現代スサノウの言霊 

TOP > 競争社会をこえて>6.相互の対立

相互の対立 …対人関係の考察

毒される人間関係

会社のなかをとびかっているばい菌は、会社の中に長くはとどまっていない。だれかがその菌を家にもちかえり、家族全員がその病気にかかってしまう。職場が発生源になって、病気が居間や寝室に運ばれていくのである。この病気というのは、競争のことである。仕事の仲間を敵とみなすように訓練する社会においては、私的な領域にも聖域などというものは存在しない。三五年ほど前に、ウォルター・ワイスコフは、「産業社会において生きている人間は、意識しようとしまいと、仕事のライバルだけでなく、セックスパートナーや兄弟や隣人や仲間の集団でさえ、競争相手とみなすのである」と述べている。会社のことなどに気をとられてはいられない。勝利をおさめるためのレースは、自分が暮らしているところですでに始まっているからだ。
恋人を獲得するというのは、成功すれば「得点」が加算されていく競争ゲームである。求愛の行う候補者たちは、賞を獲得するために有利な立場を巧みに手に入れようとして、互いに疑惑やあからさまな敵意をもって目を交わすのである。カップルが誕生すると、どちらが給料が多いか、どちらが友人が多いか、どちらが機知に富んでるかをめぐって、どちらが二人の関係により多くのものをもたらしているかを巡って、あるいは、ベッドでどちらが技巧的で、どちらが献身的かをめぐって、さらには、一緒になるために、どちらがより多く犠牲を払ってきたかをめぐって、二人は互いに相手よりも優位にたとうとする欲求にかられるために、愛情をすり減らしてしまうのである。恋人にどちらか一方は、どんなことでもいいから相手よりも優位にたちことに関心をもつならば、二人の関係は、それにひきずられてダメになってしまうのである。
子供が生まれると、どちらが良い親で、子供はどちらのほうが好きだろうという二つの問題が生じてくる。「昔から子供をめぐって母親と父親とのあいだで行われる競争は、つねにあらたな活力をもって生じてくる。そして、アメリカの文化において避難所になってくれるはずの家庭にも、競争意識が裏口からこっぞりと入り込んでくるのだ」とジュレス・ヘンリーは述べている。
親たちは、ほかの親たちとのつきあいながら、自分の子供たちがやったことをあれこれと自慢する。どこの家の赤ちゃんが一番早く歩くようになったとか、どこの家のよちよち歩きのちいさな子供が一番かわいらしくしゃべるようになったとか、どこの家の子供が大きくなって一番いい大学に入ったかなど…メリー=ルー・ワイズマンが見るところによれば、夫婦どうしもまた、自分たちの結婚が一番素晴らしいのだと先を争って証明しようとするのである。
競争は、いまある人間関係を抜き差しならないほど緊張させしまうだけではく、人間関係をかたちづくるのを最初からさまたげるように作用する。競争相手とみなされている場合には、正真正銘の友情と愛情はもちろんのこと、仲間でいたり、付き合いを続けたりすることおさえ、根づいていく可能性はほとんどない。仕事場でも、同僚たちと友好関係を保ち続けようと務めるのだが、それも用心ぶかく、自分の一面は表に出さず閉まっておくのである。当面ライバル関係が存在しない場合でも、いつ現れるかは誰にも分らない。
競争的なスポーツの分野でも、事態はほとんど同じである。思いがけず、ほんとうの友情が芽生えることもあるが、それは、そのような場合もあるということを証明する例外にすぎない。ある審判は、「勝つことと友情を維持することのどちらを選ぶかということになれば、…一流の選手なら、友情を犠牲にする」と述べ、さらに、「感情の入り込む余地などない。生きのこるかどうかということが問題なのだ」と付け加えている。研究者によれば、「親切さ、同情、利己的でない」といった性格が、一流のスポーツ選手には著しく欠けていることが分かっている。

