現代スサノウの言霊 

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汚い手をつかう口実

全く不快なほど競争意識の強い人でも、自分があまりにも先走り過ぎてしまうのではないかとは認める気のなるものである。「行き過ぎた」競争とか、「妥当なものでない」競争、それに、競争に油を注ぐような「なにがなんでも勝利するのだ」という哲学については、だれでも否定する。そうした行き過ぎたものの表現のひとつが、自己破壊的な行動である。仕事の上で成功すれば、荒涼としたものになってしまっている私生活を償うことができるかのように、他人よりもぬきんでようと、くたくたになるまで我が身をすりへらして仕事をしている人々がいる。
競争の弊害を指摘する人々のほとんどが、勝利するためにどうルールをごまかそうと考えているのである。
不正が問題になるのはすべての領域に行われている。反対派に対する贈賄、不正な献金の授受とその隠蔽工作、電話の盗聴、書類の窃盗、文書の偽造、そしてこれらすべてを嘘をつきとおすことによって覆い隠してしまうなど、政治運動に広くみられる非倫理的で、場合によっては非合法的な行動等々。さらに、賄賂や妨害工作は、ビジネスにおいては日常茶飯事になっており、証拠を恣意的に利用したり、そのほかにも数えきれないほど汚い手を使うといったことが、法律家のあいだでは当たり前になっている。ジャーナリストが紙面を獲得したり、世間的に認めてもらえるように競争するときには、うけをねらって事実を誇張するやり方がとられている。医学部の学生は、互いに相手の実験をダメにしてしまうこともある。どんな分野においても、人々が競争しているときには、勝利を手に入れるときには、勝利を手に入れるための常道としてこれまで確定されてきた境界を踏み越えてしまうのである。
競争に勝とうとしてあまりにも必死になってしまうと、誰でも、それまでにそんなことを企んだのは自分だけであって、自分のしたことが邪悪な行為そのものあるかのように取り調べを受け、刑罰を科せられるということである。
リベラルで、革新的な考えをもっている人々が心をくだくのは、刑罰を科することよりも、ルールをまもり、勝つことだけを目的としてレースを行わないように競争の参加者に強く求めることである。
不正な行為を行った人間をほかの人たちから切り離して処罰すること。それに、常軌を逸した行為をしないように競争の参加者に警告することという二つのアプローチのもとになるのは、人々が他人よりも抜きん出ようとして利用する醜い手段こそ、競争の本当の汚らしさなのだという考え方である。さらに、スポーツライターのジョン・アンダーウッドは、不正な行為をするのは「競争をけがすこと」である、暴力は「スポーツという美しい名前をけがしてきた」のだと述べている。それに対しギャレット・ハーデインにとって、流血は「競争につきもののアクシデントにすぎない」のである。どちらの場合にも、競争そのものは、どのような非難も免れるのである。
アメリカ人は、さまざまな問題について構造的に説明してみようとなどという気はまったくないが、それは、この立場と一致する。
競争の場合、弊害をもたらす根本的な鯨飲は競争の構造そのものにある。とするならば、「弊害」というのは、実際には間違った言い方だということになる。なぜなら、このような行為は、競争の汚らわしいさを示しているのではなく、むしろ競争の論理的な帰結を示しているからである。敵意というのは、事実上は、誰かほかの人間の運命が逆に自分自身の運命にかかわっているという仕組みに組み込まれていることなのだと述べておいた。そこで、他人を打ち負かせという構造が発する命令は、可能ならどんな方法でも利用するように仕向けて行くのだということになる。「競争の目的は、勝利することであり、勝利の誘惑は、いかなる犠牲をはらってでも勝利すること」である、とアーサー・コームズは述べている。「競争は、生産を促すという素晴らしい目的をもって開始されるにもかかわらず、どんなことをしてでも勝利するのだという闘争へと変質してしまうのである」。この過程は、競争そのものが持つ自然な成り行きの一つである。競争者という名にふさわしい教勝者が違いをみきわめることができるのは、勝利と敗北との違いである。それ以外の、道徳と不道徳というような違いは、企業にはなじまないものであって、実際には、ほかから持ち込まれたものに違いない。競争者たちは、互いに相いれないのである。善という名にふさわいいのは、ただひとつ、この目標に貢献することである。
このことが意味してるのは、もはや不正を働く人をたんに非難したり、自己破壊的な競争者をあわれんだりすることで満足してはならないということである。そうするのは、近視眼的なだけではなく、偽善的な事でもある。つまり、目標が勝利であるという構造を作り出す一方で、その構造にしたがっている人々を非難していることになる。汚らわしいものを本当に根絶やしにしようとするなら、汚らしいものを生み出す競争の構造を根絶しなければならないだろう。
