現代スサノウの言霊 

言霊と聖書

 言霊の原理がキリスト教の聖書の中にはどのように表徴比喩として現わされているでしょうか、いくつかの例を挙げてみましょう。
 言霊を知った人がまず聖書の中で眼に入るのは新約ヨハネ伝第一章冒頭の言葉でしょう。「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき、この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし、之に生命あり、この生命は人の光なりき」太初に言ありとは明らかに言霊のことであります。神とは生命の根源であり、名であり言霊です。生命の創造意志そのものである言葉即ち言霊です。その言葉とは一般に使われる言葉ではなく、その日常の言葉を言葉として成立させている言葉の言葉、言霊のことを言っています。この消息を聖書は別の表現で次のようにも説いています。
「元始に神天地を創造たまへり。地は定形なく昿空くして黒暗淵の面にあり。神の霊水の面を覆たりき、神光あれと言たまひければ光ありき、神光を善と観たまへり・・・」(創世記第一章一ー四)元始とは先にお話しましたように宇宙の天文学的、地球物理学的な初めのことではありません。常なるいま・ここの、何もないところから人間の意識が産まれて来る消息についての記述です。神が光あれと言わなければ光はありません。創造意志が事物を生みます。「太初に言あり」も「元始に神天地を創造たまえり」と全く同様な事実内容の表現なのです。現象が起こり、それを認識し、言葉で表現することが生命の創造活動です。この活動を人間の創造意志直後の言葉である言霊の立場で考える時、ヨハネ伝の言葉も創世記のそれも同様の記述として理解することができるようになります。
 次に聖書のエデンの園について考えてみましょう。
エデンの園 創世記第二章には「エホバ神エデンの東の方に園を設け其造りし人を其処に置きたまへり、エホバ神観にうるはしく食うに善き各種の樹を土地より生ぜしめ又園の中に生命の樹および善悪を知るの樹を生ぜしめ給えり。河エデンより出て園を潤し彼岸より分かれて四つの源となれり・・・」とあります。
 右の創世記の文章だけでは何のことだか意味がとり難いのですが、これが人間の精神構造の図として言霊図を呪示するものと考えますと、その意味が極めて明瞭となります。図を参照して下さい。
 言霊五十音図で見ますと、五つの次元宇宙である母音より発現して、それぞれの次元に現象を現わし、最後に結果である半母音に終わります。経験知はこの現象をふりかえることから得られます。その結果に到る筋道は生命活動の流れすなわち川です。
 欲望の川はウ-ウ、知識の川はオ-ヲ、感情の川はア-ワ、道徳の川はエ-ヱ、創造意志の川はイ-ヰとそれぞれ流れます。これら五つの川の流れの全体が人間生命の活動です。この言霊図を参照してエデンの園を作図して見ると図のようになり、エデンの園の意義が明瞭に示されます。この内言霊五十音図と違うところは、創造意志である言霊そのものすなわちイ-ヰの流れを明示せず、代わりに新約における祈りの言葉「天に在す父なる神よ、御名をあがめさせ給え」としてキリスト教信仰の究極の目標として呪示するに留めたことであります。それゆえキリスト教で予言され待望されるキリストの再臨とは、この父なる神の名、言霊、特にその内の父韻の自覚のことに他なりません。
 人間精神の究極構造としてのエデンの園の実体である言霊図の知識がないと聖書の意味が極めて曖昧になってしまう一例をお話しましょう。旧約出エジプト記三章十三節「モーゼ神にいひけるは我イスラエルの子孫の所にゆきて汝らの先祖等の神我をなんぢらに遣わし給うと言んに彼等もし其名は何と我に云ば何とかれらに言うべきや。神モーゼにいひたまひけるは我は有て在る者なり。又いひたまひけるは汝かくイスラエルの子孫にいふべし我有といふ者我をなんぢらに遣したまふと」右の文中の"我は有て在る者なり"または"我有りといふ者"それが神の名だといわれても何のことだか明瞭には理解しかねます。"我は有て在るものなり"を英語の聖書で見ますとI am that I amとあります。これに言霊図すなわちエデンの園の意味を総合しますと意味がはっきりしてきます。最初のI amは「神は是々である」です。次のthat I amのIはモーゼすなわち人間です。人間が人間であるべきもの、言い換えれば人間を人間たらしめている者ということです。ですから「神は人間を人間たらしめている者なり」という意味となります。人間精神の究極構造を探究することなしに外国語から聖書を翻訳した人の曖昧さが「ありてあるものなり」という不明瞭な訳をなさしめた間違いといえましょう。人間を人間たらしめている究極実在が神です。それ以外に神はなく神とは五十音言霊図です。
