現代スサノウの言霊 

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競争より生産的なものなのだろうか
…協動の報酬

成功と競争は同じものではない。わかりやすくいえば、目標を設定し、その目標を達成する、また、自分も他人も満足させながら自分が有能であることを証明することは、競争がなくてもできるのである。
成功と競争は、概念的には、あきらかに別のものである。だが、現実の世界においては、この二つはどのような関係にあるのだろうか。実際のところ、競争は、課題をやりとげるように、さらに動機付けを行っていけるのだろうか。もっとうまく学習するように、さらに動機づけを行っていけるだろうか。そこで、業績と生産性についてあげられる証拠に注目し、その証拠によってあきらかにされるものの背後にある理由を推測してきることにしよう。

業績と競争

本章のタイトルに込められている問いは、「競争がなにと比べて生産的なのか」というものであることを確認しておく必要がある。
私が問いかけてみたいと思っているのは、「他人をうちまかそうとしている場合のほうが、他人と協働したり、自分一人で作業を行う場合よりも、もっとすばらしい成果をあげることになろだろうか」ということである。もちろん、課題の性質、遂行の手段、被験者の年齢と気質、実験の背景、そのほかにも様々な変数を特定する必要がある。けれども、こうした問いに対しては、「そんなことはほとんどない」という答えがかえってくる。というのは、きわめて明快で、整合性を持った証拠があるからである。すぐれた成果を上げるには、競争を必要としないだけではなく、競争など存在しない状態をもとめるのが普通のように思われる。
マーガレット・M・クリフォートは、競争的なゲームをすれば、五年生の子供たちがいくつかの言葉を覚える手助けになると考えてみたが、予想に反して、覚えることも、記憶することにもまったく進歩がなかったことを報告している。そして競争がなんらかの関心をよびおこしたようにみえるのも、それは、おもに勝利をおさめた者たちのあいだだけであったのである。モートン・ゴールドマンとその同僚たちは、生徒たちが、互いに競争している場合よりも強力している場合のほうが、語句のつづりかえの問題を効率よくこなすことを見出している。カードゲームをしているハイスクールの生徒にとっては、「協力のほうが、競争よりも生産的である」ということをエバイナ・ワーキーは言っている。モートン・ドイッチュが、一九四八年に大学生を対象にして行った実験でも同じ結果が出ている。彼は二五年たって、この問題に再び取り組み、一三のほかの研究結果をあげて自分の調査結果を再確認することができた。印象的なのは、これら一三の研究すべてが、競争はいい結果をもたらさないことを示していることが分かったことである。デビッド・ジョンソンとロジャー・ジョンソン、それにその同僚たちは、一九八一年に、よりいっそう意欲的なメタ分析を公にしている。結果のなかでめだつのは、協力が競争よりも高い業績をあげるのに役立つとみなす研究が六五、その逆のものが八、そして統計上は重要な差異をみいだしていないものが三六あったということである。また、協力がひとりで行う作業よりも高い業績をもたらすとする研究が一〇八あり、その反対の立場をとるものは六つ、何の違いもないとするものが四二あった。あらゆる実験の場において、またあらゆる年齢集団において、協力がまさっているといえる。
最近になって、ドイッチュとその同僚たちは、課題の設定の仕方だけでなく、報酬の配分の仕方についても調査をおこなった。
結果は次の通りである。課題がひとりだけで遂行される場合、すなわち手段の相互依存度が低い場合には、報酬を配分するシステムは、うまく仕事をこなすかどうかにはなんの影響も与えなかった。報酬が成果と結びついている場合のほうが、すべての人が同じ報酬をうけとる場合よりも、生産的な作業が行われることを示す証拠はまったくなかった。だが、課題がうまく遂行されるかどうかが、協働が実現されるかどうかにかかっている場合には、明らかに違っていた。平等な報酬のシステムは、「最高の結果をもたらし、勝者がすべてを獲得する競争システムは、最低の結果をもたらす」ということを確認している。
作業を遂行する速度、解決された問題の数、よぼもどされた情報の量といった業績の評価法からいったん目を転じて、遂行された作業の質を考慮してみると、競争があまりにもはかばかしいものではないことがわかる。
このように考えてみると、互いに競争させる構造は、われわれを生産的にするどころが、成果があがらないようにしてしまうがちなのである。競争が互いに競争し合う闘争に転化されてしまうならば、子供たちの学習効果があがるわけがないのである。
協力は、人々をたんに集団に組み込んでいくということだけを意味しているのではない。むしろ協力は、結果がいしょに努力した成果とみなされ、目標が共有され、それぞれの成員の成功がほかのすべての成員の成功につながれるような計画に集団として参加しているということを意味しているのである。実際、このことは、アイディアや素材も共有されるのであり、場合によっては分業が行われ、集団の全員が課題を首尾よくやりとげることができれば報酬をうけとることを意味している。
伝統的な職場における生産性と競争についての調査においても、学習にかんするものとあきらかに一致している。
芸実的な創造性の問題と競争の関係は、わずかな研究しかないが、創造的な問題を解決をもたらす場合とおなじように、競争は役に立たないことがあきらかになっている。
ジャーナリズムの場合も、ニュースをもとめる気違いじみた競争が、ジャーナリストたちに不安を生み出し、すぐらた報道からはかけ離れたものとなってしまう。また締め切りまでに仕事をしなければならないというプレッシャーが結果を悪くすることも起こっている。

