現代スサノウの言霊 

「思う」と「考える」ということ

 人間の心の先天構造を形成している十七の言霊が活動を開始して、目に見える現象子音を生む前の前奏曲の一つとして、人間の心の「思考」ということについて確かめておきたいと思います。
 思考とは思うことと考えることです。思う、と考える、とはどう違うのでしょうか。一見同じ様に見える二つのものが、よく見ると大変違っている、ということがよくありますが、「思う」と「考える」もその例の一つであります。「思う」とは漢字が示しているように「田の心」です。田の心って何だ、とお分かりにならない方が多いことでしょうが、後程詳しくお話することにしましょう。一方「考える」とは「神返る」が語源です。先ずこの「考える」の方から検討を始めることにします。
 人が考える、という時、何時もついて廻るものは「何時」「何処で」「どうやって」という疑問符です。ある出来事を思い出して「あれは何時・何処で起った事だったか」と考えることから、多数の似通った経験の記憶を思い起こして、それらの出来事の共通の面は何か、共通の原因は何からか、等々考えます。一つ一つの経験から、それらの経験が起って来る初めの原因、法則、原理を求めようとすることです。多から一(神)へ帰ろうとすることです。このような心の働きのパターンを哲学的には帰納法と呼びます。「考える」の語源が「神返る」であることをお分かり頂けることと思います。そしてこの「考える」という心の働きのパターンは過去三千年の間、主として西洋文明の精神の基礎となって来ました。現在隆盛を誇る物質科学文明はこの心の働きの所産です。
 経験から遡ってその原因・法則を求めて行く「考える」心の働きを更に深く検討してみましょう。経験から法則へ、と言いましても、経験を沢山集めれば法則が発見出来るか、というと、そうは行きません。経験・出来事は法則を求めるための材料ではありますが、主人公にはなれません。では法則を求めるのは何か、といえば、それは人間の心です。法則を発見するには「どんな経験をどの位集めたら良いか」「どう取扱ったら良いか」「どの見地に立って調べるか」等々を定めるのは人間の心なのです。
 更に検討しましょう。経験を集め、そこから法則を求めて行く主体が人間の心だ、と言っても、人間の心の感じ方は個々まちまちです。思い思いの観察からでは信頼出来るデータは集まらず、正確な原理・法則を発見することは出来ません。観察する人々の考え方・見方は違うことがあっても、人間なら誰しも生まれながらに与えられている心の基本の働き(心の先天構造)が同じだからであります。発見された原理・法則が正確であり、客観的に真理だと言う事が出来るのは、唯ただ人間に与えられている心の先天構造が唯一・真実である、ということに拠っていると言うことが出来ましょう。
 話が大部理屈ポクなって来ました。けれど、ここの所は人間の心の働きというテーマにとっては大変重要なことでありますから、続けて検討して見たいと思います。物事の正しいか、誤りかを決定するものが結局のところ心の先天構造である、ということが分りますと、そこから色々な事柄が展開して来ます。
 八卦西洋文明はこの「考える」ということを基本の精神として物質科学を発展させて来ました。色々な出来事を冷静に観察し、データを集め、推理して、それらの現象が起って来る共通の法則や原理を探究して行くこと、言い換えますと現象を観察することから出発して、その元であり一である神に帰ろうとする努力によって、今日見るような華やかで便利な物質科学文化を創り上げたのです。
 しかし、多くの経験とそのデータから素晴らしい精密な原理・法則を発見することを可能にしている人間の「考える」という心の働きの根本精神であります「心の先天構造とは何か」の問題に関しましては、西洋の哲学は今尚確乎とした研究の成果を得られないままなのです。客観的物質世界の法則を次から次へと発見して来た西洋は、その真理の発見を可能にしている人間の心の主観的原理については、そのほとんどを発見してはいません。物質科学のもたらした輝かしい成果の半面である原水爆戦争の恐怖や大規模な公害の危険が起り、それを防止し解決する根本対策を打ち出すことが出来ない人間の精神の研究の立ち遅れに対して、「西洋のたそがれ」「科学の暴走」とか「哲学の貧困」などと叫ばれていますのも故なしとは言い切れません。すべての原理・法則が真理であることを可能にしている唯一の拠り所である人間の心の先天構造の内容が確認されないための当然の結果と言えましょう。
以上検討して来ました人間の「考える」という働きに対し「思う」という働きはどのようなものなのでしょうか。「考える」ことが昔から西洋文明の基盤であったのと反対に、「思う」は東洋の文明の基礎であったと言えましょう。東洋には昔から一である神とは何か、という問題を暗中模索する「神返る」思考は発達しませんでした。その反対に心の先天構造の内容が遠い昔から人類に伝わる伝統であり、明らかに知られたものであるという立場に立ち、その先天の内容から出発して、その原理・法則を人間の実際の生活にどのように適用し、国家や社会の文化を造って行くか、という営みが東洋文明の基本心理でありました。その心の働きは「考える」ではなく「思う」ことです。哲学的に言えばその働きは演繹です。東洋で発生した各宗教や東洋哲学は全てこの心の働きの現われであります。

