現代スサノウの言霊 

9.高利貸し

年6%の「高利」は、無利子返済に比し、70%増にもなる

「高利貸し」という、何やら胡散臭さを漂わせるテーマに、原始より神々は興味をそそられてきた。石板の記録によると、神は「高利で貸す」ことに反対し、警告していたと伝えられている。マネーが発明される千年前に、高位聖職者であったハムラビも「高利」貸しに反対し警告した。警告するに当たって問題があった。無理からぬことではあるが、この当時、原初の人々の思考には、「高利」を構成するものは何かという明確な定義がなかったのである。最近の商習慣としては、「高利」とは借金に対する過剰な利率だということになっている。多くのアメリカの州では、10&から12%を超える利率は高利とみなすとした法律が成立している。第二次大戦後にアメリカの銀行は、既存顧客に対する貸付金については6%の利率をプライム・レート(最優遇金利)もしくは標準利率とする慣行を採用した。この慣行は、現在の貸金業の多くの実態をみると、どうやら道端に行き倒れて死んでしまった様子である。銀行のクレジットカードは今や30%の利率に届こうとしていることは周知の通りである。
ここ最近は宗教権威をもつ定言がないため、本書では、「高利」とは、「ローンの返済に要求される見返りが、借り手を経済的束縛に追い込み、個人の自由を損なう状態である」と定義しておく。他の信仰と同様に、「高利貸パワー」も、神として崇敬される存在となって活性化されなければ、人間の思考領域の中に休眠状態のままで表に出てくることはない。そこでモロク神が登場する。高利は、負債が商品として販売対象となり、利子の支払い対象となった瞬間に取引可能となる。利付の負債、そして、よく将来の引き渡しに対して割引価格で売買される負債には、長期債券、中期債権、為替手形、抵当権ローン、其の他様々な形態がある。
高利のパワーは、平均的な住宅ローンの中にたやすく見出すことが出来る。たとえば、10万ドル、20年物の利子がつくと、毎月713ドルにはね上げる。6%の利率が課せれると、毎月の支払額は70%の増加になる。8%の30年払いのローンであれば、毎月836ドルの支払いになる。利率が2%増えると、毎月の利払い額は、42%追加で増えることになる。利子がない場合に比べると毎月の支払額は2倍である。明らかに、経済霊に取り憑かれ、利子を支払う市民たちの生活水準は、高利を支払うことのない人々と比べ、高利によって低下する。高利で資産が上回っていることに気付くであろう。

国債は国を完璧に永久に金融的に束縛する責具

国債のような負債を考えてみると、30年などという長い期間のものは、国民が負う負債コストを恒久化させる効果を持ち、モロク神傘下の債権の保有者(貸し手)にとっての利益は天文学的な数字になる。利子を支払う納税者のコストは膨大である。たとえば、6%で借り入れた10万ドルの国債は、毎月600ドルの支払いで割賦償却が始まり、その内の500ドルは債権保有者(FRBであることが多い)への利払いであり、残りの約100ドルが元本の返済である。10年経過されているだろう。10万ドルの借金に対して合計で7万2000ドルも支払っているにもかかわらず、84000ドルのローン残高となっている。利子の56000ドルが6%で貸し付けられたならば、「72の法則」に従って12年ごとに2倍になる。もともと1万ドルの預金準備しか必要とされない10万ドルのローンであるが、30年のローン期間を通じて貸し手は30万ドル以上の巨大な利益を得ることになるだろう。この政府保証された安全確実な気前のよい贈り物をプレゼントするための支出は、言うまでもなく所得税を財源としている。「絶対に借り手になるな、常に貸し手であれ」という旧約聖書の格言は、モロク神の「カルト273」にとって特殊な共感をもたらす言葉であり、とりわけ政府に対して貸す時に強く共振する。モロクのパワーは、住宅ローンにはっきりと現れている。家を建てる住宅建築販売者は、当初の住宅ローン総額の3割程度を一括で受け取る。住宅ローンの貸し手は、ローンを長期間貸し出すことによって、延々と利益を享受する。高利貸しのタブーを破った支配の威力はすさまじい。
国家財政を国の債務(住宅ローンのようなもの)に依存したらどうなるのか?果てることのない債務が、国をほぼ完璧かつ永久に金融的に束縛することになる。この国際システムから派生して連携している構造が、現代の金融市場であり、株式市場の誕生は、スイスのキリスト教伝道者ジョン・カルビン(1509~1564、フランス生まれの神学者、宗教改革でプロテスタント派のリーダー。ジョン・カルヴァンとも)の教えと切っても切れない関係があるようだ。カルビンは、マネーの利子を合理化した。この伝統的な聖書の教えからの逸脱は、その後、株式合資会社(現代の株式会社)という形態となって金融制度のより高度な発達を促すことになった。市場における株式会社パワーは、モロク神のパワーを裏付けるものとして存在する。この権力の維持を可能にしているのが、中央銀行、そして、世界銀行、国際通貨基金(IMF)、スイス国際決済銀行といった超国家組織である。