競争がなにもならないものだという説明

一般的にいって、競争がすばらしいものを生み出さない理由をもっとも簡単に理解する方法は、うまくこなそうとすることと、他人をうちまかそうとすることが、まったくちがうものだということを理解することである。 競争において誰が勝つかを決定づけるのは、遂行される作業の相対的な質である。競争が素晴らしい成果をもたらすことにならない。それは一つは、自分が負けてしまうと思い込んでいる人が必死になってやろうという気を起こさないからである。自分が勝つと確信している人にも同じことがいえる。この問題を回避するために不確実な要素を十分考慮している場合にも、勝利の追求、勝利そのもの、その時点で優位に立っている人に注意が向かってしまい、自分が行っていることから気をそらしてしまうという問題がのこる。ヘルムライヒは、現実の世界においては、競争の反生産的なものであるという結論をこのことによって説明している。簡単にいえば、「勝つことにあまりにも心がうばわれてしまい、…身近な課題をないがしろにしてしまうのである」。
このことを様々な分野であらわれを見てみよう。
ピアノの競演の例でみると、演奏を行う芸術家を競争させても、芸術的にすぐれたものが生み出されることはないのである。同じ理由から、社長のポストをうかがうような人が、実際にはその職務に適さないかもしれないわけだし、競争をあおることを好み、また競争するのに必要な力量を持った人が気に入らない人物かもしれない。
次は競争的な論争について考えてみよう。論争の過程で強調されることは、論理の立て方であり、説得力のある話し方であり、自分が展開する議論すべてに相手側が応じきれないくらい早口で話すことなのである。その場に応じて生じてくる疑問を完全に理解したり、真の確信を得たりするかどうかは重要でない。競争的な論争の場合には、内心どのような結論をいだいているかに関わりなく、誰がより優れた論者なのかを決定することに焦点があてられるのである。法体系に立脚している当事者間のモデルもおなじように作用しているわけだが、それが正義のために本当に役立っているのかについて考えてみた。「訴訟当事者の欺瞞性」というタイトルの法学論文の中で、ネルソン・ローズ一世は、踏み込んだ指摘をしている。「正義をシステムにたいする信頼から、自分の側に正義があるという信念へと歩をすすめるのは、個人にとってはたやすいことである。訴訟当事者は、自分の顧客の側が正しいと思いこまなければならない。論客は、そう思い込まないで、どのようにして戦いに赴くことができるだろう」。このことは、顧客の利益のために何らかの手段を用いる非論理的な行動をうながし、長い目でみると、非効率で不適切な方法によって焦点を解決することになってしまうのである。
我々人間は、楽しんでやるものこそもっともうまくやれるものなのである。マーガレット・クリフォートは「外的な動機付けが作業の遂行に影響をあたえる一方、作業の遂行は学習に依存しており、さらに学習は、まずもって内的な動機付けにかかっている」と述べている。
競争は、そのほかの外的な動機付けの誘因と同じように作用する。すなわち、外的な動機付けの要因を利用すると、実際には内的な動機付けを掘り崩してしまう傾向があり、長め目でみれば作業の遂行に逆効果を与えてしまうのであると指摘している。また金銭的な報酬が与えられるようになると、報酬が与えられなければ、活動が行われなくなり、金銭が内的動機を買収するように作用することも起こる。
最終的な観察結果は、外的な動機付けの誘因が実際に効果を発揮しうるようにするためには、金銭や勝利ではなく、他人にたいする責任感こそ、もっとも強力なものなのである。まさに、協力関係を確立すること、すなわち他人が自分に依存していることを自覚することである。競争的な仕組みのもとでは、他人が作業の遂行にたいしてもつたったひとつの利害関係は、その人が失敗する姿を見たいという望みなのである。
協力し合いながら努力を積み重ねることが原動力になって、このような仕組みをより一層効率的なものにしていくわけだが、競争している人たちは、競争から十分な恩恵をうけることができるよう互いに好意をよせたり、信頼し合っりするようになるなどということはほとんどない。
また、競争は、楽しいものではないため、作業の遂行を遅らせてしまうのも確かである。それに対し協力は、内的な動機づけをうながし、将来においても素晴らしい仕事を継続していけるようにしてくれる。
競争を擁護する人は、競争が不安を生み出すことを否定しない。むしろ、不安があったほうがよりよく作業を遂行するよう動機付けるのだと主張する。少しばかりの緊張はあったほうが、生産性をたかめるよう作用するのは確かである。しかし、多くの場合、競争によって、おさえがたいほどの不安が生み出されるように思われる。ストレスがたまりにたまってしまった競争的な状況においては、失敗を避けるようにうながすのがせいぜいである。失敗を避けようとすることと成功しようとすることとは同じではない。動機付けの著名な理論家であるジョン・アトキンソンによれば「失敗を避けようとする傾向は、…業績をあげようとする活動を企てる傾向に逆に作用し、それをくじくように作用する」と言っている。

