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10.ともに学ぶ

学校へもどろう

アメリカの教室において、他人をうちまかそうと望むことほど一貫して奨励されている価値観はほかにはほとんどないのである。この価値観を教え込んでいく訓練は、ときおり目の前にげんこつをちらつかせるといった全く陰険なやり方で行われる。書き取りのテストの競争、曲線グラフで示される成績、賞の授与式、生徒のほとんどをまたもや敗北者とみなしてしまう慣行などが、価値観を植え付けていくために利用されるのである。
競争とならぶもう一つの価値観であり、教育者によって同じぐらい熱心に強調されいるのが、個人主義である。子供たちは、自分のやるべきことから注意をそれさないように指導される一方、まるで自分一人だけの島にでもいるかのように、別々の机にすわっている。生徒たちが自分だけの努力を基準にして評価されるのはいうまでもないことであり、しかがって、外の生徒が手を差し伸べてあげるのは不正なふるまいだと解釈されるのである。
アメリカにおいてふつうにみられる二種類のクラス編成は、子供たちが互いに敵対しあいながら学習していくこと、あるいは、互いに孤立した状況で学習していくことを要求しているのである。 後者は、数十年まえの、うわべだけは進歩的な改革の結果もたらされたものであり、個人主義の学習として知られている。これら二つのモデルに対し、協力学習として知られるもう一つの方法を採用している教師たちもいることを明らかにしておく。協力学習は、教室においてだけでなく、どのような場においても、構造的な競争にたいしてもっとも有力な代替案の一つになりうるのである。

生徒どうしのあいだで

促進的な(あるいは積極的な)相互依存という概念、つまり、自分の成功が他人の成功によって促進されたり、他人の成功に依存しているのだとする概念は、モートン・ドイッチュにはじまる。アメリカでは、ごく最近になって、このモデルが教室における学習にはっきりと応用され始めた。ドイッチュのかつての教え子であるデビッド・ジョンソンとその弟のロジャーは、1975年に、CLにかんするはじめての専門書を出版した。CLというのは、教室において共通の目標にむかって作業を行うことを意味している。つまり、2人1組になったり、あるいは小さなグループに分かれて、積極的に相互依存しあう状況において学習するということである。
積極的な相互依存関係とは、他人が成功したときに自分も成功するのだということ、つまり、他人が自分の学習にたいしていだく関心は他人がわたしの学習に対して抱く関心と一致するという意味である。
CLにかんする誤解の最もたるものといえば、いくちかのグループにわかれて学習するというのは、「さあ、みなさん、今日は第3金曜日です。いいですか、今日はそれぞれのチームにわかれて学習するんですよ」というように、教室の雰囲気を盛り上げて、まじめな授業にほっと一息いれさせるための仕掛けにすぎないのだという考えをまったく意に介さないものだろう。クラス全体が討論を行ったり、ひとりひとりが個人で行う作業を教師たちがある程度まで採用し続けていきたいとあきらかに思っているうちは、CLは、幼稚園にはじまる「参加型とは程遠い」、ごく普通のクラス編成になってしまいかねないし、また、そうなるだろうと言っておかなければならない。
最後に、建設的な対立にかんして述べておいたことをくりかえしておくならば、CLという方法は、討論が終わり、与えられた課題がなしとげられたあとでも、議論の余地のある論点について意見の一致をみ、同意を獲得することができるものだというわけではない。敵対的な対立をもたらすことを避けたいと思っている教師たちは、「自分に与えられた任務は、妊娠中絶が法的に認められるべきかどうかについて合意をつくりだすことだ」というようなはやまった意見の一致をもとめる必要などないのである。

