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歴史創造の心

 古事記神代巻は度々言う如く歴史書ではなく神話の形式をとった言霊原理の参考書である。そのうち天之御中柱神より建速須佐男命までの言霊百神は言霊五十音とその操作方法五十を表わし、その後の神話は言霊原理の応用問題である。
 古事記の天照大御神と須佐男命との「誓約」の章は先に述べた七夕の祭の織女と牽牛の出会いの出来事の内容を更に詳しく説いている。三千年及至五千年の間人類の第二文明の創造と権力を以てする世界統一に従事した須佐男命の後裔であるユダヤ民族が、その魂の故郷である高天原日本にその成果を携えて報告する為に参上って来る。この須佐男命を迎えて天照大御神は装いを整えて対面する。天照大御神が身につける八尺の勾玉の五百津の御統の珠とは精神の究極原理である言霊布斗麻邇であり、須佐男命が身に装う十拳剣とは事物の構造変化色相を判断する科学原理である。誓約とは相手が持っている原理をお互いに受けて開いて検討し合うことを意味する。この原理の照合の結果、高天原の天照大御神は精神原理である布斗麻邇の立場から弟神の客観世界の科学の原理法則が真理であることを確認・証明し、現実界の須佐男命は科学の立場から姉神の言霊原理が真理であることを認識し証明することとなる。これが「誓約」の実際である。古事記はこの誓約の結果五男神三姫神の誕生の話を伝える。五男神とはアオウエイの五である宇宙実在のすべてであり、三姫神とは天地人・正反合の三を基本とする科学原理である。
 唯一の生命現象は、これを精神の側から探究しようと物質の側からの研究であろうとも、出て来る答えは一つでなければならない。唯違うのは表と裏ということである。天照大御神の精神文明と須佐男命の科学文明とが照合されて、お互いにそれが真理であることを証明され得るのはここに根拠がある。とは言えこの照合と相互証明が可能となる為には、その精神原理も物質原理も共に究め盡された結論でなければならない。研究途上の予想・仮説又は信仰上の基本要求などでは物の用に立つ事ではない。精神原理は八千年以前己に言霊布斗麻邇の原理として発見・活用され今日着々と昔あった如く復元自覚されつつある。そして今や物質科学も漸くにして完成されようとしている。有史以来初めて精神と物質の原理の照合がここに可能となるのである。人類が新しい時代に入る第一歩の仕事はこの照合でなければならない。
 以上の如き天照大御神と須佐男命との出会い・照合に際して、舞上り来る須佐男命をこの高天原日本に迎え、両原理の照合の会議を主催し、両文明を総合止揚して人類の第三文明の創造に向う主体は飽く迄精神文明である布斗麻邇の側の仕事である。即ち言霊五十音布斗麻邇の原理を伝統として保持し、その原理に則して制定された大和言葉を使う天孫民族であるわが日本人の責務なのである。それ故に天孫民族としての日本人の現在為すべき第一の仕事は五十音言霊の勉強と自覚体得であろう。言霊布斗麻邇の原理の奥義の理論的解明は急速に進んでおり、人類歴史の当面の諸課題の解釈と対処の方法を決定するに事欠く事はない。それ故世界の招来を危惧しその運命の転換に責任を感じる志ある人ならば誰でもその原理を修得と体現が可能である。唯一の条件は日本語が話せる事のみである。日本語のみがその原理を具現した言葉だからである。そしてこの原理の体得者の地球上での再現が諸宗教で待望される仏陀の下生・キリストの再臨の真の意味なのである。
 度々言うことであるが、世界の各地でてんでばらばらに営まれる人々の行為の合計がそのまま世界の歴史であるのではない。天津日嗣天皇の文明創造の経綸即ち人間を人間たらしめている言葉の限りなき発展が人類の歴史である。それ故に天津日嗣であるにんげんという種の究極精神原理である布斗麻邇の自覚に立つ時、言い換えるならば人間精神の実在体であるアオウエイ五母音の重畳する構造を確認し、その実在より発現する諸実相の色相変化の原律である八父韻の認識を完成する言霊イの創造親神の立場に立ち、言霊アである大慈悲の心より人類の歴史の流れの中で過去にあり現在に起りつつある歴史現象のすべては、永遠の生命を享け継ぐ我自らが〝そうあれ〟又〝かくあれ〟と決定し創造し来ったものであることが明らかに了解されるのである。それ故にこそ又世界人類のすべての声を自己の生命全体で聞き、これに新しい生命の息吹を与えて言霊原理に則り〝かくあれ〟と決定し宣言しその如く実現することが可能である。宣言は当為であり宗教に於ける基本要求などではないからである。以上の如き世界歴史経綸の大慈大悲の心を天津日嗣の大御心と呼ぶのである。