生産性…個人主義的な発想をこえて

競争的な状況のなかで、かならずしももっともすばらしいことができるわけではないという事実が、この立場にくみしない人々にショックを与えるだろう。ここに二人の飢えた人間がおり、一人分の食事があるとしよう。ここに10人失業者がいて、一人分の仕事しかないとしたら、当事者たちは、競争をする以外に何ができるのだろうか。競争がもっとも生産的な対応策なのではないのだろうか。これから論じていくとおり、答えは、われわれの展望と合理性そのものをどう定義づけるのかによるのである。
競争の場合、その場に状況しか念頭におかれず、原因、結果、文脈などが等閑視されている場合にのみ、仕事や食べ物をめぐって行われる競争が道理にかなった選択肢になるのである。
私は、二つのものの見方の転換を提案したい。一つは根本的なものであり、もう一つは比較的おだやかなものだが、両方とも、競争がどんなに不必要なものであり、どんなに非生産的なものかを明らかにしてくれるだろう。一つ目の転換は、誰の利益を考慮されているのかというものである。欧米の伝統的な思考、とくに古典的な経済理論の思考においては、合理的な行動という考えは個人に適したものだった。決定は、一人の行為者にとってのコストと利益を考慮して行われるのであり、さらに、社会は、そのような行為者たちの集合として解釈される。一人の個人は、理論上、そうすることが自分たちの個人的な利益になるならば、社会に帰属するという義務をうけるのである。
ある社会システムにおいて、一定の個人にかかるコストや個人の利益は重要なこととは考えられていない。欧米においてあいかわらず恥ずかしげもなく口にされるように、「ところで、それからなにを得られるのかね」と言った問いは、欧米以外の世界では恐ろしく利己的で、理解されがたいものとみなされてしまう。
競争しているときには、われわれは、自分自身の幸福にとってかわるならば、協力はおのずとついてくるだろう。 集団の幸福に目を転じてみると、目標が変化し、世界を見る目が根本的に変わってしまうのである。実際に他人を打ち負かそうとするのは、自分の成功が他人の失敗にかかっているという前提にもとづいているのであり、短期的に見た場合にのみ生産的なだけなのである。長期的な観点にたって自分たちが成功しうるどうかを評価し、集団にとってなにが最善のものかという問題を無視し続けるような観点をゆるやかに転換できれば、協働することは、個人にとっても利益になるのである。
それぞれの国家にとって協力と競争のどちらが都合がいいかは、欧米の伝統的な個人主義にふかく根差す問題であるが、政治学者のロバート・アクセルロードは、PDゲームを利用することによってこの問題に決着をつける一助になるとしている。彼は、PD戦略を組み込んだコンピュータ・プログラムに従うようゲームの理論家たちに求める。それぞれのプログラムは、すべて他者と対抗するように組み込まれている。もっともうまくいった攻め手は、協力にはじまり、さらに敵のあらたな動きに対し単純な報復を加えるというものだった。アクセルロードは、このプログラムが「他者をうちまかすことによってではなく、他者からの協力をひきだすことによって成功をおさめた」ということに着目して、「互恵主義にもとづく協力は、まったく協力が存在しない世界で始められ、変化にとんだ環境のなかでおおきなものとなり、いったん十分なものになれば、自己維持していけるのだ」と結論づけている。
第一の発想の転換は、自分の利益を考慮することから集団の利益を考慮することへの転換させたが、その結果、欧米のほとんどの政治経済学の根本的に考え違いをしている。それぞれの人間が最大の利益を得ようと努力するなら、それぞれの人間にとって得になるのだと主張したのは、アダム・スミスである。個人主義の倫理を拒否する人々からすれば、この提案は、あやまった前提、すなわちたったひとりの行為者を分析の基礎にすべきだというアプリオリな信念にもとづいているのである。第二のもっとおだやかな発想の転換は、スミスのような世界観から脱して長期的な展望を与えてくれる。このことによって、資本主義について論じた最初の理論家が全く間違っていたのだと結論せざるを得なくなる。互いに私的な利得をもとめて争う場合、だれもが得をするわけではないのである。