ライバルの解剖学

競争が自尊心を傷つけてしまうということがわかっただけでも、人間関係がそこなわれるということは予想がつく。自分自身についていい感じをもっていなければ、他人にたいしてもいい感じをもつことはできないということから帰結されることである。わたしは、自分が価値ある人間かどうか疑わしいと思っている。というのは、価値のある人間かどうかは、勝利するかどうかにかかっているからである。だから、自分自身を他人にまでおしひろげていくことができないのである。心理学者のキャロル・エームズは、子供について研究を行い、自尊心と対人関係とのあいだにはそのような結びつきがあると結論づけている。
しかし、競争が対人関係におよぼす影響は、個人の心理だけにかかわるものではない。競争は、まさにその本性からしても人間関係を傷つけるものなのである。競争の本質は、互いに排他的に目標を達成することなのであり、そのために、競争をしている人たちの利害は対立することになるのである。相手の人間が失敗すれば、自分が成功するのであり、逆もまたおなじである。そこで、自分の目的は、相手の人間を妨害するためにやれることなら何でもやることになる。こうした態度は、自分の側のノイローゼ的な、あるいはサディスト的な性向を反映しているのではない。それが、競争そのものの核心なのである。なぜなら、競争においては、両方の人間が成功することはできない運命にあるからである。従って、他人の失敗を心から願うようになるのである。
見境のない敵対行動については、単純な学習理論の原理によって説明することができる。1920年に、ジョン・B・ワトソンは、古典的な実験を行ったが、赤ん坊のアルバートは、白いネズミを目にするたびに大きな音を聞かされた。そのことがもとで、アルバートは、ネズミをこわがるようになった。(結果は意外なことに)、やわらかい毛でおおわれたものすべてに恐怖を感じるようになったのである。われわれについても、同じようなことが起こると言える。競争的な状況のもとで、繰り返し人に出会うことによって、ごく自然にすべての他人をライバルとみなし、それに見合った付き合い方をしようと思うようになるであろう。
われわれは、競争が敵対的な影響をおよぼすことを理解するための人間関係モデル、すなわち、人間関係が人生においてもつ潜在的な豊かさと意義をあきらかにしてくれるモデルを必要としているのである。哲学者のマルティン・ブーバーは、生涯をかけてそのようなモデルをつくりあげようとした。ブーバーにとって、人間生活が成就されれば、それが人間関係となって、「対人的な」領域としてあらわれるのである。ブーバーは、「それ」としてでなく、「相手の人間」として他人と付き合い、手段としてでなく、目的としてかかわり、したがって、「それぞれの人間が自分の相手のことを意識するようになり、そのため、相手の人間を対象とみなして利用するのでなく、人生のパートナーとみなして関りをもつようになる」というおどろくべき可能性について述べている。
この可能性は、わたしが共通の人間性を理解するかどうか、つまり、相手の人間の欲求と感情がわたしのものと類似していることを理解するようになるかどうかにかかっているのである。私は、自分自身が経験の中心であり、世界を知覚し、世界の中で行為し、世界について反省する存在であることをはっきりと認識している。私は群衆の一部、科学的なデータ、なにか超越的な実在の色あせた錦事物のようなものに還元することによって、私の主体性をうちくだき、否定してしまう知的な体系に対し反抗するのであり、それを現実世界において実践するものに対して反抗するのである。私の主体性の主張にブーバーが付け加えるのは、相手の人間の主体性も同じように肯定する必要があるという事である。
しかしながら、相手の人間とわたしが共通の人間性を分かち持っているという事は、二人が同じだということではない。逆に、私自身の鏡だとか、私自身の経験の対象としてよりも、むしろ一人の他人として相手の人間に出会わなければならないのである。私自身が相手の人間の立場に身を置いて考えてみるという意味における感情移入だけでは十分ではない。肝心なのは、相手の人間の置かれている状況を相手の視点からみることであり、その視点は、私の視点とおなじものではないのである。すべての人間が、他人をこのように受け止めようと努力することは可能であり、そうすることによって、真の対話が可能となる。
もちろん、ブーバーが描き出す人間関係の理想は、不完全なかたちでしか実現することはできない。われわれが他人を自分と違った人間として、また一人の主体としてみなすようになるのを妨げる事情が、内的にも、外的にも存在するのである。
あまりにも行き過ぎた競争が、戦争である。戦争においては、敵対者たちが平気で他人を殺す事ができるくらい、人間性を徹底的に否認してしまうのである。
他人に対する軽蔑は、競争を通じて、二通りの形でもたらされる。第一に、勝者が手に入れたいものにたいする羨望は、たやすく敵意にまで膨れ上がっていく。二つ目の軽蔑というのは、敗者に対して向けられるのである。この軽蔑は、勝利することが勝者であるということの当然の報酬なのだと主張することによって、勝者が自分の成功を正当化しようと努力するかどうかによるのである。このことは経済的に恵まれた人について言える。敗北する者は、その運命を甘受すべきであり、軽蔑に値するというものである。
最後は不信感の問題がある。愛情は信頼に基づいているわけだが、それにはおよばないにしても、どんな社会システムにおいても通用する能力というのは、信頼に基づいているのである。しかし、互いに競争し合わなければならないシステムが出来上がってしまえば、不信感が育まれる土壌は用意されたことになる。

