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1.「ナンバー・ワン」の脅迫観念

人生とは、だれにとっても、絶え間なく競い合いを続けていくものになっている。目覚まし時計がけたたましい音をたえる瞬間からふたたび眠りにつくまで、よちよち歩きの子供のころから死ぬその日まで、他人を打ち負かそうとあわただしくしのぎを削る。これが、職場においても、学校においても、また外で遊ぶ時でも、家に帰ってからも、われわれがとっている姿なのである。これが、アメリカの生活に普通に見られる特徴なのである。
私がしたいと思っているのは、他人を打ち負かそうとする行為が実際にどのような意味をもつのかということに目を向け、ある人々が勝利するためには別の人々が敗北しなければならないような仕組みがどのようなものなのかについて、目を凝らして考察してみることである。
それぞれの文化が程度こそ異なるが、色々な意味で競争に依存している。その程度におうじて、経済システム、学校教育、レクリエーションが組織化されるのである。一方の極には、競争がまったく存在しないままに機能している社会がある。そして、もう一方の極には、アメリカの社会が存在しているのである。
競争がアメリカ社会だけに見られるものだという意味ではない。アメリカの経済システムは、競争に基づいている。学校教育も、一年生のころから、他人に勝つだけでなく、他人を自分の成功をはばむ障害物とみなすように訓練するのである。余暇の時間にも、きわめて組織的に行われるゲームが目白押しであり、一方の個人ないしはチームが、もう一方の個人ないしチームを打ち負かさなければならないのである。家族の間でも競争が存在しており、もの静かなうちにも、命がけの闘争が行われ、賛同は貴重な商品としてあつかわれ、愛は勝利のトロフィーになってしまう。
われわれは、競争行動に熱中するだけでなく、ほかのもの、ほとんどすべてを競争にかえてしまうのである。集団が発揮する創造力も、勝者と敗者をつくりだすあらたな方法の開発になっているように思われる。もっと生産性をあげるためには、職場の同僚と闘うだけでは十分ではない。もっとも忠実な従業員というタイトルをかけて競争しなければならないのである。われわれは生活のどこをとってみても、自分を他人と比較して評価するように強制されるのである。
現代においては、ビジネスにおける競争にもっとも顕著にあらわれているように、競争はまさに時代を象徴するものになっている。
この問題をもっと正確に定式化することからはじめよう。わたしは、いわゆる構造的な競争と意図的な競争とを区別したほうがいいと思う。前者は状況について語ったものであり、後者は態度について語ったものである。構造的な競争は、勝敗の枠組みを取り扱うもので、外在的なものである。それに対し、意図的な競争は、内在的なもので、ナンバー・ワンになりたいと思う個人の側の願望にかんするものである。
ある競争が構造的な競争にあたるといえるのは、お互いに排他的な目標達成(MEGAと略記)を特徴としているからである。簡単に言えば、自分が成功するためには相手が失敗しなければならないということである。否定的な意味においてであるが、我々の運命を結びついているのである。例えば、ポーカーゲームのように、まさに相手が勝利すると自分が敗北しなければならない場合は「セロ・サム・ゲーム」ということになるであろう。しかし、MEGAの構図においては、ふたりないしはそれ以上の個人が、互いにだれもはたすことができない目標を達成しようとつとめているのである。何人かの社会学者が見抜いているように、これが競争の本質なのである。
競争は、教室や職場を組織化するための唯一の手段ではない。

三つの目標達成の方法

①競争による目標達成というのは、他者との対立した働きかけを行うことを意味しており、
②協力による目標達成というのは、他者とともに働きかけを行うことを意味しており、
③独立した目標達成というのは、他者とはかかわりなく働きかけを行うことを意味している。
個人や文化について競争的であるとか、個人的であるとかいわれることがあるが、競争的であることと個人的であることは同じものではないということを認識しなければならない。だれかほかの人間が成功しないときのみ、ある人間が成功しうるということと、ほかの人間が成功するか、失敗するかにかかわりなく、ある人間が成功することはちがうのだ。ほかの人間が成功することと自分が成功することとは、競争の場合にも、協力の場合にもかかわりがある。そして、独立して働きかける場合には、競争も、協力も、両方とも無関係なのである。
もう一つの選択肢である協力という言葉は非競争的なだけでなく、目標を達成するためにともに働きかけることをもとめる仕組みにかんするものである。構造的な協力というのは、相手が成功した場合には自分も成功できるのだから、相手の努力と自分の努力を調整しなければならないということを意味している。報酬は、集団でなしとげたものにもとづいてえられるのである。構造的な協力は、利己主義と利他主義というごくありふれた二分法を否定してしまう。この協力は、相手を助ける事が、同時に自分自身をも助けることになるというように、状況設定を行ってくれるのである。
競争を支持する主張は、そのほとんどがあやまった情報にもとづいている。

