現代スサノウの言霊 

禊(その1)

今迄長い間続いて来ました「古事記と言霊」のお話もこの「禊」の章で結論に近づいた事になります。この「禊」という言葉の最終的な操作を経て、言霊布斗麻邇の学問の総括論であります。この「三貴子」の誕生となります。この言霊学の結論となります原理は、ここ二千年の間、人々の社会から隠されて来た日本民族の秘法というべきものでありますので、この小著の上で皆様にお伝えする機会を授かりましたことは、著書にとって誠に光栄と思う次第です。
と大層なことを申し上げましたが、今よりお話する言霊学の結論が、二千年間秘められて来た日本の宝なので、と言いましても、特殊な人が特別に手にすることが出来る或る独特のものなのではありません。いとも平凡な生活をしている人が、平凡な何かを思う時、例えばサラリーマンが休日の朝、目覚まし「今日は会社は休みだな。それなら今日一日どうして過ごそうかな」と考える時、その人はどんな状態がどのように働き、「こうしよう」という結論に達するか、という心の内容とその働きを余す事なく明らかにした精神構造の学問に外なりません。
 何度となくお話したことですが、古事記の神代の巻は言霊布斗麻邇の学問の教科書です。但し普通の教科書ではありません。著者太安万侶がある意図の下に謎々の形で後世に遺した言霊学の教科書です。謎々ですから古事記をただ当り前に読んだり、自らの経験知識を以て推察したのでは、全く何を言おうとしているのか見当がつかない事となります。
 けれど一度、古事記神代の巻がアイウエオ五十音言霊学の教科書である、ということに気付き、その神話の中に出て来る神様の名前の意味を知り、その意味と読者御自身の心の内容と比べて見る時、初めて明らかに古事記が言霊による人間の生きている心の構造とその操作法を詳細に述べた書物なのだ、ということが理解されて来ることになります。
 お話を始める前に、前提となるような事を結論が近づいた今頃、何故特更にお話したかと申しますと、この「禊」の章以降に出て来ますいろいろな神様の名前は今迄に増して難解であり、自らの心を見手目て頂かないと何のことやらさっぱり分らない事になるからであります。と同時に、これから出て来る神様の名前が示す言霊の操作法の中に、言霊学を学ぶ人々にとって最も大きな問題の解決法が秘められている、という事を強調したいからであります。それは何か。
 言霊学の最も奥の院といわれる言霊三十二子音が持つ真実の姿を知るための唯一つの方法が述べられていることです。
 前置きが長くなりました。以上の事を御留意頂き乍ら、「禊」の章に入ることとしましょう。

 是を以ちて伊邪那岐大神詔りたまひけらく、「吾は伊那志許米志許米岐穢き国に到りて在り祁理。故、吾は御身の禊為む。」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に坐して、禊ぎ祓ひたまひき。故、投げ棄つる御杖に成れる神の名は、衝立船戸神。次に投げ棄つる御帯に成れる神の名は、道之長乳歯神。次に投げ棄つる御嚢に成れる神の名は、時量師神。次に投げ棄つる御衣に成れる神の名は、和豆良比能宇斯能神。次に投げ棄つる御褌に成れる神の名は、道俣神。次に投げ棄つる御冠に成れる神の名は、飽咋之宇斯能神。

 文章は「禊」の章に入りました。禊または禊祓と言いますと、現在の神道信仰では、信仰によって信者が心身を清めるために水を浴びたり、滝に打たれたりする行だと思われています。しかし、今迄説明して来ましたように、古神道言霊学に於いては決してそういう個人の魂の清浄を求めたり、罪穢の赦しを願ったりする小乗・自利の行ではありません。禊祓とは、言霊五十音の原理に照らして、一切の文化の所産を摂取して、それぞれを人類の福祉増進に役立つよう操作・運用して行く文明創造の根本となる行動のことを言います。自利でなく飽くまで利他の道徳・政治活動のことであります。語句を追って説明していきます。

