現代スサノウの言霊 

2.競争は避けられないものなのだろうか
…「人間性」という神話

「人間性」というカードを切ること

競争が避けられないものであるという考え方はひろくうけいれられているが、そのわりにはあまり支持されてはいない。このてんについて細部にわたって検討してみることが、本章の課題である。
この課題にとりくむには、競争はさけられないものだというよりおおきな論点から手を付けた方がいいだろう。この主張は、立証されるのだろうか。この立場をとることによって、だれが利益をえるのだろうか。人間性をめぐる議論には、二通りある。一つ目は、ある一定の人間集団のあいだの差異が固有なものであると主張する。二つ目のものは、人間である限りそれぞれの特徴をそなえているのは避けられないことだと主張するものである。こうした特徴は、学習されるのではなく、生まれながら備わっているものであり、「育成」されるものではなく、「本性」を成しているものだとされる。
人間性をめぐる議論は、実際に証明されてきただろうか。あくまでも経験に基づいた論争で解決されるわけではない。だが、誰の利益になるのかと問いかけてみるのは、どんな議論の場合にも有効である。
なんの規制もうけない資本主義こそ「本来的なもの」であるといった考え方や、あるものが現在の姿をとっているものはもともともちあわせていた構造に根差しいるからだといった考え方をすることによって、だれが利益をうるのだろうか。それは、あきらかに現状が維持されているおかげで有利な立場にいる人々である。

競争が避けられないものだという議論について

競争は、「人間性」の一部をなすものとして、はかのどんな特徴よりも引き合いに出されるため、こうした主張を立証する論拠や証拠はかなりあると思われてしまうのかもしれない。ところが、驚いたことに、文献を丹念に調べてみても、実際にはなにも出てこないのである。競争が避けられないものであることは、自明なものであるかのように暗黙のうちに前提とされてしまうか、あるいは自明なものだと全面的に断定されてしまうかのどちらかである。
競争が人間生活にとって避けられない特徴であるという主張にたいする反論は、
一般的には、①協力がすっくなくとも競争とおなじぐらい人間にとって不可欠なものであること、
それから②競争が学習された現象であること、この二つに大きくわけることができる。

現実の自然状態

競争と協力のどちらが優勢かを比較してみるためには、まず自然界に目を向けてみることにしよう。自然界とは、場違いな領域にはいりこんでしまったという感じをうける。実際、動物界の競争は、競争が人間の本性の一部をなしている決定的な証拠としてよく引き合いに出される。しかし、その証拠を詳しく検討する前に、人間が動物であるとするりっぱな研究にありがちな仮説を検討してみる必要がある。人間以外の動物が、競争的であるというのはいいとして、人間にはあまりあてはまらないのである。歴史家のリチャード・ホッフスタッターが、「人間、企業、さらに国家のあいだで行われる競争の価値がどの程度のものかを判断する際には、どのような影響を社会におよぼすのかによって判断すべきなのであって、いわゆる生物学的な影響にもとづいて判断すべきではない」と強調するのは正しい。けれども議論をすすめていくうえで、自然がどのように作用しているのかという問題が考慮されてもいいだろう。
「自然淘汰」とは、ある種が自らをとりまく環境、とくにその環境の変化に適応すればするほど、その種が将来的に生存していく確立が高くなると主張する。適応するというのは、子供を産むことができるようになることであり、子供を産むとは、生存していけるということである。それなのに、生物学者や動物学者の中には、自然淘汰が競争と同義であるとする粗雑な考えをする人達がいる。実際には、自然淘汰と競争的な闘争には、必然的な関係はなにもない。自然淘汰は、競争をもとめるのではなく、逆に競争をおさえるのである。一般的にいえば、生存していくためには、それぞれの個人が互いに対抗しあうよりも、教働することが必要である。このことは、異なった種に属するものだけでなく、同じ種に属するものについてもいえる。
協力が動物のあいだでひろくみられることについて詳しく論じたのは、ペーテル・クロポトキンの『相互扶助論』(1902年)においてだった。彼は、アリからアメリカ野牛まで、多くの習性を考察したうえで、競争は、…動物たちのあいだでは例外的な場合に限られる。より望ましい条件は、互いに助け合い、支え合うことによって競争が排除されることによってもたらされるのである。これが自然の性向なのであり、常に存在してしているのである。 その後同様な研究成果が次々現れ、現実の自然状態は競争的ではなく協力的な状態である事が明らかとなっている。

