の如くなります。この八つの間にチイキミシリヒニの八父韻が入ります。この図形は基本となる八数の原理を何処までも保って二乗・三乗…と次元的に限りなく発展して行きますので「弥広殿」とも書きます。
 そこで文章の意味する所をまとめますと次のようになります。「人間が舌を使って八父韻を活動させ、四つの母音の宇宙をかきまわすと音が生れました。そこでその自らの心を表わすそれぞれの音の立場に立って見ますと、自分の心の中心にアオウエイ・ワヲウヱヰの柱が立っており、その柱を中心にして八つの父韻が入る間が展開していることが分って来ました。」