是を以ちて伊邪那岐大神詔りたまひけらく、
  古事記上つ巻の文章の中では、今迄伊邪那岐神または伊邪那岐命と書かれ、伊邪那岐大神と大の字が付いたのは今回が初めてであります。では何故ここで大の字が付いたのでしょうか。唯、禊祓を行う伊邪那岐命を尊ぶというだけで大の字をつけたのではありません。古事記の著書、太安万侶の論理の緻密さがここでも想像される処であります。
 先に伊邪那岐命は妻伊邪那美命との協力で三十二の現象子音を生みました次に岐命は主体である精神の側に於いて先天と後天の五十音言霊の内容を検討・整理して、主体側の真理として建御雷之男神という精神構造の原理を完成させました。更に伊邪那岐命は、去って行った妻伊邪那美命を追いかけて行って、黄泉国外国の客観的学問の文化を経験し、その自己主張・不調和・未整理の状態を眼前にして、高天原精神界に逃げ帰って来ました。そして今や、建御雷之男神という精神構造の原理を以て、不調和・未整理の外国の文化のそれぞれをどのように取り扱い、活用整理して、人類文明を創造したらよいか、の根本法則を確立しようという段階に進みました。
 この時の伊邪那岐命とは、単なる主体の責任者としての伊邪那岐命ではなく、主体であると同時に客体であり、客体を包含した宇宙身の立場とも言えましょう。このように世界文明創造上の唯一の責任者の立場を伊邪那岐大神と呼ぶのであります。
 この大神という言葉について思い出しますのは、伊邪那岐命と千引の石をはさんで離婚しました 伊邪那美命に黄泉津大神と名付けた事です。この大神は伊邪那岐大神のそれとは意味が違います。伊邪那岐大神の大神とは客体を含んだ主体、伊邪那美命をも含んだ全宇宙身という意味であり、黄泉津大神の大神とは岐命と離婚し、文字通り単独で客観世界研究の責任者となった美の命に対する単なる尊称です。

「吾は伊那志許米志許米岐穢き国に到りて在り祁理。故、吾は御身の禊為む。」とのりたまひて、
 伊邪那岐大神は言いました。「私は大そう醜い穢い国を見て来てしまいました。ですから私の身体の禊をしましょう」とおっしゃいました、といことです。穢い、とは気田無いの意、生き生きとした精神の調和が保たれている言霊五十音図の原理のない国、即ち外国ということです。
 御身とは、先にお話しましたように、水を浴びたり、滝に打たれたりして心身を浄める身体という意味ではありません。伊邪那岐命の主観界と伊邪那美命の客観界とを一つにした全宇宙身と言った意味であります。「禊為む」とは伊邪那岐命として経験して来た客観世界の文化を自らの言霊原理に照らして整理し、文明の創造に役立つようにしよう、という意味です。

竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に坐して、禊ぎ祓ひたまひき。
 阿波岐原とは伊邪那岐の命の音図  文章をただの昔の物語として読めば、竺紫(九州)の阿波岐原なる場所があったように思われる。けれど禊祓が純粋の精神活動である事を知れば、阿波岐原が実在の場所でない事は直に了解されます。それは精神上の場所を示した謎なのです。
 竺紫とは尽す、の意で、心の全てを尽すこと。橘の小門とは、性を表わす言葉の名の音の意味で、言霊のことを示します。すると竺紫の日向の橘の小門で五十音の全部という事になります。
 阿波岐原は図を参照下さい。伊邪那岐命の音図である天津菅麻音図の四つの隅の音を五十音の代表として取り出すと、アワイヰとなります。そのうち、イヰが詰ってギとなり。アワギの言葉が生れます。原は場を意味しますから、阿波岐原で五十音言霊図表ということになります。としますと、随分長い名前ですが、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原の全部で五十音言霊図表ということになります。
 伊邪那岐大神は、この五十音言霊図表の見地に立って、黄泉国の客観的研究の学問・文化を摂取し、調御してそれぞれに所を得しめる決定的大原理の確立の仕事(禊祓)の検討に入ったのであります。