神々も再三禁じた、地球時間の経過とともに勝手に成長する奇矯

これらの組織と市場を支える高利の「情報技師」の力量は、主として内部情報の入手能力にかかっており、その内部情報に基づいてまとまった資金を用意できるかどうかにかかっている。こうした性質は、経済霊が支配する現代経済においてだけでなく、マネーが存在する以前の古代にも見受けられる。マネーの利子率、割引率、債務の売買の計算によって自己正当化することを認められたマネー・システムから必然的に発生するのが高利である。格式市場の発生を支えた基本的な稼働力は、債務の売買であった。アメリカ独立戦争で価値の下がった国債を償還した「ハミルトン計画」は、ニューヨーク株式市場を大いに儲けさせた。ハミルトンによって満額償還されるという期待を抱き、投資家たちは株式市場取引を通じて、絶望的になっていた売手から割引された債務を獲得したのである。
現代金融市場で尋常ならざる「力」が跳梁跋扈している中、現代宗教の教義に依然として聖書にある通り高利の禁止が残っていることは驚嘆に値する。最近になって、この禁止事項がいまだに意義を保っているのかを確かめる研究がなされている。イエズス会のバーナード・ロナガンは、高利貸しの禁止は、その意味ゆえに、基本的には保たれていると考えた。「もともとの聖書の文言は、何らなの解釈によって有効でなければならない。聖書を記した人が意図したのは、規範的な意味である。だから、ダメなものはダメだ」と彼は言う。もしダメなものはダメならば、この経済霊とモロク神に支配される今日の世界に、高利貸しの禁止をどのように適用できるというのだろうか?
聖書による禁止は、申命記、出エジプト記、レビ記に克明に記されている。それぞれの書には高利貸しを禁止する内容が含まれている。出エジプト記22章25節では、「我が民の中で困窮する者に金を貸す時は高利貸しとして振舞ってはならない。高利を課してもいけない」とモーゼがイスラエルの民に語っている。後世の作品である申命記23章19節では、「兄弟に対して高利、つまり、マネーでの高利、食糧での高利、高利で貸されたものへの高利を課して貸してはならない」と規定されている。この後世に出来た条項は、現代の資本と金融の核心をなしている複利による利子を具体的に禁止する効力をもっている。この改良版の禁止事項は、マネー経済を経験した時代を想起させるものであり、おそらく第2神殿の時代に現代のマネーが発明され、その後いつかの時代に組み込まれたものであろう。ということは、紀元前14世紀から13世紀頃の時期に聖書が記録されたとする従来の年代測定は間違っていることになり、比喩的な人物モーゼは紀元前6世紀頃の時期にいたことになる。さらに考古学における検証は、こうした年代の見直しを支持している。「ピソンの都市は、ユダヤ人がエジプトを離れる前に築いた財宝の都市の一つであることが判明している。発掘調査によると、ピソンには紀元前6世紀より昔には何もなかった」
聖書で認識されている高利は、心理的な力の形で原初の神々によっても認識されていたと考えられる。聖霊の力とも似たこの力は、人間の思考を魔法のように奪い取ることの出来る神秘のエネルギーを伴ってやって来た。それは思考に信仰をもたらす。マネーが発明されてから、この高利という疑似自然的な所有物は、マネー計算の算術を通じて定着し、人間の思考に深く入り込んでくる。それはまるで経済霊とモロク神が、「神秘の火焔」のごとく思考を奪い取ることが出来るかのようである。この侵襲された熱中状態は、創造以前の自在の光で燃える焔、「呪詛の火焔」のように思考を圧倒する。多くの預言では、焔が終末をもたらすと言っている。この焔を比喩的に表現したものが高利なのではないかという考えが頭をよぎる。生物圏に与えている害悪は、その大半は熱をともなった燃焼の影響であるが、マネーの算術である高利計算に憑き動かされた金融信仰に基づいた意思決定と直接関係している。
高利によってコントロールされた思考と精神は異常に高揚するが、それは馬鹿げた信仰に完全に丸ごと服従することを意味する。手書きや、コンピュータのキーボードで打ち込んだ数字が、地球時間の経過とともに勝手に成長する。こんな奇矯を信じることが必要なのだ。自然界の法則に沿った生命サイクルで成長し、老い、死する天然の全生物とは異なり、マネーは永久にひたすら成長するように計算される。太陽光も水も必要ない。害虫にも天候にも略奪にも影響されない。マネーの成長の魔術は、住宅ローン、銀行預金、割引金融債、保険の数理計算、国債、その他利率を伴う様々な金融商品に組み込まれている。この金融商品の「豪華詰め合わせセット」から発生する異常な力こそが、高利に反対し警告した神々が心配していたことに違いない。

