現代スサノウの言霊 

あとがき

競争についての私の見解にたいする反応は、ほぼ三つのカテゴリーに分かれる。
まず第一に、わたしの話がすすんでいくにつれて、「そのとおりだ。わたしも、15年間そういうふうに考えてきたんだ。だが、大きな声でそういうのをためらっていたのだ」とでもいうかのように、たえまなくうなずく人たちがいる。
それと全く逆のところに位置しているのが。わたしを共産主義者とか、いくじんしと非難する人たちである。このような人たちは、競争が望ましいものではばいとか、必要がないものだと考える人など海王星にでも住んでいるにちがいないと勝手に思い込んでいるので、しかめっ面をしたり、にやにや笑ったりしながら、じっと腕組をしてイスに座っている。
これら二つの中間に位置しているのが、競争が反生産的なものだといううわさを必死になって打ち消そうとするものの、そのような願いがかなう可能性がないことに気がついている聴衆である。
競争に反対する決まりきった答についても、個々で触れておく。子供たちにとっては、大きくなった時につきあたるはずの競争にそなえて準備をしておく必要があるのだから、競争をできるだけおさえなければならないなどというのは、子供たちにひどい仕打ちをしていることになるのだと、いつも言われる。私の答えは、子供たちが社会に出てから見出すものを用意してあげること、それから、自分たちが見出したものを必要があれば変えていく心構えをもたせること、この二つを同時に追い求めなければならないということである。
しかしながら、こんなこととはかかわりなく、実際には、このアメリカの社会において生活している生徒たちは、競争がどんなものなのはすでによく承知している。
わたしは、競争について文章を書いたり、講演を行ったりする一方で、この研究分野をひろげていくために次の三つの研究を行ってきた。まず、教育分野においては、とくに競争にかわる方法として協力学習を採用することに関心を寄せてきた。
つぎに、競争が「人間性」の一部にすぎないのかどうかという疑問が生じたために、この概念について検討し、とくに利己心、攻撃的な性格、そのほか余り立派なものとは言えない特性が、寛大、気配り、感情移入といったものよりも実際に自然なものなのかどうかを問いかけることになった。
最後に、競争の研究によって、より広い問題点、すなわち外的な動機付けの誘因を利用することが重要であることが明らかになった。
多くの学校で、協力学習を採用しようとする動くがあり、ある程度までは、実際に共同作業をおこなっていくことにかんして関心が高まり、学校の当局者たちの一部では、その「質」によって奮起がうながされていることに、私は意を強くしている。しかそ、政治家や実業家や教育者のあいだでは、六年前でさえ、競争意識についてさももっともらしい言い方をされていたのに、いまではそれ以上になってしまっていることに、わたしはうんざりしている。
精神分析の学会誌、ギター奏者や音楽の教師や写真家のための専門紙の様なさまざまな出版物において、競争の価値について反対の考えを持っている人たちが疑問を投げかけ初めているのをみて、私は意を強くしてしている。
一つの学区の10代の若者のうち49人までもが、うつ状態におちいったり、自殺未遂をしたり、ものを粗末にしたり、学業における競争によって引き起こされるストレスによるもの思われる原因で入院しているという記事を読んで、わたしは驚いた。
不正な行為やそのほかの問題は、すくなくとも、それぞれの個人に道徳的な欠陥がある場合と同じように、競争そのものによって生じるのだと述べておいた。
問題は、「許容範囲」をこえるほど攻撃意識をもったスポーツ選手を出場停止にしたり、汚らしい政治キャンペーンを考え出した者を非難したり、貪欲なウォール街で法律を犯した者を投獄したり、共謀した学生たちを罰したりするのは簡単だということである。競争そのものがどこか間違っているということを認めたうえで行わなければ社会の変化を請けあうのは、生易しいことではないのである。
病院、学校、産業、また、現在では政府ですら、さらに「競争」になっていると声をあらげていえばいうほど、つぎのような疑問がふたたび頭をもたげてくるのである。それは、競争を目標とすることが他人よりもすぐれていることとなにか関係があるのだろうか、あるいは、他人を打ち負かすことと、質の高い作業をおこなうこととは全く異なった概念であるという当たり前のことを見過ごして、この二つの概念をあいまいなものにしてしまっているだけなのだろうかというものである。