言霊布斗麻邇 

人間の心の先天構造を己に明らかになっているものとして受取り、その根本原理を社会の文化創造のために適応して行こうとするのが東洋の精神でありますが、東洋の宗教や哲学によって「自明の理」とされた先天構造の捉え方も、厳密に言えばその理解は比喩とか象徴とか。または概念等による理解に留っている。ということが言えます。譬え話や象徴・概念によって理解するということは、物事をそのものズバリ把握することではありません。饅頭の中の餡を「甘いもの」とか「小豆を煮てつぶしたもの」と表現しても餡そのものを理解出来ない、というのと同じです。比喩た概念による理解は薄ぼんやりしていて、真の認識にはならないのです。
 その点全く他に比べるもののない、世界で唯一つそのものズバリの把握を完成・実現したのが日本古来の言葉の言葉の原理であります言霊布斗麻邇です。言霊によって人間精神の先天構造(天津磐境)を下に再び図示しましょう。全部で十七個の言霊によって把握されました心の先天構造は、それを構成している十七個の言霊のそれぞれを自分の心の中で認識してしまいますと、人間が人間という種を保つ限り、人種・国家・社会の相違に関係なく、一つの完全な真理として、如何なる時と場所に応じても、人間の文化活動に適応して誤ることがありません。それは神といい、一といい、事実そのものというものを把握認識し、そこから出発して一切の文化活動を展開することが出来る真理そのものなのです。正に言霊原理にのみ許された独壇場ということが出来ます。
 以上の事柄を頭に入れますと、西洋の「考える」に対する東洋の「思う」という漢字の成り立ちが日本の言霊原理から来ている事が了解されて来るでしょう。「そんな事が…」と訝る方もいらっしゃるでしょうが、本当のことなのです。それは「おもう」ことを「思う」即ち「田の心」と漢字で書きますが、その田の意味を知れば納得が行くこととなります。
 言霊十七個で把握された心の先天構造から出発して、人間誰しもが持っている四つの次元の心の性能、即ち欲望・経験知・感情・選択知の典型的な構造を求めて行きますと(この作業が実はこのお話の全体のテーマであるのですが)、最終の結論としてどの次元についても言霊五十個によって形造られた五十音図表が得られることとなります。五十音図表は稲を作る田んぼの形をしています。また言霊とは言霊イの次元から見た心の要素のことであります故m言霊のことをイの音で「いね」となります。いの音である言霊の稔る処で五十音図表を田に喩えます。「思う」という漢字は、己に人間に自覚されている基本的な精神の構造から出発して、国家・社会・家庭・個人が生きて行く為にどう対処して行くか、の心の活動の意味を良く内容に忠実に表現しているではありませんか。中国の「思」という漢字の起源が日本の言霊原理である、ということの真実性を了解願えた事と思います。
 以上、人間の「思考」即ち「思う」と「考える」という二つの心の働きのパターンについて検討して来ました。勿論、現代に於いて考える人も思う人も全てがその心理の働きの内容を知って考えたり思ったりしているわけではありません。けれど「思と考」という二字のそれぞれの持つ働きの相違が人類の数千年という長い歴史を彩なす重要な内容であることをお分かり頂けるのではないでしょうか。
 人間誰しもが生まれながらに与えられている心の先天構造を構成している十七個の言霊が確認され、その十七言霊が活動して物事の現象を生む情況をお話する前置きとして色々な事を検討して来ました。先天構造が活動する、ということは、先天構造の中の父韻と母音が呼び合って(婚い)によって生み出された子音も客観的な普遍的真実ということとなります。この事は言霊の学問上最も大切な事でありますので、深く心に留めて頂きたいと思います。