現代スサノウの言霊 

黄泉の国

 古事記の本文を先に進みましょう。

是に其の妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉国に追ひ往きき。爾に殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし。」とのりたまひき。爾に伊邪那美命答へ白しけらく、「悔しきかも、速く来ずて。吾は黄泉戸喫為つ。然れども愛しき我が那勢の命、入り来坐せる事恐し。故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。」とまをしき。  如此白して其の殿の内に還り入りし間、甚久しくて待ち難たまひき。故、左の御美豆良に刺せる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見たまひし時、宇士多加礼許呂呂岐弖、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神成り居りき。

 はじめに伊邪那岐・美命は協同で三十二の実相子音を生み、それを迦具土として表音神代文字に表わしました。そこで客体である伊邪那美命の高天原精神界での仕事を終り、精神要素である五十音言霊の整理・運用の確認の仕事は専ら主体である伊邪那岐命の責任に於いて行われ、遂に主体側内部に建御雷之男神という理想の精神構造を確立しました。先に触れましたように、この段階を真理の自証と申します。またその真理の運用法として闇淤加美神(握手)と闇御津羽神(起手)の二つがあることと、この運用を進めることによって限りなく人類文明を創造して行く事が出来る天之尾羽張の剣の活用とを確認出来たのでした。
 さて伊邪那岐命の仕事は、自らの心中に自証された真理をふまえながら、この真理が何時如何なる場合に於いても真理である絶対的な真理として確立させるために、自証から他証に移る作業を開始することです。自証を他証に移すためには、自らの心に確かめられた原理を他の世界に適用して見ることから始まります。

是に其の妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉国に追ひ往きき。
 この文章そのままの意味を言えば「いとしい妻に会いたくなって、伊邪那岐命は美命の住む黄泉国に追いかけて行った」となります。古事記神代巻は言霊原理の書でありますから、勿論単なる岐美二神の恋物語ではありません。主体的な真理を確立した岐命が、協同の仕事の役目を果して去って行った美命の本来の領域である客観世界へ行って、その世界が如何なる内容、価値があるのか、自らの真理を適応してみることが可能であるかどうか調べようと、追いかけて行った事であります。
 ここに黄泉国という言葉がでました。古事記の種々の注釈書を見ますと「地下にある空想の国」とか「死後の世界」など書かれていますが、それはこの文章が言霊の教科書であることを知らない為の誤りです。黄泉国はまた予母都国や四方津国などとも書きます。予母都国とは種々の文化の予めの母なる国という意。言霊原理に則って洗練されてはいない文化が始まる国、と言った意味です。四方津国とは言霊の幸倍う日本以外の、日本から見て四方の国、即ち外国のことを指します。霊の本日本は言霊の幸倍う高天原、それに比べて外国は洗練された言霊原理のない種々の文化の興廃を繰返す国ということです。何故ならそれは精神の理想の構造原理の備わっていない、客観世界の観察を重視しようとする地方であるからです。
 伊邪那岐命は心の内に理想の精神構造の自覚を持ちながら、更に未完成の混沌とした客観世界へ出て行ったのであります。 

爾に殿の縢戸より出で向かへし時、
 殿とは「みあらか」と読み、神の家のことで、言霊図を指します。縢戸とは閉まった戸の意。古事記のある本には騰戸と書いてあるものもあり、そう書くと一層意味は明瞭となります。お風呂上がり湯と言えば、お風呂から出る時かぶるきれいな湯のこと。言霊図の騰戸と言えば、アから始まって八つの父韻を経て半母音ワで終りますから、最後の行ワ行ということです。高天原から客観世界に出て行くには客体であるワ行から出て行くことになります。縢戸と言って「閉まった戸」とは高天原と客観世界との間を閉ざした戸の意味です。この戸については後章その内容が詳しく説明されます。

伊邪那岐命、語らひ詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし。」とのりたまひき。
 伊邪那岐命は伊邪那美命と話をして次のように言いました。「愛する妻よ、私は貴方と協同で作った国はまだ完成していません。還って来て下さいませんか。」主体と客体との協同作業で創造・確認し、それを表現することの出来た言葉の原理は、これを応用してまだ種々の文明活動を広げて行かなければなりません。今後も共に力を合わせようではありませんか、という意味であります。
 この主観と客観の両世界の協力という伊邪那岐命が呼びかけた問題は、これより後の章に於いて、岐美二神即ち主体と客体の交渉の決裂によって人類文明創造上の大きなドラマが歴史上実際に展開されることとなります。人類の精神文明と物質文明という二大文明の創造の歴史の物語であります。

