現代スサノウの言霊 

TOP > 競争社会をこえて>8.女性と競争

8.女性と競争

競争的な文化は、その社会の成員にたいして競争するように訓練をほどこす。しかし、その訓練は、すべての人に対して画一的におこなわれるのではない。ダウンタウンに住んでるか、それとも郊外に住んでいるか、あるいは生まれた家庭が豊かか、それとも貧しいかによって違ってくる。これまでは触れてこなかったけれども、もっとも重要な要因は、性差によるものである。いつ、どのように競争をするのか、そして、競争という活動全体をどのように考えたらいいのかということについて訓練をほどこす場合でも、男子と女子では大きく異なっている。そのため、男性と女性とでは、ものの考え方が違ってくるわけだが、このことが、社会全体におおきな影響を与えるのである。
アメリカの男性たちは、もっぱら勝利するために訓練をほどこされるのがふつうである。男子がすぐに身に付けるべきなのは、好かれることではなく、うらやまれることであり、受け身になるのではなく、行動することであり、集団の一員であろうとすることではなく、集団の中でも他人と自分を区別することである。子供の研究の中で、キャロル・エームズは「競争に負けてしまうと、女性よりも男性の方に自我の危機が生じる」と述べている。男子にとっては、ナンバー・ワンになることが至上命令なのである。
性差にかんしては、エレノア・マッコービーとキャロル・ジャックリーンは、60年代後半から70年代初めにかけて行われた研究を再検討し「男子のほうが、競争を好む傾向がある。だが、その行動は、あきらかに状況や文化の差異に大きく左右される」と結論づけている。
最近の調査研究によれば、こうした男女の違いは大人になってもなくならないということが確認されている。成長すると競争意識の衝動は、おさえられたり、べつのものに昇華されたり、別の方向に向けられたりするかもしれない。一人前になった男たちが街で通りで目と目を合わせた時、心の中で何を思い浮かべるのだろう。
『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の「アバウト・メン」というコラムに掲載された内容、男性にとっては、話をするという行為そのものが、多くの場合「だれがほんとうにいちばんなのか、強うのか、利口なのか、要するにパワーがあるのか」を証明してみせるチャンスなのである。
男性にとっては、それだけなのだ。彼等が受ける訓練とその訓練が形作っていく性格の構造は、単純なものである。それに対して、女子の場合には、競争するように育てられる子もいれば、その逆の子もいる。女子の受けるメッセージは、複雑にまじりあっているのが普通であり、競争にたいしては、とてもアンビバレントな気持ちが生じるのである。現在では、競争の願望にたいする女性の態度も変化しつつある。要するに、この問題は、女性にとってはとても複雑なものなのであって、知的な意味でも興味深く、また、政治的な意味でも緊急の課題なのである。
60年代に、マティス・ホーナーは、女性が競争にほどんど関心を示さない理由を説明するとても有力な方法を考え出した。ホーナーは、ミシガン大学に提出した博士論文の中で「成功への恐れ」という新しい動機を提案した。これは、男性と女性の違いを説明するために考え出されたものだった。女性は、業績を上げよるとするのは女らしくないものとみなすように育てられるものだから、一生のあいだ上手くやっていける見込みがあるかどうか不安を感じるようになるというわけである。ホーナーは、在学生たちに「医学部のクラスのなかでトップに」なるという設定で架空の学生についてストーリーを書いてもらうことによって、このことを検証した。だが綿密な検討の結果、ホーナーの発見した差異は性差ではなく、社会的な要因に根差したものだということが明らかになった。社会的な要因が変化していくにつれて、成功に対する女性と男性の態度に収斂するようになってきているのである。
またホーナーの「成功への恐れ」についてまわる問題、データをどのように解釈しているのかという問題は、成功と競争を混同してしまう傾向があるということである。この二つは決して同じものではない。実際、競争意識は、成功意識を妨げる障害になってしまいかねないのである。この恐れは、外の人々をうちまかさなければならないと思うから女性たちが尻込みするのであって、成功そのものが嫌だからではないだろうということである。