故、投げ棄つる御杖に成れる神の名は、衝立船戸神。
 投げ棄つる、とは文字通りの投げ捨てる、ということではなく、ここでは禊祓即ち種々の外国の文化を取り入れ、人類文明として行く為に、その判断の基準としての言霊を外国の文化の上に投入することであります。御杖とは精神の拠り代である人間天与の判断力のこと。仏教の禅では挂杖子と言い、剣と言い、キリスト教ではアロンの杖などと呼びます。
 それでは伊邪那岐大神は禊祓の判断の基準として何を投入したのか、と言いますと、先に内面的に完成した建御雷之男神というわれる精神構造図です。この禊祓のために投入した建御雷之男神と呼ばれる言霊図のことを、衝立船戸神といいます。衝立、とは斎き立てる、の謎です。船は人を運ぶもの、言葉は心を運ぶものです。伊勢神宮の御神体である八咫鏡は船形をした台の上に乗っています。そこで衝き立つ船戸神というのは、禊祓をするために、心の中に斎き立てられた言霊五十音の原理の戸、即ち鏡ということです。
 建御雷之男神と衝立船戸神とは、精神構造としては全く同じものでありますが、その操作の段階や用いる時と場の違いによって呼ぶ名の神名が異なって来るのであります。さて、この衝立船戸神に続いて、道之長乳歯神等五つの神名が出て来ます。この五神は禊祓の操作をするために規範として斎き立つ船戸神という精神構造を示す音図に参照して禊祓の操作を行う前に、先ず天津菅麻音図上に於いて黄泉国の文化を整理・検査する五つの検査事項を示すものと考えられます。この事を念頭において五神名の解説に入ります。

次に投げ棄つる御帯に成れる神の名は、道之長乳歯神。
 帯びに結んだり、まとめたりするもの、緒霊・尾霊の意で、物事の関連性・連続性ということであります。道之長乳歯神も同様の意味であり、道とは物事の道理ということ、長乳歯とは子供の歯が生え揃ってそれぞれが長く連続している事の意です。外国文化を整理するため菅麻音図上に於いて、その外国文化の内容の連続性・関連性について調べることであります。

次に投げ棄つる御嚢に成れる神の名は、時量師神。

 古事記の別の本には御嚢の所を御裳と書いてあるものがあるが、ここは御裳が正しいようであります。裳は百で心の衣です。また裳とは腰より下につける衣で、襞があります。天津菅麻音図の下段はイよりヰに至るイチイキミシリヒニヰと、イとヰを除けば八つの父韻が並びます。以前にもお話しましたように、八つの父韻の配列は事物の現象発生の変化のリズムを表わします。  伊邪那岐大神の御裳である言霊図の下の段の八父韻を投入すると、時量師神が生れた、とあります。時量師神を時置師神と書いてある本もあります。両方共同様の意味の言葉です。時は時間、時量(置)は検討し、決定することです。神はその働きと言った程の意味であります。  時とは何なのでしょうか。「桐一葉 落ちて天下の 秋を知る」という句があります。夏の季節、青々としていた桐の葉が、何時の間にか萎れて落葉した。「ああ、秋が来たんだな」と思います。事物の実相(姿)の変化が時の移り変りである、という事の意味が了解出来るのではないでしょうか。物事の実相の変化のリズムが時の変化です。変化する、ということがなければ、時というものは考えられません。実相の変化が時というものの内容する、ということがなければ、時というものは考えられません。実相の変化が時というものの内容でもあります。  人間が日々経験する色々な現象、それが自然のものでも、または人為的なものであっても、皆それぞれ特有の変化のリズムを持っています。そのリズムを言霊布斗麻邇の鏡に照らして調査・検討することを時量師(時置)神と言うのであります。人間の心が棲む五つの次元のそれぞれに現われて来る現象の変化のリズムを八つの父韻の配列によって見極めることです。  次に各次元に適合する代表的な五十音図の時量師を挙げることにしましょう。  

ウ次元 キシチニヒミイリ 天津金木音図
オ次元 キチミヒシニイリ 赤珠音図
ア次元 チキリヒシニイミ 宝音図
エ次元 チキミヒリニイシ 天津太祝詞音図
イ次元 チキシヒミリイニ 天津菅麻音図

次に投げ棄つる御衣に成れる神の名は、和豆良比能宇斯能神
 和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしの)を煩累の大人の神と書いた本もあります。意味は同じです。伊邪那岐大神の御衣とは心の衣のことで、五十音図を指します。和豆良比とは意味が不明瞭な曖昧な言葉のこと。宇斯とは家の主人公の意。そこで和豆良比能宇斯能神とは、五十音言霊図に照らして、わずらわしい曖昧な言葉を整理して、言葉の意味をはっきり確認する働き、ということとなります。

次に投げ棄つる御褌に成れる神の名は、道俣神。
 褌(はかま)とは胴体から二本の足が入るよう二俣に分れている衣類のこと。道俣(ちまた)も街道がある一点で二方向に分かれた場所のこと。物事の整理を行うには、表裏・陰陽・主客・前後・左右・上下等の分離・分岐を明らかに見定める必要があります。道俣神とは、言霊図に照らして物事の分岐点を明らかにする働きの事であります。