狡猾な三位一体の高利金融カルテル

歴史を見ると、高利貸しの商売は、異人種間、異文化間の深刻な軋轢を生んできたようである。特に、ユダヤ・キリスト教がヨーロッパに登場して以降は、そうである。ヨーロッパにおける高利貸しの商売は、特にドイツでは、ユダヤ人とキリスト教徒の間の文化・宗教的関係の奇妙な組み合わせによって促進されてきた。双方とも同じ聖書の禁止事項に従っているはずであるが、高利貸しは、キリスト教徒にとって、ユダヤ人に対する民衆レベルの増悪の原因となってきた。ユダヤ人とキリスト教徒に共通する聖書で、利子を付けてマネーを貸すことを明確に禁止してあることは言うまでもない。
中世の歴史の一般的な解釈では、ユダヤ人には他の就職に就く機会が閉ざされていたため、やもをえず金貸しの仕事を独占するようになったという。ウィーンのユダヤ人、イサックは、金貸しの役割を担うユダヤ人の気持ちを次のように表現している。「王が我々にどんな税金を強要するか分からない。容赦なく多額の賄賂を要求される恐怖に怯えながら、賄賂を送る必要もあり、金貸し業は我々の生き残りのための対価だ」。この犠牲者ぶった不満は、奇妙な世界観を前提としているようである。というのも、時の経過とともに、「村全部、町と領土全部がユダヤ人の所有財産になってしまった。この時期の平均利率は約43%から50%であった。利率の範囲は、ローンの目的によって幅があったが、21%から108%の間であった」。
ローマ法王が、キリスト教徒から財宝を手に入れたユダヤ人に、獲得したその財産に十分の一税を払えて要求した時、ユダヤ人とキリスト教徒の間には緊張が走ったに違いない。既に1230年代には、特にドイツにおいて、ユダヤ人は王との関係で目立つ存在になっていた。ユダヤ人は、諸国の財政に格別な関与をし、「宮廷の召使い」あるいは「王に仕えるユダヤ人」として広く認知されていた。
発生期にあった経済霊のプリズムを通してこの時期を眺めれば、もっと洗礼された理解が可能である。王の宮廷や中産階級の周囲にほぼ例外なくユダヤ人が存在したということは、緊密な連携作業があったことを示唆している。財政に関することが最も最優先度の高い問題であったことは間違いない。ユダヤ人街の金貸し業者は、他の就業の機会がないことを補填するため一方的に活動していたという思い込み(あるいは意図的な思う込ませ)は、民間伝承の物語、都市伝説の類として退けておくべきだろう。
利子付きマネー・ローンの高利貸しは、膨張せんとする教会のキリスト教社会と貴族とユダヤ人の貧欲な共同作業の結果であることを事実は示している。この共同作業の本質は、キリスト教徒とユダヤ人双方による狡猾な聖書解釈であった。聖書の宣言によって、利子を付けてマネーを貸すことは、ユダヤ人だけでなくキリスト教徒に対しても禁止されているが、それに対して巧妙な解釈が付与された。この禁止を回避するための理屈としては、キリスト教徒はユダヤ人から借りれば教義を犯したことにならず、またその反対も同様であるという、ずる賢いものだった。いずれにせよ、旧約聖書は異邦人との取引は例外扱いしているのだ。商業と金融と教会の結びつきは、現代的な感覚で考えると、極端に近親相姦的なものだった。メディチ銀行は実質的に主要な商品の取引をコントロールし、市場における信用、価格、利用可能なマネーに対するコントロールを確実に手に入れた。
協会は、様々な法王令や教会評議会の公式教義研究に基づく布告を出すことによってこの状況を是認した。キリスト教とはユダヤ人から借金できるだけでなく、借金に対して利子を払うことも許可された。さらに、たとえユダヤ人が貧欲な高利貸しであっても、キリスト教徒にとってはユダヤ人を危害から保護してやる必要があった。神によって「特別に選ばれた民」であるユダヤ人を危害から保護してやる必要があった。神によって「特別に選ばれた民」であるユダヤ人が領土内にいなければ、キリスト教のメシア(救世主)は戻ってこないからである。ユダヤ人が自発的にカトリックに改宗する時が、本物のメシアが登場した証拠になるようである。このため、地元のユダヤ人が自発的にカトリックに改宗することが、巷を徘徊している怪しげなキリスト教の伝道師がメシアであるかどうかを証明することになる。この抱腹絶倒の知恵遊びから察知すれば、経済霊と利子付きローンのマネーこそが、当時のユダヤ教社会とキリスト教社会双方のエリートにとって、彼等の富を増殖させる本当の稼働力であったことが分かるだろう。
教会とユダヤ人と貴族という三位一体で構成される金融カルテルは、社会の生産者に借金を負わせることで繁栄した。この基本的な繁栄の方程式は今日に至るまで、全てのヨーロッパ型の文明に踏襲されている。だが、それでもリスクはあった。ユダヤ人はキリスト教徒に対して借金取り立ての要求を突きつけることが許されていなかった。ユダヤ人の金貸し業の相続は、ひとえにキリスト教徒の貴族たちの恵みと保護に依存していた。このカルテルのメンバー間の金銭的な相互の結びつきは、通常の感覚では決して理解できないものである。当時借り手側であった農民と小売商人は、教会と貴族と高利貸しのマネー計算にたえず脅かされていた。カルテルに抵抗するなどとんでもない。すれば忽ち窮地に陥っていたことだろう。キリスト教徒の悪意の為に利子付きでマネーを貸す以外に生存の道がなかったとして、あたかもユダヤ人を人道的人種的な被害者であるかのように描くのは明らかに間違いである、このカルテルを取り巻く環境からより明確に分かることは、モロク神が存在すること、そして、ユーロッパ人の意識の中に経済連が入り込んできたことである。