爾に伊邪那美命答へ白しけらく、「悔しきかも、速く来ずて。吾は黄泉戸喫為つ。
 伊邪那美命は答えて言いました「残念です。貴方がお別れしてから直にいらっしゃらなかったので私は黄泉国の食物を食べてしまいました。」高天原の言霊の原理に基づいた理路整然とした言葉の道理ではない、外国の不完全な、整理されていない文字や学問を経験してしまいました。旧約聖書にある「イブが蛇に誘惑されて禁断の知恵の木の実を食べてしまいました。」 

然れども愛しき我が那勢の命、入り来坐せる事恐し。故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。」 
 しかし折角貴方がわざわざ迎えに来て下さったのですから還ることに致しましょう。その前にここの黄泉国の神とその文化について議論をして参りますから、私を見ないで下さい、と美命は申しました。高天原には言霊布斗麻邇の精神原理があるように、黄泉国にも極めて不完全で未整理の言葉や学問があります。この客観世界の文明を発展させることが私の使命と思っておりますので、しばらくその役目の人々と詳しい話をして来ますから、待っていて下さい。まだ不完全な学問ですから中を見ないで下さい、というわけであります。
 後の分の中で、伊邪那岐命(主体)と伊邪那美命(客体)の世界の学問の間の決定的な違いを確認し、その後は伊邪那美命自身が黄泉大神(外国文化の中心思想)となって物質科学文明を推進することとなります。ですからその時代は客観世界の物質文明はまだ揺籃時代であったから「恥ずかしいから見ないで下さい」と言ったわけです。

如此白して其の殿の内に還り入りし間、甚久しくて待ち難たまひき。
 伊邪那美命はそう言って黄泉国へ行ったきり、久しく出て来ません。伊邪那岐命は待ち切れなくなりました。実際に客観精神の伊邪那美命がその独自の物質科学文明を完成するには、その後数千年を要す事となります。

故、左の御美豆良に刺せる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見たまひし時、
 湯津は五百箇の意。五を基調とした百個ということ。爪櫛とは髪(神)を櫛削る道具の事で、湯津津間櫛全体で五十音言霊図を指します。音図は櫛の歯の形をしています。古事記後章では櫛稲田姫などの名で喩えられます。左の御髻というのは音図の向って右方。男柱一箇とはアオウエイの事。主体の五母音です。その「一つ火」といえば五母音の中の一つであります。妻神を恋う心ととれば感情である言霊アのことであり、まだ知らない世界への好奇心ととれば言霊オとなります。その一つの心をもって、妻神が入ったまま、なかなか出て来ない黄泉国の文化をのぞき見た、というわけであります。

宇士多加礼許呂呂岐弖
 中をのぞいて見ると、伊邪那美命の体には蛆虫がたかって音を立てていた。蛆とはウの字のことで、ウ言霊である五官感覚から出た欲望の産物、万有の姿に即して作られた文字や学問のことです。それらの文化がすべて自我を主張してゴロゴロ鳴り、客観世界の文化は完成と調和には程遠い状態であった、ということです。

頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神成り居りき。
   黄泉国の外国の文化を学んでしまった伊邪那美命の心には八種類の文字の原理が染みこんでしまっていた。雷は五十神土の意で文字を粘土板に刻んだもの、であるが、この場合は外国の文字のことであります。前にお話しました日本の山津見神の文字のことではありません。ですから岐美二神の共同の創造である言霊百神の中に入らない四方津国である外国の種々の文字の原理を八種の雷と言って表わしたわけです。

古事記の本文にもどります。

是に伊邪那岐命、見畏みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ。」と言ひて、即ち予母都志許売を遣はして追はしめき。爾に伊邪那岐命、黒御かづらつれば、乃ち蒲子生りき。是をひろひ食む間に、逃げ行くを、猶追ひしかば、亦其の右の御美豆良に刺せる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄つれば、乃ち笋生りき。