協力学習の効果

CLには多様なパターンがあるが、その前に、CKについて論じることがなぜ、重要なのか、CLをふきゅうさせていく運動がなぜ重要なのかに触れておきたい。CLについては、文字通り何百もの調査研究によっていくつものパターンが検証されており、その結果にかんしては、現在のものよりももっとよく知ってもらう必要がある。CLがもたらしたメリットは、とても大きなものであり、また、首尾一貫してメリットがもたらされている。
自尊心;まず最初に、生徒が自分自身のことや自分の能力についてどのように感じているのかという問題を考えてほしい。競争と自尊心の関係は、砂糖と歯の関係と同じである。競争的な状況におかれると、自分に対する信頼感そのものを持続させていけるどころか、「最近、自分のためになにかしたことがあるのか」と自問せざるを得なくなってしまう。だが、CLは、たんに軋轢をもたらすような競争の影響を避けるだけではない。もっとも望ましい状態においては、CLそのものを高めていく効果をもっているのである。しかし、CLが自尊心をおさえていくための魔法の様な治療法であるという結論を下すべきではない。子供たちは、家でがみがみ言われたり、自尊心を傷つけられたりすることで、嫌気をさすこともある。これら問題は、教室にCLを導入する以上に、はるかにおおきな変化を求められるのである。次に自尊心に関する調査には、正確さという点で是正しなければならないものがたくさんある。さらに自尊心を測定するためのテストは、特異なものであることがおおく、あまりうまく設定されていない。
自尊心を巡る理論と実践にはこのように限界があるのも関わらず、子供が、わずかな期間でも学校で過ごすならば、自分のことについてどう思うかにかんして違いが生じてくる可能性があるという証拠は十分にある。自分たちの役割をきちんとはたすことができるグループの中で学習していくならば、社会の支持を得られるという環境をととのえてくれるし、学力の向上という成功を獲得するチャンスも高まっていく。
社会的な相互行為;消極的な相互依存の構造よりも、積極的な相互依存の構造によって、相互行為をかわしあっている人たちをより好意的な目で見ようという気持ちになるというのも、驚くことではないだろう。教育に関心のある人たちにとってただ一つ問題になるのは、敵意をおさえること、社交術をもっと身に付けること、自分とは異なった経歴や能力を持った人たちを受け入れるようにうながすこと、他人を自分の成功を妨げる障害というよりもむしろ潜在的な協力者と考えるようになることを、CLの採用を正当化する際にとても重要な目標なのだとみなせるかどうかということである。このような疑問を投げかけてきるのはそれに答えるということだと私は思う。
最近明らかにされたことをもう一度検討してみると、CLを積み重ねていくことによって、子供たちは互いにより好意的な目でみるようになるし、人種がことなる子供たちの間にも友情が芽生える可能性もまし、障害を持つ生徒たちを受け入れる気運が高まり、視点を獲得しうるようになること、つまり、誰かほかの人の物の見方を予測する能力を身に付けるようになるということが確証されていく。ある研究によれば、対人関係をつくりあげていく力量が乏しいというのは、経営者自身の失敗を示すもっともおおきな理由なわけである。したがって、子供たちがCLから社交術を学ぶということそのものは、アメリカの教育をより競争的でなくし、より協力的にするために説得力のある論拠になるようにおもわれる。
達成;CLの調査研究から得られる最も喜ばしい発見は、生徒達が自分自身について、また、互いの間でよりよい感情をもてるように手助けすることと、生徒達が学習効果を上げるように手助けをすることとは相殺関係にあるわけではないということである。一緒に力をあわせて作業を行っていくならば、それを達成することによって自尊心や対人関係の質をたかめるのとまさに同じように、「最低限の」恩恵をもたらしてくれるのは確実である。これらの恩恵は、あらゆる年齢の、あらゆる学科の、あらゆる学校の生徒によって享受される。
個人的に実例をあげて明らかにするように求められている人ならば、ながいあいだCLを採用して来ている先生を探し出し、生徒の理解力、問題を解決する方法、独創性、たんに事実を思い出すといったことなどにどんな影響を与えているうのか尋ねてみるべきである。その変化は、文字通り信じがたいものになるだろう。
調査の結果、標準テストのようなかなり表面的な基準によるものでさえ、その進歩は確証されている。またこの原理は、はるかにたかい到達度を目指す高等教育においても注目されてきた。
LCは、子供たちが競争を回避するようにしむけ、さまざまな手を使って非生産的に結果にならないようにしてくれるのである。