競争から学習するのか、それとも協力から学習するのか

協力がいたるところにみられるという論点から目を転じて、競争は避けられないものだとする主張に反対するもう一つの有力な論点について考えてみることにしよう。競争は学習されるのだという事である。多くの学問分野の文献を調べてみると、競争について考察してきた理論家や研究者のほとんどが、競争しようとする指向性が学習されるものだと結論づけていることが明らかになる。
この問題を扱った研究は、社会科学研究協議会(SSRC)の1937年の研究である。マーク・A・メイとレオナード・ドゥーブが報告している。その第一のものは、「人間は、生まれながら備わっている性質のおかげで目標を必死に追い求めるのだが、他人とともに戦うこと(協力)や他人と争うこと(競争)は、ともに学習された行動形態なのだ」というものである。それに続けて、これらふたつのうちのどちらも、「その発生について、どちらがより根本的だとか、どちらがより根源的だということはない」、と彼らは述べている。
アメリカでは、念には念を入れて教え込まれている。その結果、どんな社会においても生存していくために必要とされるある種の目に見えない協力をのぞけば、国民としてはまったく非協力的てあるようにみえる。
競争が妥当なものであり、望ましいものであり、必要なものであり、また避けられないものだという教訓が、保育園から大学院までふきこまれていく。
協力的な人々のほうは、自分たちと同じ協力的な人々だけでなく、競争的な人々ともいるということを現実として認めている。だが、競争的な人々のほうは、自分たち以外の人々も実際にはすべて競争的だと信じこんでいるのである。
われわれは、競争が望ましいということ、そして競争を行うための戦略を、おさないころから教え込まれている。そのため、競争への指向性は、おのずと再生産されいくのである。リースマンが指摘しているように、競争が実際に人間性の一部をなしているとすれば、その競争の社会化を徹底しておしすすめていく計画をたてなければならないはずだということになり、おかしなことになってしまう。
子供たちに協力的になるように教育することができるとという証拠はあまりない。幼児教育の研究成果の中に、このてんにせまっているものがある。
数年前に、ジェラルド・サゴツキーとアデルフィ大学に同僚たちで、教室で一連のゲームを行い、1年生から3年生までの118組の生徒たちに、協力的になるような訓練をほどこして、成果をあげた。
被験者たちがなんらかのかたちで協力を経験しているのに、協力より競争を好むとという研究成果はひとつも報告されていない。

