現代スサノウの言霊 

言霊子音の自覚について

 今まで母音ならびに父韻を自分の心で確認するのはどうしたらよいかを私の体験を例の説明してきました。母音と父韻が出揃いました以上、父母の生む子音はどうして確認するのかの話に当然なるわけであります。
 子音の自覚確認の方法を説明する前に、順序として、母音ウ・オ・ア・エ各次元に住んでいる人がそれぞれどんな手順を踏んで目的達成に進むか、それが八つの父韻の配列によって表わさされることの説明を終えておきましょう。住んでいる次元が違いますと、考え方言葉から、発想・手段・目的まで相違してきます。右に一つの図表を掲げましょう。
 前の章で示しましたように、八つの父韻の頭脳内の働きを理解したうえで言霊母音ウオアエの各次元に住む人の目的遂行の心の運び方すなわち八父韻の配列を見ますと、比較的容易に理解することができます。上図は言霊ウオアエ各次元に住む人がそれぞれどのような創造意志の配列のパターンを持っているかを横に並べて示したものです。古事記ではこの八つの父韻の配列を「時置師」と呼んで、それぞれの次元に住む人が、目的遂行のために時の経過に順って変化させる意志発動の変遷を説明しています。図表を見ましょう。

 言霊ウの次元にうずくまって明け暮れ欲望の世界に没入している人は、自己の本性が実は広い宇宙そのものなのだという自覚がありません。それゆえその心の手順の初頭に立つべき母音の自覚を欠きます。母音の立つべき第一行を空白で示した所以です。次に八父韻配列の第一番目は父韻キで始まります。最初に母音の自覚がありますと、その行為は宇宙全体の具体化活動として父韻チから始まるはずですが、自己本来の面目(禅の言葉)の自覚がありませんのでその心の手順は自分の心の中に欲望の一つを掻き寄せること、すなわちキで始まります。
 以上人間の行動の手順をその行為の底に働く純粋意志の力動の状態によって捉えてのお話でありますので、八つの父韻を確認して頂けば自然に全体が理解することができるのであることを心にとめてお読み下さい。
 掻き寄せられた欲望の目的が心の中心に静まり不動のものとなります(シ)。その次にチが続きます。自己本来の面目の自覚があれば、この父韻が示す現象は宇宙全体または全身全霊などに関係したものとなるはずですが、いまの場合はこの自覚がありませんので、ここではチはその人間の経験・知識・信条といったものの総体を示します。自我欲望が決まれば(シ)、その達成のために経験・知識・信条等の全部(チ)の中から選ばれた名分(ニ)が煮つめられ、その名分に都合のよい言葉(ヒ)が生み出され、その言葉が他の人または社会に向かって(ミ)動く(イ)。しかしこの動きはとめどもない欲望の世界へ進展して(リ)極まることがない。父韻の配列がリで終わることは、欲望の目的と思われ追求されてきたものは次の欲望の発端なのであって、この世界が際限のない流転の相であることを示しています。心中のこれで完結という終わりはあり得ません。そのために最初の母音イと共に最後の半母音ヰをも欠如することとなります。欲の世界がややもすると目的のために手段を選ばず、否、目的のために他のいかなる次元の人間の性能も踏みつけにする傾向は、この父韻の配列の内の、キシチニがよく示しているところであります。欲望の達成のためには知識も人の感情も道徳心もすべては手段にすぎないのです。

