現代スサノウの言霊 

言戸度し

最後に其の妹伊邪那美命、身自ら追ひ来りき。爾に千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞へて、其の石を中に置きて、各対立ちて、事戸を度す時、

 古事記はいよいよ伊邪那岐・美二神の言戸度しの場面に入って来ました。言戸度しを日本書記:古事記と日本書紀の現代語訳・口語訳は「日本最初の離婚・死の呪い」と書いてあります。夫婦の離婚のことです。現代社会では夫婦の離間は珍しい事ではありません。ですから伊邪那岐、伊邪那美二神の離婚と言っても、神様の固定の出来事か、ぐらいに軽く考えてはいけません。人類の文明を創造して行く上で、人間の心の主観と客観という二つの分野の決定的な違いが確認され、宣言されるという重大事件が起ることとなります。
 初めに伊邪那岐命は妻伊邪那美命と共同で三十二の実相子音を生みました。先天十七個、後天三十二個、計四十九個の言霊が揃いました。言ってみればこれらの言霊は大自然が人間に与えて呉れた天与の性能です。次に四十九音を神代表音文字に表わしました。言霊ンです。これで言霊五十音が全部整いました。岐・美二神の共同作業はここで終り、美命は本来の自らの領域である客観世界に去って行きます。
 伊邪那美命が黄泉国客観世界に去った後に、伊邪那岐命は自らの責任で五十音言霊の操作方法の研究をし、その結果心の中に建御雷之男神という文明創造上の理想の精神構造を確立・自覚することが出来ました。しかしこの真理は自分の心にのみ確かめられる真理(自証)であり、如何なる時、如何なる場所に於いても妥当であるか、の証明(他証)は、この真理を再び客観世界に当てはめて調べて見なければ得られません。
 そこで岐命は、去って行った美命の居る客観世界研究の黄泉国に追いかけて行き、そこで不完全・不調和である客観世界の文化の内容を体験し、その不調和の姿に驚いて高天原へ逃げて来ました。逃げながら自らの持つ精神原理を投入して、外国の文化の整理・摂取の方法を研究しました。その結果、外国の客観世界の文化の内容の全てである八くさの雷神と千五百の黄泉軍とを撃退させたのです。即ち外国文化の一切を整理する方法を確立した言になります。その整理方法の確立した結論として、主体である精神界と客体である物質界とでは、その研究方法が全く違うこと、それ故に客観的学問である物質科学文明の完成を見るまで、精神文明の枠である布斗麻邇の原理は高天原日本に於いて保持・継承し、物質科学文明は四方津国である外国に於いて創造発展させて行くのが歴史的に適当である、ということに気付いたのです。精神文明創造の責任者である岐命と物質文明創造の責任者である美命はお互いに分担する世界を異にするために、ここに離婚することとなります。

最後に其の妹伊邪那美命、身自ら追ひ来りき。
 黄泉国の言葉・文字の原理・内容である雷神と文化の全ての研究内容である千五百の黄泉軍が全部撃退されてしまいましたので、最後に客観世界文明の責任者であり総閲覧である伊邪那美神自身が追いかけて来ました。ここで純主体と純客体両世界の責任者が真っ向から対立することになります。主体・客体の意義が大きなテーマとして取り上げられることとなります。

爾に千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞へて、其の石を中に置きて、各対立ちて、
 黄泉比良坂に千引の石を置き、その石を中にして伊邪那岐命と伊邪那美命はお互いに向かい合いました。黄泉国の客観的・概念的な学問・文化を、十拳の剣である言霊の原理に照らして検討し、整理して来て、その時まで主観的にのみ自覚されていた言霊五十音の原理が、他の文明社会に適応して間違いのない客観的原理でもある事を確かめる事の出来た伊邪那岐命は、黄泉比良坂に千引の石を置いて、ここまでは黄泉国の客観世界研究の領域、ここからは高天原精神原理の世界と、厳然とした一線を引いて区別した、ということであります。
 千引の石とは、千を道と解釈しますと、字引き等の言葉に見られますように、道理を明らかに示した石、即ち五十音言霊ということになります。千を血と釈けば、伊邪那岐・美二神の共同で生んだ(血を引いた)三十二の子音言霊ということです。黄泉比良坂である外国文化の文字の原理と高天原の精神文明の原理との最も際立った違いである五十音(三十二音)の言霊を配列して、両文明の領域に劃然とした区別を確定したのでした。
 伊邪那岐命は言霊母音で表わされる主観的精神世界の生命の自覚者であります。それに対し伊邪那美命は言霊半母音で示される客観的な現象世界の研究者であります。岐命は生命内容を内に観じて、生命の目的を自覚する責任者であるのに対して、美命は現象を自らの外にのみ観て、生命がどの方向に向っているのか、などの自覚については全くの盲目であり、無自覚です。伊邪那美命の努力によって現在、巨大な物質科学文明が建設されました。けれどこの科学文明を人類の福祉という目的にどうしたら適合させることが出来るか、の方策は、物質科学自体からは何も決定することはできない、という事実がよくそれを示しています。両者の住む処は、言い換えますと両者の文明創造の領域は、生命活動の二大分野として決定的な相違があります。その区別する一線として千引の石が置かれたのでした。