異文化における生活

マーシャル・マクルーハンは、現代社会の相互依存性を「世界村」と特徴づけたが、その「世界村」の時代になっても、自民族中心主義が残っている。それは、二つの形をとってあらわれる。一つとはなじみのない文化の慣行は、そのことだけで劣っているということ、もう一つは自分の国にあるものは普遍的なものに違いないということ、すなわち「ここにあるものなら、どこにでもあるのだ」という経験的な信念とのふたつである。
第1章では、アメリカにおいては競争意識がとくに激しいということを示しておいた。こうした見方もまた、異文化を観察し、住民の調査をした研究者によってもたらされたものである。
アメリカ人の競争意識についてのデータは、異文化についてみいだされたものと対比されているだけにとくに有効なのである。そこで、人類学者や異文化の観察者の報告に目を向けて、こうしたアメリカ以外の文化をいくか詳細に検討してみよう。
まず最初に、おおくの人々が、競争的なものだと思い込んでいる未開文化の場合を考えてみよう。動物の世界をひきよせて考えてしまうこうした理解は、まったく間違っている。実際には、先史時代の人々は、とても協力的だったし、おおいに協力し合っていたからこそ、ほかの霊長類と区別されたといってもいいだろう。脳の大きさや道具の使用、攻撃的な性質ではなく協力こそ、最初の人間を定義づけるものだとする人類学者が増えてきている。
未開の人間たちは、血族という媒体をつうじて協力しあう仕組みを発達させたのだが、マーシャル・サーリンズによれば、生活の条件に支配されていた。彼は、「登場しつつあった人類が、自然とのあいだで生死をかけた経済的な闘争をおこなっていくなかでは、社会的な闘争などいう贅沢をする余裕はなかった。大切なのは、競争ではなく、協力だった。…自然状態における『万人にたいする万人の闘争』というホップスの有名な幻想ほど、真実から遠いものはないだろう」と述べている。コンゴのピクミー、カラハリのブッシュマン、オーストラリアのアボリジニー、アマゾンのワラニ族などいまもなおのこっている狩猟採取社会によって、この結論が正しいことが立証される。
このような論点に最初に手を染めたのが、マーガレット・ミードとその同僚たちだった。『未開人における協力と競争』(1937年)では、非競争的な文化のいくちかについてある程度詳しく記述されている。
競争は、資本主義のような、現代の欧米社会の一定のシステムには不可欠のものなのかもしれない。しかし、あきらかに、生活していくうえで避けられない帰結だというわけではない。
異文化間のデータを一般化すると第一に、「調査されたすべての文化の場合に、互いに助力を必要とするような利害をめぐる紛争の状況においては、田舎の子供たちのほうがより協力的である」というのは明らかである。第二に、競争社会はまた、子供たちが大人になるのをうながす傾向がある。第三に誰がみてもあきらかなように「豊かな」集団と「豊かでない」集団が存在していること、それとある社会の競争意識とのあいだにはあきらかに呼応関係があるということである。
これらの研究にてらしてみると、競争についてひろくうけいれられている説のうちいくつかのものが、疑わしいことが暴露されることになる。第一に、競争意識と達成されたのもとのあいだには必然な関係はないもない。第二に、競争は、自我を発達させていく前提条件をなすものではない。第三に協力が場所と時間のゆとりがあるときに許される贅沢であるという主張、つまり、資源が希少な場合のみ、人々は競争的な行動に訴えると言われる点である。だがこれはまったくの誤りである。ある社会の競争意識を規定するのは、文化のもつ規範であって、資源があるかどうかではない。実際、ミードは、さらに議論を展開して、いくつかの社会が相対的に豊かなのは、その社会の協力的な仕組みがもたらした結果なのであって、原因ではないと指摘している。別の言い方をすれば、協力は、おそらく個人の所有者物をより効果的に最小限におさえるものなのだから、希少性にたいして妥当な、合理的な対応をなすのだということである。これこそ、マーシャル・サーリンズがあきらかにしたことである。ウイリアム・O・ジョンソンは、もう少しそっけなく、「黎明期の人々は、競争的ではなく、協力的だったのである。さもなければ、生存していくことができなかっただろう」と述べている。