成功するのを恐れていると言われている女性でさえ、競争をともなわない仕事はじつにうまくこなす。これが実情なのである。
男性と女性を引き離すのは、競争であって、成功ではない。けれども、この点においても、男性と女性との差がなくなりつつあるという徴候が窺える。これはここ10年ないし20年ほどの間に、女性たちに競争するようにうながし、また、妥当で、しかも健全なものとして競争意識をうけいれるようにかりたてる大合唱が起こってきたのである。「競争のスリル」という文章が、1980年『セブンティーン』誌に掲載され「あきらめないで、成功の階段にのぼろう」というのは、10代の女子たちに対した助言したものである。
競争を受け入れる人たちが目指してきたのは、信奉者を獲得し、男女ともに女性についての考え方を変えることことなのである。
競争的な文化においては、女性たちが男性たちのために、もっとも魅力的な地位を獲得するために常に競争してきたということが議論の対象になる。目新しいのは、競争をおしすすめていこうとする気持ちが極めて強く、恥ずかしいとか、躊躇するなどということがなくなったことであり、いまでは女性たちが男性たちと競争しているという事実であり、公的な競争の場に登場しているということである。
それと同じことが、スポーツにおいても起こっている。反対の意見は、一つも見つからない。『ミズ』誌は、1985年の3月号に、表紙に筋肉隆々の女性ボディビルダーにインタビューしたが、この女性は、男性のボディビルダーとまったく区別できないほどの肉体を誇示していた。
映画における女性の描かれ方が、文化の転換を示すもう一つの格好の指標である。1968年の『ファニーガール』は、バーバラ・ストライザンドが扮するファニー・シャリフがおどけたり、無我夢中になったりするラブ・ストーリーを描いたもので、オマー・シャリフは、彼女の気まぐれな行為にも含み笑いするだけで、少女のような移り気を甘やかすだけなのである。ストライザンドが演じる少女は、自分の恋人よりも勝っているのだ。15年後に、『イエンテル』で、ストライザンドは、男になってしまった少女を演じた。これは、80年代のはじめに、アメリカ映画においておこりはじめていたことをそのまま解釈したものである。たとえば、『フラッシュダンス』や『ハート・ライク・ア・イィール』では、女性たちは、障害を乗り越えて勝利するのであり、たとえどんなに犠牲をはらってでも競争に勝利するのだという夢を熱狂的なまでに抱いているのである。彼女たちは、他人に勝利することに自己実現の道をみいだすのであり、事実上、大声を出す男性になるのである。
少しばかり簡略化しすぎるきらいはあるが、現実の生活において競争意識をもつように宗旨替えするのは三段階に区別することができる。はじめは、女性は、競争しようと試みることに抵抗を感じる。次の段階では、競争することはするけれども、深刻な不安を抱いている。最後に、彼女の行動に感情や信念がおいついていくのである。
このようなモデルの対しては、いつでも反対の声が上がっていた。だが、最近では、競争を好む人々の声が高まったことによって、抗議の声が沈静化してしまっているようである。
男性のまねをすることによって女性を解放しようとするにせもののフェミニストの姿勢に反対する。このにせもののフェミニストの見方では、差異という名のもとに、両性具有に反対するのではなく、女性たちが受け入れるように求められている、競争のような男性特有の価値に反対しているのである。
関係性をつくりあげること、つまり、外の人たちの結びつきにとくに重きを置く他者志向的な姿勢が、伝統的に女性がもっている世界観をあらわす特徴だった。競争をとるのか、それとも関係性をとるのかは選択の問題なわけだが、女性たちは、後者のほうを選択すると断言するようになっている。関係性にたいする関心がどのように考えられてきたか、三つの例を上げてみる。