「聖杯の秘密」I=P×R×Tを発見した「テンプル騎士団」

11世紀の初頭に、カルテルを取り巻く環境はひっくり返った。それまでユダヤ人の「宮廷の召使い」の独占的秘密としていた高利貸しの基本ルールが、エルサレムで十字軍戦士によって発見された。ヨーロッパの貴族や農民からなるこれらの戦士は、異教イスラム教徒から聖地を解放するための1066年の十字軍の召集に応じたものだった。不思議なことに、これはエルサレムで十字軍戦士によって次のような調査がなされた時期でもある。
測量や計数に関する多くのことが学習され、代数学の神秘についても速やかに習得された。この千年記の事件の陰で、一部の学者肌の十字軍戦士が、それまでユダヤ人金貸しだけの秘伝であった。マネーに付随する利子の計算式、投資やローンの法則を発見した。若干の想像を加えるならば、」「ソロモンの伝説」と「聖杯のエピソード」は、この知的洞察を世代から世代に引き継ぐための寓話であり、暗号であると見ることも可能である。
新規で刺激的な発見を手に入れた十字軍戦士のカルトは、1頭の馬に2人乗りで、即座に興奮気味にバチカンを目指して急いだ。法王への報告内容は、利子マネーによる利益=「聖杯(チャリス Chalice)の秘密」であった。彼等は「I=P×R×Tの神秘の方程式」を発見した。マネーの利子(Interest)は、ローンの元本(Principal)に利率(Rate)と、貸付期間(Time)を乗じた結果である。法王はこの情報を伝えた者を「テンプル騎士団」と名付けた。
この戦士たちには教会カルト内で並外れて特権が付いた地位が与えられた。彼等はバチカンの財政と投資の面倒を見る役割を果たすことになった。テンプル騎士団が急に成功して裕福になったことで、あらぬ嫌疑と嫉妬を招いた。テンプル騎士団は「バフォメット」という異教の神を崇拝していたとか、常軌を逸脱した儀式と倒錯した崇拝をしているという噂も立った。王と聖職者たちも、このような噂に気付き始めていたが、次第に、レバント(シリア・レバノン・パレスチナ・エジプト・ギリシャなど)の秘密を探索したり、計測、計数、筆記について異常な好奇心を抱くようにもなっていた。フランスのフィリップ4世は彼等の研究の成果を踏まえ、大地を揺るがすような発明(金利の秘密の発見)をした。そこで彼は法王と連絡を取り、ある協調行動をとった。1307年10月13日金曜日、テンプル騎士団の組織は突然破壊され、その記録は封じ込められた。
それまで騎士団は特権による利益を存分に享受していたようである。ユダヤ人居住区での伝統的な貸付金利率は年43%程度であった。テンプル騎士団はバチカンの法王に年利65%で貸し付けていた。1目見て分かる証拠によると騎士団はユダヤ人から金を借りており、その金を法王と信用力の高い諸国の王に貸す前に5割の利益を上乗せしていた。クレマント法王とフィリップ4世が、この狡猾で大胆な金融搾取のことをいかに不快に思ったかは想像に難くない。騎士団が消滅すると、未返済の債務残高は帳消しになった。誰も騎士団に対する債務の返済を申し出なかったようである。そうなると、騎士団に貸したローンを回収しようとしたユダヤ人はどうなったのか疑問である。ユダヤ人はどうなったのか疑問である。ユダヤ人の大量追放は、消滅した騎士団が提供していた抵当をユダヤ人が要求したことと関係があるのだろう。