是に伊邪那岐命、見畏みて逃げ還る時、
 伊邪那岐命は四方津国にいる妻神の体に蛆がたかっているように、その心の中にいろいろな外国の未完成の文化の文字原理がわだかまっている姿を見手、その自己主張と不調和の世界に恐れをなし、此処は長くと止まる処ではないと、自分の住家である高天原に逃げ帰って来ようとしました。
 逃げ帰る、と言っても、唯逃げて来るのではありません。伊邪那岐命は自分の心の中で物事の処理創造に当る理想の心構え(建御雷之男神)を確立し、その自証された精神を持って客観の世界へ行きました。そこで高天原の完成された精神世界とは違う客観世界の未完成・不調和の醜い文化を見たのです。そして建御雷之男神再びは自らの世界へ帰ります。この行動によって完成された理想の精神法則と未完成の物質文明が出会った事になります。そこに当然主観的精神の中に於いて、客観世界のものをどう処理したら良いか、の活動が起ることとなります。それは自証の精神が更に他証され主観・客観共に証明される過程としての活動が展開されることとなります。 

其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ。」と言ひて、即ち予母都志許売を遣はして追はしめき。
 妻伊邪那美命は、自分の受け持っている客観世界の創造はまだ緒についたばかりの所で、未完成であるから「見ないでください」と言ったのに、夫神は中を見てしまった、「恥をかかせましたね」と言って、黄泉醜女に命じて追いかけさせた、という意。黄泉は外国。男の言葉に対して、女は文字のことであります。夫神の心を外国の文字の原理の思想でもって虜にしようとしたことです。醜女の醜はみにくいの意で、未完成・不調和の原理を表わします。この物語の時代から客観世界の科学原理の完成の現在まで、数千円もかかった事を思えば、この文章の気持が了解されます。

爾に伊邪那岐命、黒御かづらつれば、乃ち蒲子生りき。
 かづらとは書き連ねる、の意。またかづらは頭にかぶせることから心の装ひの意味を表わし、音図の上段であるア段の音の連なりのことです。これを仏教で華鬘といい、古代ギリシャではローレル(柱の冠)で表現しました。カサタナハマヤラの八音のことを指します。
 黒御かづらとありますから八音の中の陰性音を意味し、濁点の付けられないマヤラナの四音を指します。心の先天構造の章でお話しましたように、主体のアと客体のワを結ぶ八音の中で、陽性音であるカサタハの四音は主体が客体に呼びかける律動であり、マヤラナの四陰性音は主体の呼びかけに答える客体の応答の律動であります。伊邪那岐命は追いかけてくる黄泉醜女にこの精神世界より見た物質世界の法則を投げ与えてやった、ということです。
 すると蒲子が生った、とあります。蒲子とは知恵の言霊の書連の意です。物質世界研究に参考となる言霊の原理・法則ということであります。

是をひろひ食む間に、逃げ行くを、猶追ひしかば、亦其の右の御美豆良に刺せる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄つれば、乃ち笋生りき。
 追いかけて来た黄泉醜女である外国の文字の原理の文化思想は、よいものが落ちている、と言って拾って研究吸収しようとしました。その隙に伊邪那岐命は高天原に帰る道を急ぎましたが、更に黄泉醜女は追いかけて来ました。
 そこで伊邪那岐命は「右の御美豆良に刺せる湯津津間櫛」を投げ棄てました。右の御美豆良とは音図の右の半母音ワヲウヱヰのこと。音図の左の男柱のア行は主体であり、初めであります。それに対し右の女柱のワ行は客体であり、終りです。またア行は知性の出発であり、ワ行は結論です。ワ行を投げ棄てた、ということは物事・現象を精神原理から見た時の結論を投げ与えたということです。
 事実、歴史的に見ましても、初期の物質的・客観的科学である天文学・幾何学・東洋医学等々の学問では、アイウエオ五十音言霊の原理をそのまま客観世界の現象に当てはめて、その法則を発見したものが多かった事です。伊邪那岐命の投げ与えた精神原理を黄泉国で摂政・研究した成果でありましょう。現在の漢方医学にはその証拠が歴然としております。笋は筍(竹の子)のことで、田気の子即ち言霊から出た結論という意味です。

古事記の本文にもどります。

是を抜き食む間に、逃げ行きき。且後には、其の八はしらの雷神に、千五百の黄泉軍を副へて追はしめき。爾に御佩せる十拳劒を抜きて、後手に布伎都都逃げ来るを、猶追ひて、黄泉比良坂の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子三箇を取りて、待ち撃てば、悉に迯げ返りき。