 言霊オの段階に埋没している人も、その探究する学問の究極においてはいつの日か宇宙全般を解明することができるであろうという希望は持っているかもしれないけれど、自己の本性即宇宙なる自覚はない。図表の第一列が母音の自覚を欠き空白となる所以です。
 父韻の配列の初めはキです。何かの現象を見て疑問を感じる時、それを心の中心に掻き寄せ(キ)る韻です。その疑問をいままで蓄積された経験・知識全体(チ)に照合して、いままでの知識と疑問とが統合され止揚されるであろう理論を志向し(ミ)て、言葉として組み立て(ヒ)、検討されて正しいと心に決まれば(シ)、その理論より行動の名目(ニ)を立て、行動し(イ)、次の事態へと発展して(リ)いきます。この心構えもいま・ここの一瞬の中にそれ自体で完成した体系でなく、結論が次の疑問の初まりとなり際限なく続くものです。ウ段と同様最終列の半母音の自覚を欠如します。
 右のキチミヒシと続く心構え・心の手順のことを正反合の弁証法と読んでいます。概念的理論探究である限り必ずこの手順を踏むほかはありません。この弁証法を図示しますと△の三角形があてはまります。△が形而上学的弁証法、▽が形而下的弁証法です。二つ組み合わせた形カゴメ図 は大昔より「カゴメ」と呼ばれ、人間の考え方の一つのパターンを表わしてきました。それは現象の分析を推進してそのかなたに完全な真理を発見しようとする帰納的方法です。このカゴメの形にちなんで大昔から歌われている童謡「カゴメ、カゴメ、カゴの中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩に、鶴と亀が出会った。後ろの正面だーれ」の比喩している真の意味を紹介しておきましょう。カゴメはいま説明しました弁証法的思考法則のことです。またそれは西洋的な考え方のことでもあります。鳥とは十理でア・タカマハラナヤサ・ワと整った人間精神の理想的な心の鏡のこと。すなわち、同床共殿の廃止以来世界の科学的弁証法的思考一色の篭の中に閉じこめられている言霊の原理はいつこの世の中に再び現われるのか。それは夜の闇すなわちこの末法の道徳的闇が一番濃くなる夜明け前の時に、鶴すなわち剣(天与の判断力の自覚体である天津磐境)と、亀すなわち鏡(人間精神の究極的理想構造を言霊の配列をもって示した五十音言霊・天津神籬・八咫の鏡)とが、一つの理論体系として人間の自覚の上に完成した(出合った)時である。あなたを実際にあなたたらしめているあなたの後の正面にいるのは誰ですか。…これが童謡の隠された意味であります。大昔、五十音言霊図は粘土板に刻まれて焼物にして保存されたため、これを甕と呼びました。亀は甕に通じます。

 言霊アの次元とは宗教家や芸術家の心です。そのア段の父韻の配列はイ・チキリシヒシニミ○です。アの次元に至って人は自己の本性即宇宙であることを自覚します。母音の自覚を得ます。それゆえ現象となる父韻の配列の第一には宇宙そのものが現象となる韻であるチとなります。ア次元でありますゆえ、その行動の最初は感情の宇宙がそのまま発露されることを示します。その次に、その時、そのところの一つの関心事あるいはテーマが、心の中から掻き寄せられ(キ)、心の中いっぱいに発展拡大されて(リ)、一つの表現を得(ヒ)、その表現が心の中に行動の目的となって固定され(シ)、そこから行動の名目が定まり(ニ)、それが行動となって動き(イ)、その方向のかなたに目標の実現があるであろうことを指し示し、訴えます。(ミ)。八父韻の配列の最後がミで終わることは、その指示するものが基本要求であり未来の目標であるに留まり、いま・ここの一瞬において完結した思考体系でなく、結論は時の経過に委ねられます。半母音の自覚を欠くことになります。

 次に言霊エの次元にいる人の心の運び方について考えてみます。この段階はイ・チキミヒリニイシ・ヰの十個の配列で示されます。第一列の母音イの存在は完全自由な宇宙意識が成り立っていることを示しています。第二列よりの父韻はチで始まります。父韻チは精神宇宙全体が直接現象として姿を現わす韻です。次に父韻キ・ミが続きます。キ・ミは宇宙の中にあるものを掻き寄せ(キ)結びつく(ミ)韻です。ところがいまは言霊エ次元のことです。とすると掻き寄せ結びつく心の働きとは主体の状態と客体の状況を見定めることを意味します。宇宙意識の前にあって、言いかえますと、何ものにも捉われない精神全体の光に照らされて、主体と客体の実相がはっきり把握されるということです。次に父韻ヒがきます。ヒは表面に開く韻です。把握された主客の双方を満足させ創造に向かわせる言葉が生み出されることです。その言葉は心いっぱいに推し拡がって(リ)いくと、心の底に行動の確固たる名目が定まり(ニ)、それが心を推進し(イ)、結論に向かって集約して行き(シ)ます。そしていま・ここにおける心に完成された結論・結果が確定されます。半母音ヰで終了します。