「キリスト」であり「反キリスト」である「バフオメット」

テンプル騎士団にからむバフォメットの謎であるが、バフォメットはキリストの姿であると同時に、モロク神の前身である反キリストの姿でもあるという発想に関係しているようである。テンプル騎士団は神殿の儀式でこの奇妙な偶像を崇拝していたと伝えられている。この優れてオカルト的人物像は、マネーの謎と何らかの関係がある。思い起こせば、ローンの利率と投資の計算には、貸付金は同時に資産であり負債であるという特定の「二重思考」が絡んでいることが理解できる。バフォメットのイメージは、キリストと反キリストの特徴を同時に併せ持っているが、それは矛盾した二重性である。この比喩は、いかにして同時になされた一つの取引によって同じ金額が、貸し手にとって資産となると同時に借り手にとって負債となることが出来るのかを示している。バフォメットの秘密を究明せずにはいられないという強い欲求がヨーロッパ全土に拡大し、これが異端審問といわれる残忍なものになった。諸国の王と聖職者たちは、ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)を襲い、タルムードなどユダヤ教の数多の書物を略奪した。これらの書物には、テンプル騎士団がマネーの富を着服するために使用していた「神秘の計算」の教則が記載されていたという。
テンプル騎士団が「表舞台」を退場して以来、ヨーロッパでは利率をめぐり状況は混乱をきわめ続けた。諸国の王や聖職者たちがマネーの秘密と高利貸しの計算を血眼になって習得し始めたため。高利貸しユダヤ人とっていよいよ厳しい時代となっていた。大抵の借り主は、借用書に記載された融資条件の厳しい内容を一読し、その非道さに仰天し、即刻ローンを解約した。どの地でもユダヤ人の国外追放は頻繁に行われていた。イタリアの金融業で有名なロンバルト一族でさえもユーロッパ中をあちこち放浪せざるを得なかった。ロンドンのシティはヨーロッパ中から逃亡してくる金貸したちを受け入れた。金貸し業にとっては極めて困難な時代であったため、ロンドン・シティのユダヤ人は、生涯利子を払うと約束する借り手であればマネーをくれてやるほどであった。
モロク神と利子マネーの経済霊が今日大いにのさばっているが、その起点はというと、この16世紀におけるロンドン・シティでのヨーロッパ人(ユダヤ人)の思考とともに始まったようである。

金貸し業の手強い敵ルター、ヒトラーの登場

ヨーロッパ人がマネー算術の理不尽な錬金術を発見した後の一般的な流れは、ユダヤ人街の標準であった43%からの利率からの低下であった。反ユダヤのマルチン・ルター(1483~1546)の登場によって利率は9割も削減されて4・5%となり、支払う余裕がある者だけ払えばよいことになった。1930年代には、金貸し業にとって実に気色悪い状況になっていた。ナチスは、あらゆる高利貸しにとって極悪の脅威であった。ナチスは、国の債務、金本位のマネー、市場利率、国際株式取引による資金調達といった忌まわしい概念とは絶縁した。これらの概念は自然の法則と人類の発展に向けられた経済霊の激烈な攻撃を意味したからである。