事戸を度す時、
 事戸を度す、とは日本書記に「日本最初の離婚・死の呪い」とありますように、伊邪那岐命と伊邪那美命が離婚をすることです。言霊の学問から言えば、事戸は言の戸の意味で、伊邪那美命の研究領域は黄泉比良坂のここまで、これより内側は高天原の精神原理の領域であって、伊邪那美命の研究対象としては手の届かない世界なんだよ、とはっきり区別し、宣言してしまった事です。その印としてその境目に言である言霊の扉(戸)を立ててしまったのです。その言霊とは主として三十二子音言霊の配列です。
 黄泉国の外国に於いても、五十音言霊の中の五母音については、東洋哲学に於いて概念的ではありますが、五行(中国)五大(印度)などで説かれており、また八つの父韻についても易経で八卦(乾兌離震巽坎艮坤)、仏教では八正道と説明されています。けれどそれら父韻と母音とから生れる三十二の子音となりますと、日本古来の言霊布斗麻邇の学問独特のものでありまして、高天原日本の精神の秘宝であり、いわば世界の精神界の奥の院に当るものです。その三十二の子音言霊を配列して、高天原精神界の結界としたのでした。

古事記の本文にもどります。

伊邪那美命言ひけらく、「愛しき我が那勢の命、如此為ば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ。」といひき。爾に伊邪那岐命詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋立てむ。」とのりたまひき。是を以ちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。

 「我が那勢の命、如此為ば」とは、伊邪那岐命が千引の石を置いて、岐命の主体的精神界と美命の客観的物質界との間に厳然とした区別をしていまった、からには…の意味であります。岐命の世界は物質を総合し、創造して行く事を基調としているのに対し、美命の客観的な研究は、物事を分析し、破壊することによって本質に到達しようとする世界です。
 物事を分析・破壊するということは、その部分に概念的な名前を付けて行くことです。ですから伊邪那美命が「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と言ったのは、必ずしも高天原に住む人々を首を絞めて殺そうという意味ではなく、高天原の言霊原理に基づいて付けられた物事の名前を否定して、分割し、経験知に従って概念的な名前を変えてしまおうと宣言した事であります。
 この宣言に対して、伊邪那岐命は「あなたがそうするならば、(世の中が乱れてしまうでしょうから)私は貴方が破壊する言葉の数より多い一日に千五百の正統な言葉を生んで、この世に流布させましょう」といったのでした。
 高天原の言葉を破壊し、乱すということについて更に考えてみましょう。例を挙げます。言霊ワに基づいた言葉に和があります。この和という大和言葉を平和という言葉に置きかえて見ましょう。それでも意味は変らないように見えます。けれどこの平和という言葉からいろいろな概念的な言葉が発達して来ます。平和を何事も起らない平穏な状態とします。けれど階級闘争で言えば、資本家と労働者との間には、相互に矛盾をはらんでいます。労働者側にとっては、常に団結し、資本者側と闘って行く事の中にのみ自分の生存の権利を主張することが出来る、と考えます。そこには何事も起らない「平和」などは抑圧された罪悪としか考えられないでしょう。労働者階級にとっての真の平和は力によって「闘い取る」より他はないと考えられます。
 しかし、言霊原理に於ける言霊ワ、それに基づく和とは絶対的な和なのです。どんなに闘争をしている時でも、殴り合いの喧嘩をしている時でさえ、双方の心は和なのです。強いて言えば、その論争も喧嘩も、更にお互いが仲良くなる為の論争であり、喧嘩なのです。大和言葉の和と概念的な平和という言葉との相違を御理解頂けたでありましょうか。
 キリスト教に原罪 original sin という言葉があります。辞書には「キリスト教で、人類の祖アダムが禁断の木の実を食べたたために、人間は生まれながらにして負うとされている罪」と説明されています。禁断の木の実とは何でしょう。生まれながらにして負う罪とはどんな罪なのでしょう。それが今お話している高天原の、神即言葉、言葉即実相である言霊原理に基づいて作られた大和言葉を破壊し、禁断の木の実と言われる人間個人の経験知より作られた概念的な言葉に置き換えてしまった事から起きる罪のことであります。
 日本の言葉でこの罪のことを天津罪と呼びます。高天原の言霊原理の言葉の法則を乱す形而上の、精神の基本に根ざした罪です。高天原の精神原理を夫伊邪那岐命と協同で創造した伊邪那美命は、その後高天原から黄泉国外国に行き、独自の客観世界研究の学問を建設するために夫神と離婚し、まず最初に実行したのが「高天原の言葉を破壊する」事でありました。その結果、創造されたのが、原罪私達の眼前で展開している物質科学文明です。この文明の中心である研究・学問を科学、即ち科(とが、罪)の学と呼ぶのには以上のような経緯があるのであります。精神文明に次いで、第二の文明である物質科学を早急に建設するためにとられた方便としての神の大ドラマということが出来ましょう。