攻撃的な意識

競争と攻撃的な意識の関係はどのようなものだろうか。この二つのは、実際にはどのような関係にあるのかをはっきり区別することがような現象ではない。競争は、異種の攻撃である。競争と攻撃的な意識との関係性についてとりあげる価値のあるものがあるとすれば、それは誰かを打ち破ろうとすることと、勝利をおさめるために必要な限度を超えて相手を傷つけるようにすることしかないだろう。これら、二つの行為を媒介するのは、おそらく敵意の感情だろう。敵意は、あるレベルにおいては、例外なく競争についてまわるものである。
かつて、理論家たちには、競争的なスポーツやそのほかの攻撃的な行動に参加する機会、しかも、管理しながらそうした活動を行う機会を与えられてやれば、うっせきした攻撃的な意識を吐き出させる効果をもたらすだろうと考えられていた。こうした考え方を「カタルシス」理論といい、アリストテレスの考え方にちなんだものであり、フロイトやコンラート・ローレンツが代表的な論者である。
決定的な証拠によって誤りであることが証明されているにも関わらず、一般に人々に信じられている見解はほかにはないであろう。いまでは、カルタス理論を根拠づけるものは一つもない。スポーツの問題にかんしては、とくにそうである。ローレンスでさえ、1974年にインタビューに答えた「見かけはスポーツのかたちをとっていたとしいても、攻撃的な行動が窺えさえすれば、ともあれカタルシス的な効果をもたらすものだといえるかどうかおおいに疑問を」もつようになったと述べている。
他人が攻撃的になっているのを目の当たりにしたからといって、自分自身の攻撃的意識が呼び起こされるわけではない。そのかわりの役割を果たしているように思われるのが、ストレートなモデル化である。つまり、攻撃的になることを学ぶのである。そうすると、攻撃的な意識を抑制しようとする気持ちがうすれてくるのである。しかしながら、どんな説明の仕方をしたとしても、また、どんな研究によっても、カタルシス効果について明らかにすることはできないのである。
カタルシス理論が正しいものだとすれば、スポーツと戦争は、文化に対して反比例の関係になるだろう。しかし実際には正比例の関係にあるのである。
こうした証拠を目の当たりにすると、競争を擁護する人たちが、スポーツのもつ攻撃的な性質を正当化するためにカタルシスの概念を持ち出すことはできないのである。
マイケル・ノバックは、「人間という動物は好戦的な動物であり」、スポーツがたんに「抗争に演劇の形式を与えたもの」にすぎないと断言する。しかしスポーツがたんに抗争に演劇の形式を与えたものにすぎないとほんとうはいえないのである。様々な研究が明らかにしていることだが、カタルシス理論が予想するように、スポーツにおける競争は、攻撃的な意識をおさえることができないだけでなく、実は攻撃的な意識を助長してしまうのである。スポーツが「戦争から銃撃を取り除いたものだ」と言ったジョージ・オーウェルのような批評家だけでなく、将軍たちも、このことについて指摘している。ワーテルローの戦いは、「ハロー校とイートン校の運動場で勝ち取られた勝利なのだ」と言ったのは、ウェリントンだった。「友情に満ちた闘争の畑に種が撒かれれば、いつの日か、別の畑に勝利の果実が実るだろう」といったのは、ダグラス・マッカーサーだった。つまり、スポーツ競技における競争が、戦争とおなじような攻撃的な性質のものであり、攻撃的な意識を促していくという事である。
暴力とスポーツとの関係は、逸話という意味でも、また実験によっても、さまざまに説明がなされてきたわけだが、もっとも有名な考察は、1949年から54年にかけてマザファー・シェリフとその同僚が行った一連の研究である。いわゆる「強盗の洞窟」実験において、調査者たちは、11歳と12歳の普通の少年たちをボーイ・スカウトのキャンプに連れて行き、二つのチームに分けた。この二つのチームは、3週間にわたって別々に小屋に住み、野球、フットボール、綱引きなどの競技的な試合をして互いに戦わされ、勝ったチームには賞が与えられた。一方のグループが相手のグループを犠牲にして始めて勝利することができる状況においては、あらゆる面で敵意をむき出しにし、攻撃的な行動を行うようにしむけられていくだろうという仮説が立てられていた。そしてまさにその通りになった。少年たちは互いに罵倒し合い、侮辱しあうようになり、場合によっては、敵のチームに属している親友にむかっても敵対意識を表すようになった。少年たちは、試合の後や夜中に、旗を焼いたり、襲撃を企てたりし、食べ物を投げつけたりして、互いに攻撃し合った。肝心なのは、二つのチームのメンバーには何の違いもなかったということを確認しておくことである。彼らは全ての点で同質的だったのである。構造化された競争という事実だけが、こうした敵意を説明することができるのである。
子供たちをそれぞれのチームにわけて一連の競争による衝突を体験させる習慣は、いまでもまだサマー・キャンプにおいてひろくおこなわれている。このチームが色によって分けられることも多く、「カラー・ウォー」として知られている。
競争は、参加者の側だけの攻撃的な意識を助長していくのではない。ファンの暴力は、スポーツにつきものであって、相手チームのバスに石を投げつけるハイスクールの生徒に始まり、300人のサッカーファンが死んだペールの1964年のケンカ騒ぎにまで及ぶ。
競争が鼓舞する攻撃的な意識について論じるのに、スポーツだけに限定してしまうのは間違いだろう。その他の領域においても、競争はきわめて重要なものであり、野蛮な暴力が発揮される場面こそ少ないかもしれないが、すくなくとも敵意は同じように存在するのである。
いずれにせよ、競争と名づけられる敵対的な衝突は、遊び場においてであれ、ほかの状況においてであれ、参加者にも、観客も共により攻撃的な状態にしてしまうのは明らかである。