次に投げ棄つる御冠に成れる神の名は、飽咋之宇斯能神。
 冠(かぶふり)は帽子のことで、頭にかぶるもの、五十音図で言えば一番上のア段に当ります。物事の実相はア段に立って見る時、最も明らかに見ることが出来ます。そこに現れる飽咋之宇斯能神(飽咋の大人の神と書かれた本もあります)とは、飽は明らかに見て、それを言霊(霊)に組んで行く働き、ということとなります。

 以上で外国の文化・学問の上に建御雷之男神という主観内の真理の精神構造を投入して、禊祓を行う行程である衝立船戸神より飽咋之宇斯能神までの六神が示す謎々の説明をして来ました。大方の御理解は得られたものと思います。衝立船戸神という禊祓の鏡と、禊祓の前に行う外国文化の整理の方法を示す五神とを投入して、さて次にどんな事が起るか、を説くのが次に続く古事記の文章です。
 ところが、そこに出て来る神様の名前の示す謎がすこぶる難解です。今迄の神様の名前はそれが現われる時処位を知っていれば大体の予測は出来る範囲のものでありますが、奥疎の神以下の六神の名前は、ただ漫然と考えていたのでは見当が付きません。この神名を理解し得る唯一の方法は、読者御自身が禊祓を実施する立場に立って、その時に自らが経験する心の働きの内容を見極めて頂くより他にはない事であります。この事を頭に置いて、古事記の次の文章に入って行くことにしましょう。

次に投げ棄つる左の御手の手纏に成れる神の名は、奥疎神。次に奥津那芸左毘古神。次に奥津甲斐弁羅神。次に投げ棄つる右の御手の手纏に成れる神の名は、辺疎神。次に辺津那芸左毘古神。次に辺津甲斐弁羅神。

 伊邪那岐大神は、人類文明創造の大法則・大原則を確立するために、内面的真理である建御雷之男神という精神音図を自らの心の中に判断の鏡として斎き立てました(衝立船戸神)。そして高天原以外の国々で発生・発展して来る外国の文化・学問を天津菅摩音図に照らして、それ等の内容を明らかにして、禊祓がやり易くする作業が続きます。その整理作業は衝立船戸神に続く五神、道之長乳歯神、時量師神、和豆良比能宇斯能神、道俣神、飽咋之宇斯能神という神名が示す五つの要点から判断されることが示されました。
 さて、以上お話しました衝立船戸神を判断の基準となる鏡として、禊祓の実際活動が始まることとなりますが、その活動とは人間の心の中で如何なる働きとなるのか、を示すのが次に出て来る六つの神名です。並べてみますと、左の御手の手纏に成れる神の名は、奥疎神、奥津那芸左毘古神、奥津甲斐弁羅神の三神と、右の御手の手纏に成れる神の名は、辺疎神、辺津那芸左毘古神、辺津甲斐弁羅神の三神、合計六神です。この六神の神名が心の中の働きのどんな内容を暗示しているのか、を先ず神名の文字から解釈から始め、次の実際に人間の心はそれによってどう動くか、を説明することにしましょう。  

次に投げ棄つる左の御手の手纏に成れる神の名は、
 手纏とは古代、玉などで飾り、手にまとって飾りとしたもの、と辞書にあります。伊邪那岐大神の身につけた「左の御手の手纏」というのは勿論謎です。ではどんな事か。それは伊邪那岐大神が整理と判断を行う場である自らの心の構造を示す天津菅麻音図に関しての事柄です。五十音図全体を人間に見立てますと、左の御手の手纏とは、人間が両手を広げた形の左の手の飾り、音図で言えば、音図に向って一番右の縦の一列、即ち五つの母音アオウエイの並びということになります。
 上のようにように考えましと、次に出て来ます「右の御手の手纏に成れる」の右の御手の手纏とは音図に向って一番左の端の五つの半母音ワヲウヱヰの一列ということになります。
 さて左右の御手の手纏から出て来る神の名前ですが、その冠に付いている奥・編・奥津・辺津を除きますと、左右全く同じ名前の三組の神ということになります。そこで字句の説明でも、また実際の働きの解説にも便利なように、六神を奥・辺・奥津・辺津のついた三組の神名として取扱って行く事にします。