多くの制度が今初めて「競争的」になるように強制されているわけだが、健康管理の分野においても、それと同じような力学が作用している。以前にもましておおくの病院や診療所が、収益をあげるために公益法人によって経営されている。多くの施設では、「顧客」を求めて戦うように強制されており、ほかの経済部門においてもおなじであるが、収益をあげるための競争は、コスト削減をもとめる圧力と解釈されるのであり、そうするためのもっとも簡単な方法は、この分野においても、利益につながらない患者、すなわち、治療費を払えないような病人へのサービスをカットする事なのである。
これは、まさに保険会社が「競争意識」というスローガンをかかげながら行っていることなのである。すなわち、保険金の支払いを一番必要としている人たちに対して拒否するというのである。
ソ連の崩壊によって、多くのアメリカ人は、つぎのような演繹法を作り出すことになった。①アメリカの経済システムは、競争にもとづくものだった。だから、②ソ連のシステムは崩壊した。そして、③アメリカとソ連は、ライバル同士だった。これは④競争が作用していることを意味しているだろう。この演繹法はかなりいい加減なものだが、これに対してきちんと反論しようとすれば、ここで割り当てられている紙面ではとても間に合わないだろう。きわめて敵対的な二国間関係の競争は、ふるい鉄のカーテンの両側で経験された紛争とおおいにかかわりがあるとだけ言っておこう。もちろん、共産主義を衰退させる役割をはたした要因はたくさんある。だが、簡単に説明を求めるのであれば、競争が存在しないことではなく、ソ連では個人の自主性も、真の民主主義も存在していなかったために、自分たちがなすべきことに市民が関わっていなかったということに焦点をあてたほうがいいだろう。さらに、全く同じ要因が、アメリカにも存在するということを考慮したほうがいいだろう。
すでに記憶のかなたにさってしまっているだろうが、もう一つの不穏なできごとは、一九八七年十月におきた株式市場の暴落である。分析者の多くは、この出来事を「国際協調が行われなかったこと」、とくに、ドイツの利潤率とアメリカの通貨をまきこみ、最終的には、おおくの国々の経済状態に影響を与えた争いのせいにしたのである。世界中の国々が、1週間たつごとに、より一層相互依存を強めていくように見えるのである。こうした事態を目の当たりにすると、競争は、互いに破壊を招きかねないような企てだと思われる。
ソ連で何が起こったのか、なぜ市場が崩壊したのか、アメリカはほかの国々に対してどのように対処すべきかなどといったようなことから得られる教訓は、ほとんどすべてが議論し、考察すべき問題なのである。
バランスをたもつ動作の話をしながら、この過程の論理的な帰結がテニスのゲームに影響を与えかねないことに人々が気づきはじめると、競争という価値観に疑問を抱くように説得するのは難しいということに思い至った。 楽しみためにやっているのであって、だれが勝とうと全く気にしないという反応を示す人たちもいる。実際にこういえるような人たち、つまり、全く平常心を持って勝敗に関わらずにすませるような人たちにあまりお目にかかったことはない。しかし、それが起こったとしてみよう。得点の付けないゲームなど退屈なものとなってしまうだろう。もちろん、そうなっても構わないのだ。しかし、ある活動を非難するというのは、本来退屈なものなのであり、そのため、だれが勝ったことを量的にあらわす巧みな手段に頼る以外にうまく切り抜けることが出来ないのである。
ある研究によれば、スポーツをマスターすることよりも、勝利を収めることに動機付けがある場合、そのスポーツから脱落してしまいがちであるということが少なくとも明らかになっている。さらに、1200に以上の10代のスポーツ選手を対象にした調査研究によって、スポーツの楽しさを味わせてくれると考えられるすべての要因のうち、勝利するというのは、「スポーツを楽しむこととは無縁である。…しかも、男女別々にしろ、どの集団に属するにしろ、全体の例を考え併せてみた場合、勝利することなど、まったくといっていいほど予想されていない」ということが明らかになった。
最後に、一緒に作業を行ったり、学習したり、プレイしたりするだけでなく、実際に共同生活を送ることに関心のある人たちのためには、北アメリカにいろいろな関心を共有する人たちからなる300以上もの「意識的コミュニティ」がある。『意識的なコミュニティ辞典…共同生活ガイド』は、自分が一員であることがなにを意味しているのかを探求する論文集と同じように、これらのコミュニティの一覧表を提供してくれる。
私はあと5、6年したら、読者に対して推薦することができる著書をたくさん出版し、プログラムを作り上げ、競争に批判的な見解がますますマイナーな立場にならずにすむことを明らかにしたいと思っている。しかし自然にそうなるのを待ってほしくない。職場や教室で、遊び場でや家庭で、互いに犠牲にならずに、ともにうまくいくような機会をもてるように、一緒に努力しましょう。