是を抜き食む間に、逃げ行きき。且後には、其の八はしらの雷神に、千五百の黄泉軍を副へて追はしめき。
千引の石  黄泉醜女がこれを抜いて食べ、研究・摂取している間に伊邪那岐命は逃げて行きました。その後には先に話に出ました黄泉国の八種類の文字の原理(雷神)に千五百の軍隊を副えて追って来ました。
 八はしらの雷神は前に説明しましたが、千五百の黄泉軍とは何の事でしょうか。千五百とは三千(みち)の半分を意味します。物事の道理(三千・みち)が三千あるとするならば、その半分の千五百は精神の要素と現象の原理であり、残りの半分の千五百は物質界研究の道理ということになります。これが黄泉国の分担する研究分野の原理・法則です。軍は五種の意であります。五数を基本とする東洋哲学の思想もこの中に入ります。五行・五大の考え方であります。これ等の主張が自らの正当性を主張して伊邪那岐命を追いかけて来たというわけです。八くさの雷神と千五百の黄泉軍で高天原日本以外のすべての外国の文化・思想ということになりましょう。

爾に御佩せる十拳劒を抜きて、後手に布伎都都逃げ来るを、
 十拳劒とは、前にも度々出て来ましたが十数をもってする判断力のことです。精神的なことを述べるときに出て来る杖・剣という言葉は全て人間天与の判断力、哲学的に謂えば統覚のことであります。伊邪那岐命はその剣を「後手に振きつつ」逃げた、とあります。判断力を前手に振る、と言えば、一つの原理から「一二三四五六七八九十」と演繹的にいくつもの法則に発展・展開して行くことであります。後手に振る、とありますから、それとは反対方向にいくつもの主義・主張・法則等を「十九八七六五四三二一」と帰納的に唯一つの原理、ここどは十拳の剣の出所である高天原のアイウエオ五十音の原理、伊邪那岐命が心中に確立している建御雷之男神の原理に戻して行って、それら黄泉国の主義・主張が精神音図のどの位置に占めるべきものか、を判断し、整理し、それらが人類の文明を創造する役割を決定して行く方法を確立して行く事であります。この心の操作の行程を後章で「禊」と呼んでおります。

猶追ひて、黄泉比良坂の坂本に到りし時、
 雷神と黄泉軍は尚追いかけて来ました。そして黄泉比良坂の坂本に到着した。比良とは霊顕で文字のこと。比良坂とは文字の性(坂)で文字の原理のこと。その坂本と言えば外国の文字の性質の根本原理ということになります。比良坂の坂本は逃げながら自らの自覚する建御雷之男神の精神構造に照らし合わせて、外国の文字の諸法則の整理・処理法について勉強しました。そして外国文字の根本原理の処理の方法を確立したところで、高天原精神界と外国の物質的、客観的研究の世界との決定的な相違点、決して交わることのない両者の境界線を明確に自覚したのでした。

其の坂本に在る桃子三箇を取りて、待ち撃てば、に迯げ返りき。
 黄泉比良坂の坂本、物質的・客観世界の研究が高天原精神界に近づく最終極限の線であることを伊邪那岐命はしりました。その線は同時に高天原精神界の限界線でもあります。それは先に伊邪那岐命が妻伊邪那美神を追いかけて黄泉国へ出掛けて行った「殿の騰戸」でもあります。
 その境界線(坂本)の高天原側は半母音ワヰヱヲウです。そこにある桃の子三つといえば、ヱヲウの三音言霊であります。桃とは百のことで、五十の言霊と五十の操作法、敬百個の原理です。その子といえば、百個の原理が生み出した結論三つということです。この詳細はこの「古事記と言霊」のお話の総結論として後程解説されますけども、今は簡単にヱヲウの三言霊と申し上げておきます。ヱは実践知エの結論、ヲは経験知オの結論、ウは五官感覚意識の結論です。
 伊邪那岐命は黄泉国で経験した未完成の客観世界の文化や、追いかけて来た雷神・醜女・黄泉軍等の文化・法則の内容を処理する方法を研究し、自覚完成させて、その結論である言霊ヱヲウの桃の子三つ持って示しました。その素晴らしい自覚内容に驚き、到底客観世界の研究方法では到達し得ない境地であることを知って悉く逃げ帰って行きました。

古事記の本文にもどります。

爾に伊邪那岐命、其の桃子に告りたまひけらく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国に有らゆる宇都志伎青人草の、苦しき瀬に落ちて患ひ愡む時、助くべし。」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美命と号ひき。

 伊邪那岐命は桃の子に謂いました。「お前達が今、私を助けたように、今後この高天原日本の国の住民が、困難な状況に陥って苦しむ事があったら助けて上げて呉れよ」と言って、桃の子に意富加牟豆美命という名を授けました。意富加牟豆美命とは大いなる(意富)神(加牟)の豆美の実体(神)という意味です。