奥疎神、辺疎神(その一)
天津太祝詞音図  奥疎の奥は起、興で発端を示す積極・陽性音です。それに対し辺疎の辺は山の辺、海辺に見られるように端の方であり、物事の終局や終結の方向を示して消極・陰性音です。奥疎・辺疎の疎は古語で、離れる、へだてるの意。そこで奥疎とは物事の発端となつものを他の物からへだてる、という事になります。これら奥疎・辺疎が実際にどんな心の働きをするか、は字句解釈の次にお話します。

奥津那芸左毘古神、辺津那芸左毘古神(その一)
 奥は物事の発端・陽性音であって、音図で言えば向って右の五つの母音の側です。辺は反対に発端よりは遠ざかる物事の終結の方向で、音図で言えば向って左側の半母音の方を意味します。奥津・辺津の津は渡すの意。
 では那芸左毘古とはどんな意味でしょうか。ちょっと見ただけではさっぱり分りませんが、兎に角字句の解釈として、詳細は実際の心の働きで説明することにします。文字をそのまま解釈しますと、那芸左毘古とは総ての(那)業(芸)を助ける(佐)働き(毘古)となります。

奥津甲斐弁羅神、辺津甲斐弁羅神(その一)
 奥津・辺津は己に説明しました。では甲斐弁羅とはどんな事でしょう。甲斐は現在の山梨県の古名ですが、この場合そうではありません。甲斐は山峡などと言われる山と山との間、へだたり、の意であります。弁羅とは減らす、少なくする、の意です。そこで奥津甲斐弁羅神の全体では、発端になるもの(奥)を渡して(津)物事のへだたり(甲斐)を少なくしていく(弁羅)働き(神)ということになりましょう。同様辺津甲斐弁羅神では、終結する結果となるもの(辺)を渡して(津)物事のへだたり(甲斐)を減らして少なくして行く(弁羅)働き(神)となります。

 以上奥疎神以下六神の神名について字句のみの解釈をして来ました。しかし、多分この六神の実際の内容について読者はしっかりした理解はなさっていない事と思います。そこでこれら六神の神名が示します働きはしっかりした理解はなさっていない事と思います。そのでこれ等六神の神名が示します働きの、人間の心の中での実際の活動について解説を申し上げようと思います。この実際活動の詳細が了解されますと、古事記の編者太安万侶の人間心理に対する洞察の精細さ・素晴らしさに驚嘆せざるを得ない事となります。
 伊邪那岐大神は禊祓を実行するために、自らの心の中で確認された建御雷之男神という構造を持った音図を斎き立てました。衝立船戸神であります。この音図を判断の鏡として黄泉国外国の学問・文化を整理し、人類の福祉に役立つようコントロールします。次々に創意工夫されて持ち込まれて来るそれらの学問・文化は道の道之長乳歯神以下五神の名前で示される五つの点について心の仲で詳細に検討され、その外国の学問・文化の真実の姿が浮き彫りにされます。浮き彫りにされ、どのように処理されて行くのか、が奥疎神以下六神の働きです。これによって伊邪那岐大の主観内のみの真理であった建御雷之男神という真理が名実共に客観世界に適用されて誤りのない絶対的な大真理となります。そうなった真理が天津太祝詞音図または天照大神の八咫の鏡と呼ばれるものです。
 主観内で確かめられた鏡を他に適用して行く過程をお話申し上げるわけでありますので、度々同じ事を繰返して恐縮なのですが、読者御自身が伊邪那岐大神の立場に立ったつもりになって、御自身の心の中に実際にどんな経過が起きるか、をお考え下さると好都合と存じます。
 さて、ある一人の人間が、たとえば私自身が、自らの心の中に建御雷之男神という心の構造の音図を斎き立てました。ということは私の建御雷之男神という鏡に従って行動するのだ、と確認した事です。そして、その前に一つの問題が提出されて来ます。整理されて、確実に人類の必要な文化として仲間入りをすることが出来るか、どうか、が決定される素材としての学問・文化です。
 すると、その学問・文化の持つ特性・内容・外観等々すべてにわたって、自分本来の菅麻音図に於いて道之長乳歯神(連続性)、時量師神(音図に於ける時処位の決定)、和豆良比能宇斯能神(曖昧さの除去)、道俣神(物事の分岐点の確認)、飽咋之宇斯能神(物事の真実の姿の確認という五つの観点からの判定が立ち所に行われます。菅麻音図上の道之長乳歯神以下五神というコンピューターによって予め整理・検討された外国文化の内容が、衝立船戸神という禊祓用のコンピューターに送り込まれ、世界文明創造を可能にする数価として算出される、といった具合であります。