高利貸しの禁止を解除したイギリス下院の「大事件」

異端審問による金利の秘密の追及と、高利貸しの禁止を狡猾に回避する様々なカルテル協定が行われていたにも関わらず、19世紀後半まで裁判の場では、高利貸しを商売とすることを禁止する教会の規範が慣習法として生きていた。イングランドの慣習法ではキリスト教徒がマネーに対して利子をとることを違法としていた。ところが、1890年から1897年にかけて、英国議会下院の特別委員会で行われた商業の慣習法と世界貿易に関する討論の中で、高利貸しの禁止を解除する決定がなされた。1900年、下院特別委員会は、貸金業者法を通過させ、利子は、資本に対する地代・家賃であると規定した。この法律制定の時期は、当時英国ポンドとロンドンの銀行が世界の金融の中心であり標準であったことから、世界規模の重要性をもち、影響を与えることになる。そこでの議論内容は、マネーに対する利子は、市場を構成する1つの形態に過ぎず、他の様々な資産形態と非隠して、許容されるべきであるというものだった。
利子は、資本の地代や家賃のようなものとして認められるべきであるという議論がなされたのである。利子の支払いは、貸したマネーを使用できないという貸し手の忍耐の対価であると認識された。このマネーに関する考え方と習慣の革命は、モロク神と経済霊が、取引市場・商業市場という広大な「力場」に白昼堂々入り込んでくるのを許した極めて重大な出来事であったと思われる。そして、それは現在、人類社会の中にしたたかに居座っている。数千年続いていた伝統的な美徳を反転させたこの「事件」に、詐欺の徴候がはっきりと顕現しているのを発見しても、いまさら驚くほどの事ではないだろう。間違いなく法律制定者は、マネーは忍耐(自己抑制)を要するような(道義的)性質のものではなく、銀行ローンと信用の産物(実体のない想念に過ぎないもの)であることをはっきり知っていた。
イングランドで高利貸しの禁止が解除されたことは、即座に米国に伝わった。1895年、グルーバー・クリーブランド大統領は、南北戦争以来続いていた国の債権なきグリーンバック通貨の伝統と決別した。グリーブランド政権はいわゆる「一般大衆向け」ローンを存続させ、アブラハム・リンカーンによって確立された原則に基づいて政府の財源確保することを請願された。しかし、クリーブランド大統領は代わりに、ウォール街の著名人モルガンとベルモントのところに行き、金(ゴールド)を借りて、利付の米国債を発行して支払いに充てた。民衆第1のグリーンパックの思想が立脚したのは、国家は信用と呼ばれる幻覚に服従してはならないという姿勢だった。いかなる国家も国民も、生活に必要なものを得るためにマネー市場の許可を得て借金する必要はない。自治体債を発行することで地方政府の資金調達をすることは、非アメリカ的と考えられ、多くの司法管轄で違法であったことは、今日の多くの投資家にとって驚きの事実であろう。