不可避性をめぐる心理学の議論

人格と人間の成長について語ったフロイトのモデルを受け入れる人なら、競争が避けがたいものだと考えるようになるだろう。この点についてフロイトはっきりと指摘したり発言していないが、意味することは明らかである。
フロイトの見解によれば、我々人間は満足をもとめて人生を始めるのだが、満足を先送りし、ある種の要求を違うものに変えていくことを学んでいきながら成熟がもたらされる。人間は、喜びをもとめるにあたっては自己中心的な動物のままである。エゴは、つねにイドに奉仕する。さらに、「人間は、愛されることを望むおだやかな生き物ではなく、…本能的な資質として激しい攻撃的な性質をひめていると考えられる生き物なのである」。こうした見解に従って、他人と協力することに関心を持つようになったと考えると、①自分の目的のために、ほかの人々を利用して、それをあたかも協力であるかのように見せかける方法をみつけだしていくか、②無意識のうちに自分のなかの敵意をその反対物に変形させて、それを感じないですむようにしておくか、どちらかの行動をとるものだと考えてよいだろう。他人は、自分自身の満足の手段であるか、さもなければうちまかされるべきライバルなのである。ぎゃくに、外見をみてみれば、もともとそなわっている本能を文化が必死になって飼いならそうと試みている姿が浮かび上がってくる。だが、こうした試みは、なんの役にもたたない。なぜなら、「本能の情熱は、理性的な関心よりも強烈なものだからである」
こうした見方からすれば、競争は、もちろん避けられないものである。競争は、生まれたばかりのころから子供と両親との関係のなかで育まれていくのである。両親の愛を得ようとする願望が、あくことのない競争の闘いに油をそそぎかねないのである。両親がずっと前に亡くなってしまっている場合でも、両親を内面化するというのは、大人になっても依然としておなじような理由で勝利にむかって突き動かされていくことを意味しているのである。精神分析学者たちもまた、競争が(とくに男性のあいだで)敵はつねに父であり、褒美は母であるというエディプスの葛藤に陥ってしまうことを明らかにしている。
こうした立場に対する反論は、フロイトの思想の核心に関わることであり本書の意図するこころをはるかに超えてしまう。しかし本章のほとんどが、この説に対する反論の役割を果たしている。興味を持たれる方は、自我の心理学者、ネオ・フロイト派(とくにカレン・ホーナイ)、そして、人間主義的な心理学者などの著作を参照してもらいたい。事実、精神分析学に傾倒する精神医学者たちのなかにも、競争が避けられないものだという鎧のほころびを見出すことができる。イギリスのアイアン・サティは、競争は自立した本能によるものではなく、「社会的な統合(交友)という安全と満足の追求」を表明するものだと見なしている。また、ロデリック・コルニーは、人間の成長をこう描いている。人間の成長は、「生存のためにどうしようもないほど他人に依存するということ」から「他人を圧倒的にわれわれに依存」させることへと進歩していくことなのである。人生の至るところで、人間は協力しあっているのだと述べている。
競争が避けられないものだということに賛成するもう一つの議論は、社会心理学から導き出さるものであり、社会的な比較という現象に関心をよせている。われわれのアイデンティティは、社会的な世界の関数であり、すべての人間を定義づけるのは他人なのである。したがって、自分たちを他人と比較する過程にあるとされるのである。この議論の第二段階は、比較が競争を意味しているということである。
我々は自分の行為をだれかほかの人の行為とつねに比較しているのは、事実である。けれども、それが、自分の行為がどのようなものなのかを確認する唯一の方法だと考えることはできない。ライナー・マーテンスが述べているように、「自分の能力を評価するためには、すくなくとも二つの要素、すなわち自分自身の行為とほかのなんらかの基準とを比較してみる必要がある。…この基準には、もうひとりの人間、ある集団、自分自身が過去に行った行為、なんらかの理想化された行為の遂行のレベルが含まれるだろう」。二つ目の要素がほかの人物である必要がほかの人物である必要がないことに注目しておこう。
自分の能力とアイデンティティについての意識が社会的な比較によってもたらされるとすると、人間性を正しくとらえることができなくなる。そうではなく、ある時点でどのような課題が遂行されるのか、また、どのような文化の中で生活しているのかが重要なのである。
次の段階ではこのような比較が行われるとき、競争を必要とするのかどうかが問われることになるだろう。だが答えは否であることはすぐにわかる。一方が他方よりすぐれているといった感情をすこしもいだくことなく、自分の趣味を他人の趣味と比べることができるのである。自分が他人とあまり違っていないことをたしかめるつもりで、比較してもかまわないのである。