 以上言霊ウ・オ・ア・エ次元に住む人の心の運び方についてそれぞれ検討してきました。それぞれの精神運用の代表的な思想といいますと、言霊ウにおいては欲望に基づいた産業人の心が挙げられ、言霊オでは広く学術科学に従事する人々の心が浮かびます。世の中の発展にとって双方とも欠かすことのできない重要な分野がありますが、それに従事する人々は競争場裡に埋もれて日夜心の休まる暇とてありません。母音・半母音を欠くことがその精神的自由が完全には無いことを示しています。古事記ではこの思想のことをスサノオの命の八拳剣と呼び、母音・半母音を欠いた八父韻のみで表示される精神体系であり、日夜現象のみを追いかける次元であることを比喩で示しています。
 次に言霊ア次元の心構えですが、母音の自覚はあるが、半母音を欠き、そのため、心の運びの最終結果は基本要求であるに留まり、結論は常に訴えられる先方に委ねられています。これは神道では九拳剣と呼ばれその代表的な思想としては東洋の哲学、宗教理論が考えられています。言霊エ次元に至って初めて母音、半母音の自覚が整い、神道で十拳剣と呼ぶように十音が横に揃って完全な五十音図そのままの思想体系の自覚が成立します。ここではいま・ここの一念の内に発端も結果も見通された自由で円満無礙な精神の完成がめざされています。この心の持ち方の代表的なものといえば、仏教でいわゆる菩薩行が挙げられます。先にも説明しましたように、魂の自由の自覚を得た人が、さらに一念発起して自分以外の人にもこの自由を自覚してもらうために、どのように他人に対処していけばよいかの修行のことです。そしてこの修行の進展の末に人間の最高の精神図式の完成された人を仏教で仏陀と呼びました。過去の世界の聖者・高僧といわれる人々が、この人間精神の完成をめざしてどれほど修行渇仰してきたことでしょうか。
 我聞く天台山 山中に琪樹有り 永言して之を攀ぢんと欲すれども 石橋の道を暁る莫し 此に縁って悲歎を生じ
 幸居して将に暮れんとす 今日鏡中を観れば 颯々として鬢髪垂れて素の如し
 (註)琪樹とは宝の実る樹、仏教では宝とは摩尼宝珠のこと、
    石橋とは此岸より彼岸(仏の国)に渡る橋。素とは白糸。
 上は中国の聖僧寒山の詩でありますが、彼が悟りの究極にある摩尼宝珠といわれるものの実体の自覚をいかに渇仰し、それに達し得ない自分を嘆いていたかを示しています。「五十年一字不説」釈尊は五十年間説教をしたのですが、実は仏の実体の真理の存在を説いたのであって、真理そのものは一言も説いたことがないといいました。皮肉にも仏教からは仏は現われることはありません。仏の護持する究極の心理それは五十音言霊の原理なのです。