処方箋としての協力

人間関係に関する限り、競争は、まさに最悪の仕組である。仕事をしたり、遊んだり、学んだりする際の障害はそれぞれいくつもあるかもしれないが、少なくともその障害のせいで互いに敵とみなしあうようになるなどということはない。とはいえ、さいわいなことに、孤立というよりましな不幸で満足しなければならないのである。人間関係におおきな、積極的な影響をおよぼす協力という第三の道がある。
過酷なほどの競争社会においても、わずかではあるが、協力的な活動を行う余地は残されている。協力し合うことによって、相手の人間たちを好意的に見るようにしてくれることが分かる。もっと一般的な言い方をすれば、協力は、人間関係の価値がなんなのかを教えてくれるのだと理解してもいい。協力とは、参加者一人一人の成功がほかのすべての人の成功に結びついていることを意味しているのである。この構造が、互いの助け合いとささえあいをもたらしてくれるのであり、こんどは、協力しあっている人たちが互いに親近感が持てるようにしてくれるのである。最悪の場合でも、協力は、互いに積極的にかかわりあう機会を提供してくれる。また、最善の場合には。あらがいがたいような刺激をもたらしてくれる。
デビッド・ジョンソンとロジャー・ジョンソンは、1944年から82年までのあいだにこの問題に関して98の研究について詳しい統計的な分析をおこなった。1985年に、ジョンソン兄弟は、異なった学習環境に置かれた場合、他人をひきつける魅力がもたらされるかどうかに関して37の研究を行っている。
「他人をひきつける魅力」という言葉は、じつに多くの積極的な意味合いをふくむ万能薬なのである。
①はげましてあげること、②はげまされること、③感受性、④他者志向、⑤ものの見方を身に付けること、⑥コミュニケーション、⑦信頼感
ふたりの人間が、あることを協力して行った結果として互いに好感をもつようになるというのならば、おおきな意味がある。しかし、能力が異なり、人種的な背景が異なる人においても同じことが生じたなら、はるかに大きな意味があることになるのである。
競争は、敵対的な雰囲気を作り出すのであり、互いの違いを克服するのには何の役にも立たないが、協力は、橋渡しの役割を果たすのである。協力が積極的な関心を育んでいく力を持っている限り、協力し合う人たちが異なった背景をもっていたとしてもすこしもその力量が失われることはないのである。いったん子供たちが結びつきを強めると、互いに楽しみながら一緒に時間を過ごしていけるようになるのである。
これらすべてには、人々を不安にさせるようなことが含まれている。他の人々にについてどのような感じをいだくのか、漫然と「不思議な力」のせいにされることが多いが、それは、社会科学の研究対象ではなく、人々を惑わす神秘なのである。
他人に対する態度は、自分たちが関わり合っている構造におおきく依存しているということである。私達人間は、パートナーである人間よりライバルである人間にとってのほうが大変なことになって見えることだろう。もちろん、すべての競争相手が、生涯にわたって敵のままだとは限らないし、協力関係が永遠に続くわけでもないのと同じである。

われわれ対やつら

協力がもたらすメリットは大きなものなので、競争社会においても、協力に目を向けないですますことはできないであろう。しかし、社会が、いまだにそのメンバーによりおおきな競争的な枠組みを維持するようにしむけているのに、いったいどのようにして協働による果実をあじわうことができるようになるというのだろうか。それに対する答えが、集団間の競争にともなった集団内の協力である。このようなやり方は、これまで本当の協力をなしとげた人たちと同じくらい、協力に近いところまできている。だが、すべてのレベルで競争が存在しないというところまで至っていないという言う意味ではかなり不満が残る妥協であると言いたい。競争的な文化において習慣化している考え方によれば、集団間の競争は、集団内の協力を高め、あるいは、そのために集団間の競争が求められているとさえ考えられるのである。すなわち、「われわれ」はみな、「やつら」を必要としているのである。