 黙示録二十一章をみましょう。
 我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神の許をいて、天より降るを見たり。…曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して…」
 上記の聖なる都、新しきエルサレムとは何のことでしょう。もちろん、神である人間生命の根本構造の原理のことでなければならないでしょう。エルサレムの町は日本の京都の市街のごとく、町筋が縦横に碁盤の目のごとくなっていて、ちょうど古事記における天照大御神の造田と同じく五十音言霊図を呪示しているのです。この精神の根本構造が、時到って人々に新しく理解され運用されるならば、神の幕屋は人と偕にあり、人は神の民であることを真に自覚することになります。神の幕屋は人と偕にあるとは、古事記流にいえば神鏡の同床共殿ということであります。さらに二十一章を見ましょう。「われ都の内にて宮を見ざりき、主なる全能の神および羔羊はその宮なり、都は日月の照すを要せず、神の栄光これを照し、羔羊はその燈火なり・・・」キリスト教でいわゆる生命の樹とは言霊五母音のことであり、知識の樹は言霊半母音で、また創世記にある「我わが虹を雲の中に起さん是我と世との間の契約の徴なるべし・・・」(第九章)の契約の徴とは、また「天に在す父なる神」とは、言霊父韻のことを呪示しています。この母音、半母音、父韻の自覚された精神原理によって社会を見るならば、すべて世界の出来事の時間的、空間的意味内容が明瞭に把握され、その知恵の光に照らし出されて余すところがありません。日月の照らすを要せずというわけです。禅ではこのことを「扶かっては断橋の水を過ぎ、伴っては無月の村に帰る」などと表現します。この人間本来備わった知恵が自覚されてあるならば、橋の落ちた川も渡ることができ、月のない真暗な村にもちゃんと帰りつくことができる、というわけです。そして地球規模の公害増大で風前の灯にある世界も、この知恵の光によって見る時、初めて人類の新しい生命をどこに見い出すことができるかが明らかにされるでしょう。各宗教を信じる人々にいまはっきりお伝えすることができます。「予言された弥勒下生とは、羔羊の再臨とは、その時はまさにいまであり、そしてその実体が言霊五十音の原理である」ことを。
 以上、日本神道、仏教、キリスト教の教義と言霊原理の密接な関係を種々お話してきました。
しかしこれからはそれらの関連のごとく一部を挙げたに過ぎません。このように世界の各地に発生し伝播したこれらの教義がどうしてこれほどまでに類似しており、同じ真理を指向しているのか、またそれぞれの宗教の予言がどうして同一の期待を将来に託するのか、以上の意義は読者の皆さんがご自身で言霊の原理に深く立ち入って研究を進められる時、おのずから明らかになっていくことでありましょう。このことの詳細はさらに後の章に譲ります。
 言霊と諸宗教との関連の最後に、言霊とピラミッドを挙げることとします。
 言霊の道である日本神道でいう天津太祝詞音図を陰陽にとった図形を挙げます。これは人間の心の持ち方として最終的理想の言霊配置図です。
 図形の中心にフルフルと四字が入ります。この四字を把んで上に引き上げますと、五段階のピラミッド型の立体形が得られます。この図形のことを古神道では高千穂の奇振獄と名付けます。高千穂の峰に降臨した天孫が霊的に(奇)振るう(フル、運用する)山型の(ダケ)言霊図ということです。この図形で示される原理を象った大きな墓を造り大王の亡骸を収め永遠の生命を祝福したのがエジプトのピラミッドです。ギゼーの大ピラミッドの前に座っているスフィンクスは尋ねて来るエディプス(ギリシャ神話)に「人間とはそも何か」と質問をします。その決定的な解答は後方に立っているピラミッド、すなわち人間霊性の構造図形だというわけです。
 メソポタミヤ地方に発見されている古代のジグラートも同様に言霊の立体構造を建造物として象徴したものであることに間違いありません。