古事記の本文を進めていきます。

故、其の伊邪那美命を号けて黄泉津大神と謂ふ。亦云はく、其の追斯伎斯を以ちて、道敷大神と号くといふ。亦其の黄泉の坂に塞りし石は、道反之大神と号け、亦塞り坐す黄泉戸大神謂ふ。故、其の謂はゆる黄泉津良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。

故、其の伊邪那美命を号けて黄泉津大神と謂ふ。
 事戸を渡して夫伊邪那岐命と離婚して、黄泉国外国において客観的な学問・研究、物質的科学文明の建設の総責任を担った伊邪那美命は、その時以来、黄泉津大神と呼ばれるようになります。「その伊邪那美命」の「その」とは、千引の石によって高天原の精神界とはっきり区別された客観世界の研究総覧者となった伊邪那美命、という意味であります。尚、その美命に黄泉津大神と「大」の字が付けられる理由は後程解説します。

其の追斯伎斯を以ちて、道敷大神と号くといふ。
 十拳の剣を後手に振って高天原へ帰ろうとする伊邪那岐命を追いかけて来て、そのために此処までは黄泉国、ここよりは高天原と、高天原精神界を自覚・完成させる結果となりました。その功績の意味で伊邪那美命を道(道理)を敷(敷)いた大神とも呼びます。

亦其の黄泉の坂に塞りし石は、道反之大神と号け、亦塞り坐す黄泉戸大神謂ふ。
 黄泉比良坂に置かれた千引の石は道反之大神といいます。道反とは、高天原の方から見れば、ここまでは高天原、これより外は黄泉国と、どちらからもそこで道を引返すこととなります。千引の石はその厳然たる道標であります。またその石は高天原と黄泉国との間に置かれて、黄泉国より高天原へ入る交通を厳しく阻んでいます。塞へます黄泉戸大神と呼ぶ所以です。
 事実、読者が言霊布斗麻邇の学問を学ぶ場合、言霊学の概要については読者御自身の持つ経験知によっても略理解することは可能です。けれど、言霊学を理解し、自覚し、この学問を以て社会に貢献し、人類の歴史の見通しを自らのものとしようとする時、ここに解かれるている「塞り坐す黄泉戸大神」が自らの心の中に厳然と立っていることを初めて意識します。そこより先の仕事は仕事には、自らの経験知の現界をはっきりと認識し、人間天与の高天原の清浄心に立返ることの必要を痛感されることとなりましょう。

故、其の謂はゆる黄泉津良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。
 黄泉津良坂とは高天原以外の外国の文化、特に外国の文字の性質ということです。でありますから出雲の国の伊賦夜坂とは地図上の地名のことではありません。それは頭脳内に次々雲の湧き出るように(出雲)現われ出で来る考え(アイデア)を言霊を用いることなしに表現した言葉という意味です。言霊である伊(言霊イ)の言葉(賦)がぼんやりとしか見えない夜の文明・文字の性質(坂)という意味の謎であります。
 さてここで、「古事記と言霊」というお話のテーマからは少々脱線気味になるかも知れませんが、今迄お話してきました黄泉津良坂に置かれました千引の石、塞へます黄泉戸大神の文章と余りにもよく似た意味の文章がありますので、ここに紹介して起きましょう。それは旧約聖書のヨブ木三十八章に見られます。
「海の水ながれ出て、胎内より湧きいでし時、誰が戸を以て之を閉じこめたりしや、かの時われ雲をもて之が衣服となし、黒暗をもて之がツムギとなし、之に我が法度を定め、関および門を設けて、曰く、此処までは来るべし、此れを超ゆべからず、汝の高波ここに止まるべしと」(旧約聖書ヨブ記三十八章八~十一)
 ヨブはイエスキリスト以前のキリストと呼ばれた人で、そのヨブ記に古事記と全く同じ意味の文章が見られることは興味深いことでありましょう。詳しい穿鑿は抜きにして、今回は字句の説明だけに留めます。「海の水ながれ出で胎内より湧き出でし時…」とは黄泉国の雷神や黄泉軍を指します。伊邪那美命の思想上の後継者である須佐男の命は「海原(ウ言霊の領域)を治らす神」であります。「雲をもて之が衣服となし、黒暗をもて之がツムギとなし」とは、雲は八つの父院、黒暗は五母音のことです。「関および門を設けて」とは千引の石を良坂に置いた事に通じます。「汝の高波ここに止まるべしと」とは塞へます黄泉戸大神と同様の事でありましょう。ヨブ記のこの文章と古事記の黄泉津良坂の記事は全く同一の事件を述べていることにお気付き頂けると思います。以上のような地球上の時も処も全く違った記述が、意味内容の同じ文章として残されているという事実は、人間の精神の根本構造の立場から見た人類歴史の考察に大きな示唆を与えて呉れるものとして、脱線的な文章を挿入してみました。ご参考になれば幸いであります。