集団内に協力が存在すれば、より力量が発揮されることが様々な研究によって明らかにされたわけだが、その際に、この効果は実際には集団間の競争に依存しているのではないかと考えられていた。この点に対する答えは、明らかに否定的なものであった。集団間の競争は、協力によってもたらされる生産性とは関係ないか、あるいは、協力によってもたらされる生産性を実際には減少させてしまうのである。ロバート・ダンとモートン・ゴールドマンは、1966年に、大学生を対象にしてこの問題を検証した。彼らは、まず、集団間の競争が行われる結果、被験者たちがほかの集団の人々を否定的な目でみるようになるということを発見し、さらに、それぞれの集団のメンバーが互いに受け入れようとする気持ちを育んでいくためには、集団間の競争は役に立たないということも発見した。そのような敵対意識は、「必要ではないだけでなく、敵対によって集団間の緊張が生じるおかげで社会的損失がもたらされてしまうのだ」と結論づけた。
対人関係において互いに引き付けられていくということを集団の一体性と混同してはいけない。集団の一体性は、集団にたいする忠誠心と結びついて考えられ、集団のメンバーの画一性と関連していることが多い。この現象は、これまでわたしが論じてきたものとはまったく異質なものである。国家や学校や会社にたいする忠誠心は、かならずしも集団に属する人々の間で感受性や信頼や相手の立場になってものをみる力量などを育んでいくわけではない。それどころか、私達が属する集団の一人一るの人間を好ましいと思うことが、集団そのものを実体化してとらえ、集団を賛美するということを意味してはいない。集団間の競争は、熱狂的な忠誠にとっては必要なものかもしれないが、人間関係にとっては必要ないのである。
集団間の競争が協力を育むものでないということには、もう一つ理由がある。競争は、仕事場から家庭へと広がっていくように、集団間のレベルから集団内のレベルへと浸透していく。これは、ひとつには、学習が一般化していく結果もたらされるのである。ある人々を競争相手とみなし、敵意をいだきながらも、他人(同じチームの人々)に対し敵意を抱かないというのは、たやすいことではない。その証拠に、同じチームの選手のあいだで、先発メンバーになることやより高い報酬を得るために熾烈な競争が見られるのである。
つまり、協力関係をつくりあげていくうえでもっとも効果的なのは、別のレベルのにおける競争と結びつけることではないということを意味しているのである。集団間と集団内の両方のレベルで協力関係を形作っていくほうが、はるかにいいことなのである。
すべての条件が平等ならば、仲間であることは望ましいものである。しかし、仲間意識がほかの集団を貶めることによってえられるものならば、すべてが平等とはいえない。すれはすべて冗談なのだという擁護論もあるが、認めるわけにはいかない。われわれ対やつらという構造とそれにともなうものの考え方が、結局、すべての戦争の核心になっている。
人間の存在そのものをいまだに脅かし続けている国家間の緊張関係というナショナリズムの恐ろしい遺産をどのように解消できるのかは、簡単にわからない。しかし、たとえ答えが「善意にもとづく」ものだったとしても、より多くの敵対関係にあるのではないということは、確実なのである。どんな競争も敵対意識をそれすというより、むしろそうした意識を煽り立てるような敵対関係をもたらすということである。おなじことがオリンピックについても言えるのである。
協力を自分の属している集団内に限定するよりも、できるだけ多くの人々が含まれるような協力の輪を広げていくべきだという考え方のほうがはるかに良識的なのである。どんな相手とでも積極的に協力できるなどという人々はいないだろうが、協力を目的として他人とかかわりを持つことは確実にできるはずである。最後に、ロデリック・ゴルニーが強調することに耳を傾けることにしよう。「われわれの最終的な安全保障は、互いに助け合う協力の輪を国家というもっとも大きな単位をつつみこめるとうな最後の一歩にまで拡大していけるかどうかにかかっているのである」。