1.不安感;競争は、作業の遂行をさまたげるてしまうようなある種の、あるレベルの不安感を促していく。
2.外的な状況;お金、成績、賞状、食べたいとも思わないデザート、優等賞のような、ほかの外的な動機付けの誘因がそうであるように、競争は、子供たちが与えられた課題をできるだけはやくすましてしまおうと思うように仕向けていく。このことは、子供たちが自分の頭をつかって問題解決を行ったり、物事を突き詰めて学習しようとする場合に必要な方法を取ることによって、危険をおかしたり、自分の考えが散漫になってしまわないように回避することを意味する。競争やそのほかの外的な動機付けの誘因は、さまざまな課題に対して関心を持たないようにしてしまい、作業の遂行を妨げてしまいがちなのである。
3.帰属意識;子供たちは、勝敗とは関係なく、競争における対戦の結果をいつも幸運や能力の限界のせいにする。その結果、学習するために力量をつけようとする気持ちがおろそかにされ、学習にたいする責任感が失われてしまうのである。
4.予測可能性;競い合いに勝つためのチャンスが、なにかを学習するために生徒たちに与えられてきたおもな動機とするなら、トップになりそうな生徒たちのほとんどは、学期のはじめに頭角を現すことになる。したがって、予想される勝利者は、ほかのすべての生徒を打ち負かすのに必要なこと以外にはなにも行う理由はないのである。もっと重要なのは、敗北者になってしまうすべての生徒たちが、その主要なテーマとされている問題にかかわりあう理由付けがまったく与えられていないということである。
5.感情的な恩恵;自尊心や仲間たちとの関係にCLがあたえる積極的な影響は、業績をあげることができるかどうかに積極的な影響をあたえるものへと形を変える傾向がある。職場における経験が、この見解を裏付けている。つまり、自分自身も、自分の仲間も、両方とも立派だと思う人たちは、条件が同じなら、そうでない人よりもっといい仕事をするように思われる。
6.どうしようもない恥辱の排除;これまで通りの教室で学習しており、授業にあまりにも関心を持ちすぎていることをあからさまにするような生徒は、「先生のペット」という意味をあらわすあまりありがたくないレッテルをはられることになってしまいがちである。しかし、CLは、一連の新しい規範を作り出すのに役立つ。
7.テーマへの関心;作業を効果的に行い、またメンバーをささえてくれるグループの一員になるのは、ほかの人たちに対抗して、あるいは、ほかの人から離れて作業をすることによりも楽しいだけではない。CLは、自分たちが学習していることに生徒をもっと熱心にとりくむようにしてくれるのである。
8.知的な相互行為;もっとも重要なのは、CLが成功するのは、「ぼくたちはみんな、だれよりも頭がいいわけじゃないんだ」という理由によるのだということである。もちろん、すべてのグループがうまく機能しているわけではないけれども、うまく機能しているグループの場合には、とくにどこまでやればいいのかきりがないほど努力する必要がある課題にかんしては、そのグループのメンバーのだれかが自分一人でやるよりも、もっとうまくやりとげることができるのである。グループ全体でおこなったものは、グループのメンバーがばらばらに行ったものの総計よりも実りが大きいのである。
ある生徒はあることを素早く理解して、自分のチームメイトが理解できるように手伝ってあげるならば、教える側も、教えられる側も、両方に利益をもたらすのである。
明確な指導がおよばない場合でも、グループで作業を行っていくならば、ある人のアイディアがほかの誰かにもひとつのアイディアを思いつかせてくれるのである。
こうした現象は、研究の対象とされているテーマについてどのように考えるかということだけではなく、そのテーマをどのように吟味するのかという考え方にも当てはまる。
CLは、矛盾を許容するだけでなく、実際に成果をあげるためにはある程度その矛盾を当てにしてしまうのである。
ある集団のなかでは、子供たちはいつでも入れ替え自由であるメンバーであるべきであり、何かわけのわからないシャボン玉のあわのようなグループに子供たちを放り出してもいいのだというような考え方を、この分析は支持しているわけではないということに注意してほしい。従順さをもたらしているのは競争なのである。協力は、参加者が多様であり、それぞれの個人が異なった貢献を行うということに基づいて形作られていくのである。
協力学習を裏付けることの意義深い、経験的な証拠すべてが、また、そのための経験的な証拠一般にたいする信頼が、しっかりとした見通しに基づいて位置付けられなければならない。