それは、とくに四つの神話を中心にかたちづくられている。

一、競争は人生において避けられない現実であり、「人間性」の一部になっているというものである。
二、最善をつくすように動機づけるものが競争なのだということ、もっと厳しい言い方をするなら、競争しなければ生産的では無くなってしまうというものである
三、競い合いは、楽しいひとときを過ごすうえで、唯一とはいえないまでも、最善の方法を提供してくれるものだ。
四、競争が人格を形成するのであり、自信をつけるのには絶好のものだというものである。

人間生活のすべての面において競争が存在することに目をむけ、また教育学、社会心理学、社会学、精神分析学、レジャーの研究、進化生物学、文化人類学などさまざまの分野からえられた関連する証拠を再検討することによって、これら四つの神話それぞれがあやまっていることを明らかにしていく。
この問題をじっくり検討すればするほど、競争がもっとも望ましくない仕組みであり、健全な競争という言い方にそのものが、じつは矛盾したものであることがはっきりと確信されてくる。
このように主張するのは、異端そのものといっていいだろう。なぜなら、この問題にかんしては、ふつう競争を全面的に支持する立場と限定的に支持する立場というふたつの立場が認められているのだからである。
もっと広い見方をすれば、前者は保守的な立場であり、後者は自由主義的な立場といえるだろう。
保守主義者は、あらゆる競争を支持し、勝利することが唯一のものだとするロンバルディの格言に近づく場合もおおいのである。
自由主義者は、よりおさえ気味であり、過度の競争は避けれれるべきだということを認め、現代の文化がなにをさしおいても競争をうながしてことを嘆いているというのが典型的な姿なのである。けれども、競争そのものは、「正しい視点から」行われていくならば、生産的で、楽しく、刺激的なものでありうるのだと主張するのである。
後者は、競争にたいして批判的な立場をとるほとんどの人々の見解である。だが、彼等は、自分たちの直観や、いくつかの場面において自分たちのデータを検討し、論理的な結論をえることにためらいをおぼえているように思われる。競争などまったく意味がないものだといった極端な立場をとるとまったく信用を失ってしまうだろうと考えているからであり、したがって、問題は競争そのものにあるのではなく、競争のやりかたや競争の程度にあるだけなのだと述べるように強いられていると感じているからである。
このような穏健な態度をとる立場を考慮したとしても、問題は競争そのものにある(そして、問題がどのようなものなのかは、ある行動における競争意識がどの程度のものなのかに直接に比例する)のだという私の確信は、競争が行われるそれぞれの領域を考察することによって強まっていった。
競争に反対するわたしの主張はかなり厳しいものである。したがって、競争がときには建設的な場合もありうるという効果を括弧つきで認めてしまうと、つじつまがあわなくなり、正当なものではないといった評価をうけてしまうのもやむを得ないだろう。
これにつづく課題は、この根本的な批判を精微なものにしていくことである。競争が避けられないものであり、競争がより生産的なものであり、競争がより楽しいものであり、競争が人格を形成してくれるものであるという、競争をめぐる四つの神話について述べた後、第6章では、競争が対人関係にもたらすものについて検討していく。ついで第7章では、ほとんどの競争が腐敗させられてしまうことや、まさに競争をやりとげることを、ごまかしや暴力などの醜悪なものによって説明することができるかどうかについて論じる。第8章では、おおくの女性たちが、男性たちと同じように競争的になっていく現代の趨勢について考察し、第9章では、競争を協力的なものに変えていけるかどうか、その展望について考えてみたい。