傲慢な法人の誕生、モロク神・経済霊の商売の因果なサイクル

高利貸しの禁止を取り消し、マネーの利子という形態で高利貸しを許した行為は、ローマ帝国時代の初期キリスト教徒以来の道徳的伝統を事実否定した。キリスト自身による至高命令は、高利をつけずに貸すことであった。高利の否定を暗示する「我々が債務者を赦すように、我々の債務も赦してください。という要請は、イングランド慣習法の修正と米国大統領の政治行為によって否定された。
この「否定」は、キリストなる人物像によって説かれた基本的条件を変えた。キリスト以前の者も、高利貸しは自然と社会の秩序に対する攻撃であると説いている。高利貸しは、貧しい者から「不公正」な方法で僅かな金品をも奪い取る力をもつ、有害な力であると考えられた。汗水たらす生産活動に従事することなく高利によって永続的に報酬と利益を得る様は、明らかに「不公正」とみなされる一因となっている。モロク神の性質と、ダーウィン主義(弱肉強食、優勝劣敗)的経済霊の性質からは、公正さへの配慮が高利貸しの教義の中心ではあり得ないことは自明である。19世紀後半に、モロク神の要望を満たすものが大半整えられたことに注目すると、興味深いものがある。1886年の判決で、米国の最高裁判所は、米国憲法に表現された個人の諸権利の概念を持ち出し、それを企業の権利として拡大適用(悪用)した。裁判所はモロクの申し出に応じ、株式会社(法人)に個人と同じ法の前に、企業主体は極めて大きな保護を得たことになる。そして、企業は、高利によって本物の人間たちに重荷を負わせ、永遠に栄える力を持つのである。
「投資活動を通じて資本が稼働する」という現代では不動となっている教条(ドグマ)は、マネーの利子に反対する古来の様々な議論を有無を言わせず黙らせてきた。株式市場、抵当権付きローン、過剰なまでの金融商品の数々とデリバティブ(金融派生商品)が、価値の尺度として、そして、価値を貯蔵する手段として提供されている。現代の商業的グローバル主義は、黙示録の「大商人たち」そっくりの姿で公共の領域にやって来た。いわゆるグローバル主義は、伝説のパベルの塔が寓話的に再現したものではないかという考えがよぎる。商業と高等金融のごくわずかな世界人たちが、モロク神、経済霊と高利貸しの「高貴な王子たち」として活動しているのを見ると、彼等こそが聖書の大商人の現代版と呼ぶに最もふさわしいようだ。ユダヤ・キリスト教のヴェールは次第に剥がされ落ちていると見ている人もいる。モロク神が最終的に公共の場に姿を現し、人々を支配しているのは明らかであろう。高利貸しの禁止を抹殺した英国下院の立法は、モロク神の策略を猛スピードで急発進させる決定的な行為であった。
マネー経済の精神によって大商人を突き動かすモロク神の力は、高利を燃料として火焔を広げ、被創造物である自然を破壊している。この大商人たちは、しばしば自分たちが社会的な義務から免除されていると勝手に思い込んでいるが、彼等はアブラハムとして聖書に記述されているものと同等の、注目に値する能力・地位を現代において持っている。聖書の預言的な書物である黙示録に伝えられいるように、大商人たちは甚大な失敗をする性癖を持っていることを聖書は先刻認知している。モロク神と経済霊の商売の因果なサイクルのことが、後世の子孫のために伝えられている。
黙示録18章3節 地球の商人たちは、富でみたされてた…
黙示録17章13節 一つの思考(頭)を持ち…
黙示録18章17節 1時の間で、大富豪たちは無一文になる…
黙示録18章11節 商人たちは悲しみ嘆くだろう…