 言霊エ次元にある仏教の菩薩位に二種類あることをお話しましょう。一つは因位の菩薩といい、もう一つは果位の菩薩と呼ばれます。因位の菩薩とは法華経に出てくる浄行。上行等の菩薩がそれで、先に説明しましたように自らは本性である宇宙意識の自覚をもち、さらに業苦に沈んでいる他の大勢の人を救わんと努力し、その努力の結果、究極において人間精神の完成体である仏をめざす人であります。その救済の行の心の運び方についてはすでに父韻の配列でお話しをしてきました。
 次の課位の菩薩とは観世音・普賢・勢至等の菩薩が有名で、因位の菩薩とは違ってすでに仏の位に住まわれたその仏が衆生済度のため下生してきた菩薩のことをいいます。この菩薩の救済の心の運び方であるイ・チキミヒリニイシ・ヰの配列の実際は因位の菩薩のそれとは全く違ってきます。宇宙即我の自覚によって母音イが確立していることは因位の菩薩と違いはありません。相違は次の第一の父韻チのところで起こります。因位の菩薩においてチは単に宇宙自体が直接現象として現われる韻であり、全身全霊というほどの意味でありました。ところが果位の菩薩とは既に仏の位を得た人です。この菩薩は宇宙全体を既に五十音言霊として把握しています。それゆえ父韻チは単に宇宙全体とか全身全霊とかいうだけでなく五十音言霊図特に菩薩の次元である言霊エの次元の規範である天津太祝詞音図として現われます。精神宇宙に起こるいかなる現象もこの精神の究極規範である五十音の鏡の前に偽りのない実相となって写し出されます。それゆえに、次に続く主体客体の実相であるキミは五十音の鏡に照らされてその時所位が決定的に見定められます。主客の実相が明らかにされれば、この二つを統合して新しい創造はどんな形をとるかはおのずと言霊図に基いて決定されます(ヒ)。言霊のうえで決定された言葉は一般の世間の言葉の世界に拡大され(リ)、行動の名分が定まり(ニ)、行動が起こり(イ)、結論として終結に向かい(シ)、結果が事実として確認されます。半母音ヰが成立します。
 人間の精神進化の最終段階は言霊イ次元です。五十音言霊の世界です。その五十音言霊図を心の鏡として言霊エ次元の選択創造の心の運び方を会得しますと、人間社会・人間文明を運営してゆく最も確実な手段・方法をいつも明示することが可能となります。
 そして重要なことは、この仏教で比喩的にいうところの果位の菩薩の衆生救済の心の運び方の図式が、またとりも直さず、私達が言霊子音を自覚確認するための方法・手段でもあるのです。もちろん私達は仏陀ではなく、五十音図が心の中に確立成就しているわけではありません。けれども先に検討しましたごとく、父韻チキミヒリニイシのそれぞれの生命意志の活動のリズムについて知っています。また父韻がチキミヒリニイシと並ぶ心の運び方とは、いま・ここの一点における社会的創造に言霊ウである欲望と、言霊オである概念的探究と、言霊アである感情面とを、どのように選(エ)らんで運営していけば理想的社会を実現し得るかの運用法を示しているのだということを知っています。ですからいま社会的に創造活動を起こそうとする時、心に自分が学び覚え知った限りの五十音図を行動の鏡として掲げることです。このことを古事記では「衝立船戸神」と神様の名前で呪示しています。五十音図を神道では御船代といいます。五十音図を心の戸として斎立て(衝立)よとの意味です。そのうえで主体と客体の実相を明らかにし、キミ双方を総合する言葉を言霊のうえで検討し(ヒ)、その言霊での言葉を拡大させて(リ)、行動の眼目(ニ)ができ上がり、行動として動き、結論が確定(シ)する。このような、一般にいう道徳・政治または個人的な選択行為の実行の中に、言霊子音は一つ一つ内観自覚されていくのです。すなわち言霊ウ次元にある欲望を主体とする人との対応行為の中にツクムフルヌユスの八子音が、次の言霊オ次元に住む概念的探究をこととする人に対する行為の中にトコモホロノヨソの八子音が、また言霊ア次元にある感情を主体とする人に対する創造行為のうちにタカマハラヤサの八子音が、それぞれ、言霊エ段に立って救済行為をする主体の側の心の中に焼き付けられるがごとく自覚されてくるのです。と同時にこれら三種の対応行為の自己の内面の実相としてテケメヘレネエセのエ段の子音をも確認することができます。この合計三十二子音の自覚の成就が人間精神の理想体系の実現であり、仏教でいう仏陀、キリスト教の救世主、儒教の「心の欲する所に従って矩を踰えず」の出現を意味します。