このような見方は、急進的なものだから、混乱をひきおこしがちである。しかし、このほうが、「汚れ」とする見方よりもはるかに事実にそくしていると思われる。すなわち、競争において互いに対峙し合うときに不正な行為が頻発し、拡大していくという事実にそくしているのである。ほとんどの人々は、こうした事実に目を止めることさえないのであり、不法な選挙運動、科学の欺瞞、企業の策略、大学スポーツにおけるステロイドの使用などどのようなかかわりがあるのかをみおとしてしまっている。これらそれぞれが新聞の違った紙面に掲載されるために、一つのパターンがみてとれることに気がつかないのである。これらのさまざまなうさん臭い活動すべてが、競争の状況において生じることが分かれば、問題は共通分母にあるのだということがはっきりと理解できるだろう。
競争そのものが問題なのだということを見抜いていた著者たちもいる。アン・ストリックによるアメリカの法システムに対する批判は、敵対的なモデルが正義という目的にもっともかなったものであるとする見方に疑問を投げかけている。ギュンター・リューションは、競技の分野においてもおなじことがいえるということを実感している。「協議は、ゼロ・サム・ゲームという特徴を持っているのだから、賭率がたかくない場合でも、あらゆるレベルで不正が行われている理由をほぼ説明できるように思われる」。定義のうえでは、あらゆる競争がゼロ・サム的なのである。したがって、不正な行為をしようという気になる要因は、つねに存在しているわけである。
スポーツマンシップなどに対して、一定のガイドラインの範囲内にとどまるように命じるものは何なのであろうか。この概念は、ある意味では表面的なものにすぎず、他人を打ち負かそうとする企てに尊敬の気持ちをいだいてしまうように脚色していくのである。他人を打ち負かすように命じていく社会的なプレッシャーは極めて強い。そのため、模範的なスポーツをやろうという殊勝なよびかけがわれわれの目的にかなう場合には、ルールを破る人間を非難することができるということになる。さらに重要なのは、スポーツマンシップが人為的な概念であるということである。この概念は、競争以外の所では成り立たないであろう。勝利をめざして努力するという枠組みのなかでのみ、上品に、勇敢に、スポーツマンシップを貫きとおすことについて語る意味が生まれてくるのである。競争がなければ、スポーツマンシップを声高に叫んで、競争の影響をおさえよると努力しなければならないということもないだろう。はじめから人々と協力しあっていてもかまわないのである。
ナンバー・ワンにならなければいけないというプレッシャーは、他人に汚い手をつかうように期待し、自分自身がルールを破っても正当化されるのだと考えてしまう悪循環を生み出すのである。自分が正直にふるまうならば、外の人間に有利になるだけなのである。違反者が良く言うように、正直はなんの得にもならないという不満は、利己主義的かもしれないが、競争社会においては正しいのである。
競争においては勝つことのみが重要なのである。汚い手を使う選手は、一目おくべき人物であり、堂々とした、恐ろしいほどの人物だと評判になる。あの選手は「悪賢い」とか、「手ごわい」という言葉は使うとき、子供たちは、称賛の意味を込めて言っているのである。
どんなことをしてでも勝利しなければならないというプレッシャーは、スポーツ選手に限られるものではない。社会学者のアミタイ・エッツィオーニが説明しているように、非倫理的なキャンペーンが行われるのは、ある意味では、アメリカ社会において優先順位があたえられているためなのである。政治的な腐敗を予想されたものとして、またあたりまえのものとして忘れさってしまうのはこまったことだが、危険なことでもある。それは、「あらゆるものが有害なものだ」という理由で、健康にとってなにが危険なものを区別してみてもはじまらないと拒絶するのに似ている。その結果、政治家たちは、自分たちが行った不正が発覚しても、それに対する反応は、選挙の結果には影響しないということを承知しているのである。同じように、戦術に活路を見出そうとする弁護士は、本当に問題なのは裁判における勝敗の記録だということを承知している。マーヴィン・フランケルは、「勝利することに価値をおき、敗北するのを憂慮するシステムにおいて、弁護士は、顧客のために戦うように訓練されているのであり、顧客を裁くように訓練されていない。このシステムを支持するわれわれは、不利なことなど『知ろう』としないのであり、上品な道徳意識も期待されてはいないのである」と表現している。
社会的なプレッシャーは、競争が元々持ち合わせている質を強めるだけなのである。どんなことをしてでも勝利するということを容認してしまうことが、不正な行為をする二つ目の誘因になる。一つ目の誘因は、競争そのものの性質にある。
ある種の活動が競争的でなくなればなくなるほど、すべてが平等になり、「不正」を犯す可能性は益々少なくなるだろう。どんな相互行為の場合にも、競争が集中すればするほど、それだけ楽しいものでなくなるし、自己評価、人間関係、公正さの基準をますます破壊してしまうだろう。