経済的な競争

本章では、生産性の社会的な特徴を考察するために、すでに経済的な競争の問題にも言及してきた。この問題は、アメリカの文化に対して競争がどのような効果を発揮するかについて考察する際には、避けて通れないテーマである。とくに、アメリカの経済システムは、異なった経済システムを派生させる競争のプロトタイプであるだけに、このテーマを避けて通ることはできないのである。
面白いことに、資本主義を批判する人々のほとんどは、資本主義システムの基盤が競争にあるということよりも、資本主義的な競争が実際のところ不公平であるという点に関心を示している。確かに、このような批判は、かなり妥当なものである。競争の一方の当事者のほうは貧困からはいあがらなければならないのに、他方の当事者のほうは潤沢な信託資金をもとに競争をはじめることができるというのは、じつに奇妙なレースだからである。同じように、多国籍企業は、弱い競争相手をうちまかしてしまい、もっと簡単にいえば吸収してしまえるほどの資本と税制上の特権を持っている。事業がいったん十分な規模に達すると、失敗することなどまったくありえない。その結果、ほとんどの経済部門が、事業のもっともうま味のある部分をコントロールしようとする関心をもった一握りの人々によりいっそう集中されていくのである。競争がはなはだしく不公平な経済、もっと婉曲な言い方をするなら不完全な経済そのものに、もうひとつの根本的な不公平が見いだされる。一九八〇年代の半ばにおいても、トップの二五〇の企業の半分以上が、すくなくとも三年にいちどは税金をはらわなかったり、還付をうけているのに、四千万から五千万のアメリカ人が貧困な暮らしをしているのである。
完全な競争とアメリカの経済システムの実情が乖離しているのも関わらず、競争が理想的なものだと言明されるのである。このような枠組みのもとでは、協力ということばは、独占禁止法の侵犯を意味するだけになってしまう。
経済学とは、商品がどのように生産され、配分され、消費されるのかについて研究するものである。ほとんどの経済学者がみずからの任務とみなしているのは、商品にたいする需要を効率的に充足する手段を発見することであると考えている。まず問題になるのは、経済成長が常に望ましてものなのかということであるが、それを考える人はほとんどいないであろう。ポール・ワクテルの『豊かさの貧困』の中で、成長によって、人々の健康を維持し、安全を確保するために膨大なコストがかかり、労働生活を不幸なものにしているか、より一層の公正をもたらすことがどんなに妨げられているか、実際、成長は心理的な欠乏感や社会的な欠乏をおぎなうには、絶望的なものであることを論じている。
問題は、必要なものがみんなに行きわたるほど十分にあるにもかかわらず、みんなに行きわたらないということになれば、競争が配分の問題にどのような影響を与えるのかということに論点をうつさなければならない。
資本主義の推進力は、利潤の追求にある。資本主義は人間の必要を満たすために成功しているといわれるが、それは、たんなる偶然によるものである。実際、この目標は、財の消費の不断の拡大をもとめるのである。そうした財が、欲求を満たそうとする場合にのみ購入されるのである。広告業界が存在するのは、こうした欲求を生み出すためであり、今もっているいるものに不満を感じるように仕向けるためなのである。
競争があるからこそ価格をひくくおさえられるのだという古典派経済学のスローガンは、自明のものではない。
価格の問題のほかに、競争の質の点でどのような影響をあたえるか、利潤を求める競争が、生産の速度を上昇させ、量的な拡大を招く場合、質が犠牲になる可能性がある。
競争は、質だけでなく、安全性も低下させてしまう。
こうした議論が、現在の経済システムの根本的な基盤に疑問を投げかけようとはしているものの、代替え案について考えているわけではないという事を明記しておく。自己利益の原理よりも、集団的な利益の原理に立つものでさえも、中央集権化された経済であるかぎり、何らかの競争がなければ機能しないのはもっともなことである。けれども、競争の不可避性を受け入れるよりも、脱集権化の可能性、たとえば小規模の協同組合などを考えてみるべきではないであろうか。職場におけるさまざまな協力モデルが、競争し合う企業よりも生産的であるという証拠はある。競争に代わる物を求める際に、経済的な領域における生産性を考察するだけでなく、競争が業績に貢献するのだという神話にいどむ研究が、解決策を生み出していくだろう。