一つ目は、道徳の発達である。女性たちは、相互依存の関係性を感じとることによってもたらされる義務という観点からものごとを考えがちなのである。女性たちが欲しいものをみつける基準とされてきた道徳の基準は、男性志向のモデルにもとづいたものだということなのである。この男性志向のモデルに迎合しようとするよりも、おそらく女性よりも男性と共に、女性の声としてはっきりと述べられる倫理的な指向性がもつ価値を考慮すべきだろう。
二つ目は、何人かの研究員たちは、ゲームをして遊んでいる少女たちが、ルールについて解釈が一致しなくなると、最初からやり直したり、外のゲームに変えたりすることを観察している。これは、おそらく、少女たちは、友情を大切にしており、ゲームを続けたり、ルール万能主義の技術を身に付けるために、自分を危険にさらしたいと思っていないのである。女性たちにとっては、規則よりも関係性のほうが優先順位の高いシステムなのであり、このことは、男性が準拠する観点から考えた場合にのみゆがんだかたちであらわれるのである。
これらふたつの異なった指向性をされにみいだすことができるのは、会話においてである。女性は、男性よりもおおく質問し、会話を交わしている仲間の人たちをくつろがせるようにしてあげるだけでなく、会話のきっかけをつくってあげたり、とりつくろったりする責任もうけもつ傾向がある。
道徳的な根拠づけだとか、あるいは子供の頃の遊びや会話からもあきらかなように、関係性にたいして女性がかかわりをもつということがとても重要なのである。競争へと宗旨替えすることが示しているのは、他人とのかかわりを放棄してしまい、他人に対して配慮しなくなってしまうことにほかならない。女性たちにこの損失の責任を負わせてしまうのは不公平であろう。
関係性が持つ価値を再確認するというのは、依存症を賞賛することではない。他人との結びつきを伴う生活の一部を大切にするからといって、その人が、他人の求めるがままになってしまうことではない。まして、他の人たちが健全な自己方向付けを行い、自立するのを犠牲にさせてしまう意味ではないのである。より競争的になることが成長を表す徴候であるかのように、話をしたり、行動したりする人人々ともいるが、これは、競争と自立、ないしは関係性と依存性とを混同しているに過ぎない。
男たちは、競争の舞台から女性たちが排除されることで利益を得て来たのである。
この説明には真実味がある。競争に関する限り、男性と女性の両方にとって、もっと広い意味において選択肢が不足してしまっているのである。女性たちは、競争することができないのに対して、男性たちは、競争しなければならない状況に置かれていると言えるだろう。政治力と経済力という点からすれば、こうした状態は均衡がとれているとは言えないと付け加えて置くべきだろう。男性が置かれている「苦境」が、ショーを企画したり、公的な領域を独占したりするようしむけるのである。しかし、フェミニズムがこうした状況に甘んじているとすれば、そのどれもが、男性優位を認めているということなんであり、しかも関係性を軽視することに同意しているわけであり、「なんてめちゃくちゃな」というかわりに、「わたしもよ」と言っているようなものである。
女性たちが力こぶをにぎりしめたり、ウォール街であぶらぎった守銭奴たちのクラブに潜り込んだりするのは、特殊なものであり、悲しむべき解放なのである。
すでにふれておいた三段階にわたる社会化の過程、すなわち、競争の避け、やましい気持ちをいだきながら競争し、ついにはわき目もふらずに競争するという過程を遡ってみる必要がある。女性たちは、まだそれほど遠くへいってしまてはいない男性といっしょに、自分たちの罪についてじっくりと振り返ってみるべきなのである。
競争ができないような状況をつくりだすことこそ、目標なのである。それは、女性にとって出発点であると言われるとおりである。「競争することができない」のではなく、「あえて競争をさける」ことなのである。心理療法の理想は、治療専門家のような特殊な人間になることではなくて、自分の視野をもっと広げ、柔軟で、自由な選択ができるようになることである。女性たちは、競争を身に付けるのをやめることを選ぶようになり、競争のかわりに、真の意味で関係性を肯定するようになるのだと、私は信じている。このような時代が来れば、学ぶべきは協力であり、それを学ぶのは男性であるということになるだろう。