奥疎神、辺疎神(その二)
 そこで奥疎神・辺疎神の実際活動としての登場です。単なる帳簿のデータの整理でしたら、その内容が明らかになれば、それを新たに記入すれば仕事は終りとなります。けれど社会創造の活動に於いてはそう簡単には行きません。何故なら整理すると言っても、その提出された学問・文化にはそれを思いつき、育て上げて来た担い手である生きた人間がいる、ということです。その担い手を完全に説得し、納得させなければ整理コントロールは出来ません。帳簿の整理とはそこが異なります。
 前にも申し上げましたように、奥疎の奥は陽性音で、音図でいえば向かって右、アオエエイ五母音の側です。反対に辺疎の辺は陰性音で音図の向かって左、ワヲウヱヰの五半母音の側です。天津菅麻音図という心の構造に照合されその実相と内容がすっかり明らかにされた外国の学問や文化・価値を整理の出発点である心の中の音図の母音側に整理され、集められなければなりません。その作業工程を奥疎、即ち起である出発点に寄せて行く(疎る)事と名付けられました。
 整理されるべき物事の内容・価値が整理の出発点に寄せ集められますと、同時進行的に整理する人の心の中では、その学問・文化の価値・内容から見て、当然それが人類文化の全体の如何に位置すべきかの結論も明確に決定されます。辺疎の辺即ち音図の半母音側である結末の方向にその整理の結果が寄せ集まられるように決定されます。この働きを辺疎神と呼びます。この場合御、心の中では奥疎と辺疎は全く同時進行的に行われることでしょう。そうでなければ衝立船戸神という鏡に従って禊祓される材料とはなり得ません。
 奥疎と辺疎で整理する実際活動の出発点と結論の内容は決定しました。しかし、前にも申しましたようにそれで整理の完了ではありません。整理官僚するまでにはあと二段階の働きが必要です。それが奥疎と辺疎の那芸左毘古と甲斐弁羅です。

奥津那芸左毘古神、辺津那芸左毘古神(その二)
 社会の文化創造上、新しく発生した一つの学問・文化が持つ内容と価値、社会に占める位置等が心の鏡に照らされて決定されますと、次に、その新しい学問・文化の発想者・発見者に対して、こちらの判断が極めて妥当であり、真理に叶っており、発想者自身もそれで納得出来るような言葉が生み出されなければなりません。言葉が状況に応じて選ばれなければなりません。禊祓の行為とは言霊エの次元の現象であるのです。
 極めて卑近な例を挙げてみましょう。私の友人に一人のアルコール中毒患者がいます。朝から晩まで、アルコール気が切れることがありません。若し切れたら、心の寂しさに気が狂わんばかりになるそうです。当然年も年として血圧も上がります。何時に計っても血圧が二〇〇を下った事がないそうです。通院しているそのお医者さんは、決ったように血圧を計り、「お酒をやめなさい。そうしないと近い内に死んでしまうよ」と言うそうです。医学知識という鏡に照らして、医師の脳裏には、私の友人の健康状態の判断(現内容)と、その結末がはっきり描き出され、その現状と結末をそのまま患者に伝えているのでしょう。
 そのお医者さんの言葉は一見、正しいように見えます。けれど私の友人にとっては、kのままでは早晩死んでしまうだろうと思っているからです。しかも現在の寂しさに負けて、酒を呑まずにいられないのです。若し診察に際して、このお医者さんがもう一歩踏み込み、患者の心の寂しさの原因を突き止め、その上で患者に少しでも納得が出来る治療への道を示す言葉をかけてやることがあったら、そのお医者さんは私の友人にとって救世主とも思える人となることでしょう。言霊エ次元の言葉とは、そういう選ばれた言葉なのです。
 そこで奥津那芸左毘古神・辺津那芸左毘古神の働きの説明です。それは外国の学問・文化の発創者が納得・了解し得る言葉が創出される過程として働きです。奥である鏡に照らされた物事の実態が持つ内容・効能(芸)のすべて(那)を助け生かして(佐)一つの創造的な言葉を渡す(津)働き(毘古)、奥津那芸左毘古神とはそういう意味を示しています。
 同時に、その創造の言葉を作り出す為には、鏡の前に明らかにされた落ちつくべき結論に必ず到達することを可能にする言葉でもなければなりません。その為の働きが辺津那芸左毘古神です。辺である結論をもたらすよう(津)その結論として落ち着く全ての(那)内容(芸)を助け決定する(佐)働きの(毘古)の言葉(神)ということです。
 一つの学問や文化の持つ内容の価値をすべて生かし育て(奥津那芸左毘古)、それを同時に確定された結論としての文明創造上の位置に確実におさまることを可能とする言葉を選び創り出す(辺津那芸左毘古)働きの両方を言霊エ次元の言葉は必要とするのです。この条件が完全に満たされた言葉は、その時、その場に於いて「至上命令」となり得る言葉なのです。