協力の実践

協力学習は、色々な形をとる。協力学習は、生徒達が書いた作文をみんなで編集したり、互いに向上していけるように助け合ったり、単語や掛け算の練習をしたりする教室において見られる。このことは、クラス全体の議論を再開するまえに、進化についてどう思うか意見を交換しあうその場限りのパートナーをみつけることを意味するのかもしれない。あるいは、それぞれの生徒が、毎日顔をあわせるいつもの四人組のチームを一員として、いま行われていることを理解するということを意味しているのかもしれない。
協力に基づいた授業のプランは、教師のノートから生まれるのかもしれないし、クラスの討論の中で考え出されたものかもしれない。おそらく自分たちの両親が政治について話しているものを目にした生徒は、ほかのさまざまな国の政治システムについて学びたがるようになり、チームメイトと一緒に学習し続けていくのである。
協力学習は、学習が能動的な過程であり、互いに影響し合う過程であるという前提をふまえている。その意味では、けっして平坦な過程ではない。これが、CLの採用を自分一人だけで決めてしまうことが難しい、きわめて現実的な理由なのである。学校全体がかかわらなければ、となりの教室の教師は、なんでそんなに騒がしいのか理解できないだろう。
生徒のグループへのふりわけ
LC]のグループの規模は、生徒の年齢、チームにわかれて作業を行っていく技量と経験、ふりわけかの仕方、活用できる時間によるだろう。全体としては、より多くの人たちを統合していくことが求められている。生徒が六人いれば、それだけ多くの情報を交換できるだろうが、もっと少ない場合、正確には四人以下の場合は、もっとスムーズに共通の成果をあげることができるだろう。とくにちいさな子供たちによって行われる場合には、二人一組で行えば、おおくの課題が速やかに達成される可能性がある。
1.生徒達自身にグループのふりわけを行わせるのは、彼等の決断力におおきな信頼をよせることになるが、はじめて一緒になる生徒たちと協力しあって学習するよりも、むしろすでに知っている好きな生徒たちと一緒に作業を行いたいという気持ちが強まるだろう。とくに、なんの制約もない協力学習にふさわしい振り分け方は、生徒達が探求したいと思う問題に応じて、子供たちにグループを作らせることである。
2.グループわけを行う教師たちは、異なった人種に属する生徒達や男子と女子の両方それぞれのグループに確実に含まれるように配慮しながら、振り分けを行うだろう。色々な人たちと作業を行うところにCLの長所があるかけだが、このようにグループが異質なものがあつまった集団として構成されたとき、素晴らしいものになるのである。
3.すくなくともある種の課題に関しては、能力のレベルが異なった生徒たちにわざといっしょに作業をさせて、互いに効率よく手助けを行うようにしむけることもある。
4.それぞれのグループが異質になるようにわりふることによって生じる質的な不自然さを避けるために、生徒たちは場当たり的なものになる場合には、それぞれの生徒たちがいろいろな人と作業を行う機会を確実にもてるようにするために、グループは頻繁にいれかえられるべきだろう。どの場合にも、問題の解決をめぐってもめごとがおこりた場合、もめごとを理由にグループをかえることができるという考えはよくないだろう。
社交術を教えてやること;生徒が、一緒に作業を行ってもあまり効果があがらないような場合、協力的でないと言ってとがめたり、効果が上がらないと言ってCLを採用するのをやめようとする教育者たちもいる。教師たちはいっしょに作業を行うという現象が何を意味し、どのようにしたら改善することができるのかを多いに注意をはらわなければならないと、CLを擁護する人たちのおおくが力説している。
それぞれの授業科目が導入されるのは、学問的な目標や社交上の目標を容易に実現できるようにするためなのである。
処理の過程;多くの大人たちにとって、学校にかよっていたころにグループで何かを企画した記憶というのは、結局はチームメイトが遊んでいるあいだに作業のほとんどを自分たちが押し付けられてしまったというものである。そのために、CLという考えに懐疑的な反応を示すのである。