実りをもたらす対立

協力は、業績志向も、強い自己意識も犠牲にすることはないのである。逆に、成功は、ほかの人々とともに力を合わせる結果得られる可能性のほうが高いのである。また、健全な意味での自尊心についても同じことが言えるだろう。
「だが、人々がすべてのことに同意するなどとどうしていえるだろうか」という質問に対して「同意するとは限らないだろう。それだからこそ、意見が一致しない場合に対処しうる協力的な枠組みが重要なのである」と答えておきたい。
対立そのものは、なんら害をもたらすものではない。実際、対立が存在しないことは、人々が恐れたり、憤慨したり、理性的な能力を奪われたりすることを示している。意見の不一致をとりかえしがつかないものにしてしまうのは、対立という事実そのものではなく、それに競争が付け加えられるからである。協力と競争の違いは、互いのものの考え方に耳を傾けることと、互いに無理強いをすることとの違いなのである。ロジャー・ジョンソンとデビッド・ジョンソンが「不均衡への好意的な逸脱」と呼んだものの表現が、協力的な対立ということなのである。彼らが教室において行った研究は、三つのことを明らかにした。
①生徒たちは、協力的な対立を好むこと。論争が敬遠される一方で、協力的な対立にたいしては、異議申し立てが行われなかった。
②生徒たちが、協力的なたいりつによって学習すること。このことは全ての被験者にあてはなることが立証されている。
③協力的な対立が、他人にたいする魅力を増加させること。
みんなが同意しているようにとりつくろうよりも、違いを公然と求める場合のほうが、互いに好ましいという感じをもつのである。構造化された協力は、すこしも対立と相いれないものではないのである。それは、勝利/敗北の枠組みがもつ悪意に満ちた敵意をしめだすことによって、対立がもっとも生産的に作用しうるようにしていくのである。