奥津甲斐弁羅神、辺津甲斐弁羅神(その二)
 ここまで説明して来ますと、奥疎・辺疎の甲斐弁羅二神の働きの内容は容易に推察されることと思います。提起された物事の価値内容をことごとく摂取する(奥津那芸左毘古)ことが出来る言葉、それと同時進行しているその物事の決定された結末に確実に落着させる事が出来る(辺津那芸左毘古)言葉の二つの言葉は、心の中で一つの言葉としてまとめ上げられます。その時、奥と辺との双方から考えられた二つの内容の言葉の間は限りなくその間隔(甲斐)は狭められ(弁羅)、最後に一つの創造の言葉となります。
 この時、奥即ち発端の方に働く力を奥津甲斐弁羅神といい、結末の方に働く働きを辺津甲斐弁羅神と呼びます。これ等二つの働きによって創出された文明創造の言葉は、人類社会から一つ一つ考案・発案された文化の兆しを、その内容・価値に従って人類文明の内容として摂取し、各自所を得しめる最高の統治能力となる事が出来る輝かしい言葉なのであります。

知訶島を生みき。亦の名は天之忍男
 以上お話して来ました衝立船戸神より辺津甲斐弁羅神までの合計十二神が精神宇宙に占める区分を知訶島または天之忍男と呼びます。知訶の知は知識、訶は叱り、たしなめるの意。黄泉国外国に於いて、人間の経験知として発想された学問知識を、人類文明創造の最高の規範(鏡)に照らして、それを整理し、その価値・人類文明に占める位置を決定して行く働きの区分、という事です。天之忍男とは人間精神の典型的構造(天)の大いなる(忍)働き(男)という意味です。人間精神性能の中でこれ以上の大きな働きは他には存在しません。

タカマハラナヤサ(高天原成弥栄)
 言霊布斗麻邇の学の総結論である人間精神の最高規範(鏡)構造を示す五十音図を天津太祝詞と呼びます。その時量師は八つの父韻チキミヒリニイシ(タカマハラナヤサ)です。禊祓が行われ、その実行者が歴史創造の言葉を発する瞬間(中今)、実行者の心の中に描かれた現象創造の手順です。その言葉が実行に移された時、現実の事態はその時量師の配列の順序に従って進展して行きます。
 この章で説明しました衝立船戸神以下十二神の働きは上の時量師の前半の(タカマ)の詳しい解説であることに気付きます。鏡として斎き立てた衝立船戸神より飽咋之宇斯能神までの六神は父韻タ(チ)の内容です。タは田であり、鏡としての精神構造図です。次に出て来る奥疎神以下の六神は、鏡の前に決定された現状(カ)とその結末(マ)の双方を満足させて整理を遂行する創造の言葉(ハ)を如何にして決定するか、の手順を神名の謎で小気味よく説明したものです。

建御雷之男神という音図を心の内に衝立船戸神と斎き立てて、これを鏡として外国の学問・文化の禊祓をする時、心の中で創造の言葉がどのように作り出され来るか、のメカニズムが確認されました。そこで今度はその心の動きのメカニズムを阿波岐原の天津菅麻五十音図表の個々の言霊の動きで見る時どうなるか、即ち人間の最高の道徳の規範(鏡)となる言霊構造とその働きの確立という禊祓の最終段階の検討に入ります。それによって斎き立てた建御雷之男神なる音図構造が総結論としての天津太祝詞音図(八咫の鏡)という主観的であると同時に、客観的に適用して誤ることなき大真理として確立されます。さてそれでは主観的であると同時に客観的な真理とはどの様にして確かめらるのでしょうか。それは最終的には、その心の内容が、心の究極要素でもある五十音言霊、特に実相の最小単位である三十二の子音によって構成されている構造とその働きとして、確認されることでありましょう。古事記本文を進めることにしましょう。