個人の責任分担;多くの大人たちにとって、学校にかよっていたころにグループでなにかを企画した記憶というのは、結局はチームメイトが遊んでいる間に作業のほとんどを自分たちがおしつけられてしまったというものである。そのため、CLという考えにたいして懐疑的な反応を示すのである。確かに、グループの中の一人がレポートを全部書いてしまったり、ある問題をほとんど片づけたりしてしまうならば、LCによってうるものはなにもないだろう。その場合、個人の責任分担がどこにあるのかをどのようにして確かめるのかということが問題である。確かめる一番簡単な方法は、あらゆる教材について全員にテストを課してみるか、あるいは、それぞれのチームから適当に誰かを選び、そのグループが考え出したこととか、どうやってそれを考え出したのかを説明させてみることである。
積極的な相互依存関係;チームのメンバーが互いに助け合い、自分たちの考えを交換しあい、グループとしての一体感を持たせるための一つの方法は、生徒たちが共通の目標に向かっていっしょに作業をおこなわなければならないような課題を与えてやることである。
積極的な相互依存関係を作り出していく究極的な方法は、生徒達にいっしょに作業を行わせるようにしむけるために、成績評価、証明書、優等賞、そのほか外部からの報酬利用することである。このように、あるチームが、テストの成績が一定レベルに達しているということで褒美をもらえるかもしれないし、また、ある生徒の評価がある程度上がったのは、グループ内のほかのだれかの成績が向上したおかげなのかもしれないのである。この点をめぐっては、CLのモデルを三つのカテゴリーに分ける事ができる
1.いくつかの方法のうち、とくにロバート・スレーヴィンとその同僚たちが開発した「チーム学習法」は、基本的には、あきらかに外的な動機付けの誘因を利用することによって進められて行く。
2.外の学習法の場合には、一方では、相互依存関係の形成をうながしたり、動機付けをゆるさないものにするために報酬を与えることを認めるものの、他方では、留保条件をつくたり、すくなくとも報酬をつらつかせることを強要する必要はないとされているように、報酬を利用するのかどうかを巡ってはある種のアンビバレンスを反映しているとうに思われる。けれども、外的な動機付けの誘因は、「協力学習を行うグループに本来備わっている内的動機付けがあらわになってくると、おそらくすぐに排除されてしまうだろう」と示唆されている。
3.最後に、それらが誤魔化しであるとか、有害なものだとか、必要なものではないとか、あるいは、これは三つがすべて含まれているという理由で、外的な誘因を」利用することをきっぱりと拒絶したり、すくなくともあきらかに避けようとするモデルもある。
すでに述べておいたことだが、社会心理学のかなり多くの調査研究が明らかにしているように、与えられた課題をこなすのは報酬をえるためなのだと生徒が思っている場合、あまり時間がかかりすぎると、遂行されるものの質が低下してしまうのはもちろんのこと、課題にたいする関心もうすれてしまいがちなのである。競争が反生産的なものになってしまいがちなおもな理由のひとつは、競争が明らかに外的な動機付けの誘因として位置付けられるところにあることを思い出してほしい。どんなにひかえめにいっても、競争以外の動機付けの誘因をあたえてやることが、適切なアドバイスにるとは思えないのである。
一方には、個人のレベルではなく、グループのレベルで、伝統的な教授法や理論が適応されるということをのぞけば、その学習に関する哲学がアメリカの教育界において主流をなしているものとさして違わないような人たちがいる。協力というのは、彼等にとっては、じつに強制的に教え込まれて行くバラバラな行動の寄せ集めに過ぎないのである。すでに教えられているカリキュラムがどのようなものどろうと、それをこなす子供たちの学習の仕方を改善していくために、教師があらかじめ決められたやり方で遂行する一連の戦略がCLなのである。
もう一つは、どのようにして学習の意義を説明し、学習を促していくのかという点で大きいな転換をもたらす、幅広い教育界の動きの一部として、CLを位置付ける人々の立場である。ここでは、子供たちは、様々な事柄を受動的に受け入れていくだけの存在なのではなく、自分自身や周りの世界を理解しようと一生懸命に努力する存在と考えられている。
教師の役割は、子供の好奇心を刺激したり、色々なアイデアをつかって遊んだり、意味を見出しだしていく過程を促したり、知的な能力や社交術を育んでいくのを手助けしてあげることである。その目標は、生徒達が外の人と一緒にうまく作業を行っていくことである。
わたしが行うような基本的な区別は、この数十年のあいだにも、あちらことらで見られた。しかし、それらは、CLの問題にたえうるようなものにはなっていない。それは、協力学習の分野に属するさまざまなモデルを区別するために用いられる図式であるだけでなく、きわめて重要な分岐点でもある。

協力の三つのC

行動主義の前提を受け入れる人々は、CLも、ほかのものと同じように、外的な動機付けの誘因にもとづいているから成功するのだと主張するだろう。逆に、構成主義の立場をとる人たちの伝統に沿って述べるならば、わたしは、こうした刺激が与えられなくても、LCが有効に機能するのだと指摘しておきたい。
管理;仕事で何かをしなければならないのか、また、どのようにして行わなければならないのかを正確に述べるのに慣れきってしまっている大人たちは、いわゆる完全燃焼の犠牲になってしまうがちである。協力学習によるものかどうかにかかわらず、学習に興味をいだかせるようにするためには、どんな刺激を与えるよりも、自立させるほうがはるかに効果的なのである。教師たちは、生徒自身の学習と相互関係に責任を持つことができるように積極的に手助けしてあげるべきなのである。
自立という考え方を重視するCLモデルのひとつが、グループ調査法である。このモデルの場合には、生徒達は、与えられたテーマについて、なにを知りたいのかによって調査グループにわかれる。そして、作業をどのようにわりふるのか、そのように調査を行っていくのかについて、みんなでいっしょに決定する。それぞれのグループは、情報をあつめて分析し、自分たちが学んだことを反映した最終報告や改革案を分担して準備する。最終的には、それぞれのグループが、評価の過程にもかかわっていくのである。肝心なのは「評価を隔週過程に組み入れる」ことなのである。
カリキュラム;おおくの著書が、さまざまな学年のさまざまな科目において採用されているカリキュラムの改善にかんして論じた記述であふれている。三点だけ指摘することにする。
第一に、子供達が生来の好奇心を働かせて、自分にできるかどうか心配するほど難しくなく、退屈してしまうほどやさしくない課題を与えたとき、たいていの場合、その課題に立ち向かっていくための外的動機付けの誘因など必要ではないのである。
第二に、カリキュラムさえしっかりしていれば、報酬をあたえなくとも、子供たちにCLにたいして関心を持たせていくための必要な方法、そして、十分な方法になりうるのである。
第三に、カリキュラムの問題をCLと関連付けていかなければ、そのカリキュラムを挫折する運命に追いやってしまうかもしれないのである。
コミュニティ;生徒達が自分の利益になる場合にのみ、また、とくにそうすることによって報酬がもらえると期待できる場合にのみ協力して作業を行うのだと考えてしまうと、すなわち、教室がどのような状況におかれていようと自然に協力がおこなわれていくのだといった基準をつくりだすことなどできないだろうと思い込んでしまうと、「人間性」にたいするきわめて皮肉な見方を逆に裏切ってしまうのである。ふさわしい環境さえあたえられるならば、他人の面倒をみるのは、自分の面倒をみるのとおなじように自然なことなのである。
コミュニティの価値を強調し、推し進めていく教室においては、積極的な相互依存関係が維持されていくのである。学力水準を引き上げるに必要とされるのは、外的な同時付けの誘因を与えることだけではないということが、すくなくとも三つのCLの教育プログラムの研究成果によって明らかになっている。第一に、グループ調査法は、学習の質という点にかんしては一貫して好結果をもたらしている。第二に、児童能力開発プロジェクトのおかげで、この教育プログラムを採用しているクラスの子供たちは、標準テストではいい成績を残せなかったものの、より高いレベルの読解力が備わっているかどうかを判定する作文のテストでは、いい成績をあげたことが明らかになっている。第三の、もっとも最近の例では、構成主義の原理によりながら、小グループに分かれて行う作業にもとづいた二年生の数学の教育プログラムによるものであり、「賞を与えることも含めた外的な動機付けや外的な報酬システムがまったく存在しない」というところに特徴がある。
管理やカリキュラムやコミュニティという問題に関心がむけられれば向けられるほど、CLは勢いをえて、さらには、アメリカの学校教育を根本的に変革していく一翼を担えるようになる。こうした関心が欠けてしまうならば、教育そのものも困難な事態に陥てしまうのである。

協力が実現されていく展望

具体的には、CLの性格はおもに四つのものに分けることができるが、教育者のおおくは、これらを明確にしきれていない。まず、CLは、競争という価値観にたいして文化がどれくらい影響をあたえるのかをあきらかにしようとするものである。つぎに、CLは個人主義という価値観にたいして文化がどれくらい影響をあたえるのかをあきらかにしようとするものである。三つ目におおきなさまたげになる要素としては、CLが社会的な目標に目を向けるように求めるという点をあげることができる。
CLが広く採用されるのをさまたげる最後の要素は、(少なくとも構成主義的な立場の学習法にそくして)子供たちにグループごとに作業を行わせてしまうために、教師の管理が教室中に行きわたりにくくなり、その日その日にどんなことがおこるのかも予測しにくくなってしまうということである。伝統的な授業方法のモデルの場合には、指導者に教わった通りにソロ演奏するというものだが、それにたいして、CLの場合には、教室の中にいるみんなに楽器をあたえるだけではなく、ジャズの即興演奏をするように求めるものである。
協力学習は、アメリカ社会のこれまでの社会制度に十分そうものかどうかによって、採用されたり、採用されなかったりすべきではないのである。むしろ、アメリカの制度が、どのようにしたらうまく協力学習が示唆してくれるような価値観にそうようになるかのよって、存続したり、衰退したりすべきなのである。