平均以下の社会層に残忍な「大商人のパトロン聖者」カルビン

特権と情報収集力を備えた才能豊かな世界人集団と頭の良い超エリートたちで構成される大商人たちが、この聖書の諸説に示されたような破滅的な状況に陥ることはよもやあり得ないと我々は信じ込まされている。商業と金融の世界の権威である彼等は、高利貸しの禁止などという古臭い概念は、格式市場に究極的に体現されている現代の複雑な金融手法の発明によって陳腐化されたと言うであろう。彼等は巧妙で洗練された言葉で合理化する。先述した改革派長老教会の父であり有名なジョン・カルビンは、現代の大商人のパトロン聖者であると言えるだろう。カルビンは高利貸しに反対する議論について、聖書解釈の観点から批評している。彼の英知により、「ローンの利子は、貸し手と借り手の双方にとって有益であり、取引当事者だけでなく社会全体にとって役に立つものであり、各地の法律で定める利率を超えるものでないならば、正当である」と判断した。
カルビンを引導している認識は社会全体というものの本当の性質を完全に取り違えているようである。社会全体の半分は平均以下である。カルビンは、社会の多数派の支援に常に依存しているその平均以下の社会層に対して残忍である。明らかにカルビンは、8割の商業活動と利益は2割の人口がらもたらされるという現実に知らぬ顔である。カルビンの理屈というのは、「勤勉は聖なる人生の証拠であり、天国で行く場所は前もって決まっており、地上の物質的な豊かさによって示される。貧しい人間は自分自身のせいである。怠惰、欲深さ、浪費が原因で貧しいのである。個人の意思の問題であり、社会が悪いのではない」というものだ。キリスト教の伝統が発達して強化されたこの観念の進化には、キリストなる人物も唖然としたであろうが、モロク神はカルビンの理屈に称賛すべきものを多く見出したことだろう。
カルビンとその時代の人々は、マネーの力が最終的には法律の制定をも支配することになる現実が迫っていることを見逃していたようである。カルビンは、レビ記にある人権剥奪の解釈に影響を受けていたに違いない。「兄弟が貧しくなり、生活が維持できなくなり、生活が維持できなくなったなら、外国人および一時滞在者として一緒に暮らすがよい。彼から利子を取ってはならないし、利子を加算してもいけない。利子付きでマネーを貸してはならない。利益を得るために食糧を与えてはならない」生活が貧しく不幸な者に対して外国人であると宣言するところは、カルビン的な宿命の考えと一致している。この神学理論によれば、神は前もってより多く与えるに値すると決めている者に多く与えると考えられる。高利貸しの禁止によって意図されたこととほぼ完全に正反対のことになるが、利子付きのマネーから利益を得る凄腕は、神の祝福を受けている証拠になるようである。近親の家族であっても高利貸しの達者なものには服従することになる。モロク神は、ユダヤ・キリスト教のヴェールの背後で、大胆かつ上品に、活動している。
大商人たちは神学上の有利な適用除外を奇貨とし、「社会は聖霊と魂に従う生命体ではなく機械である」と妄信して、その勢力を存分に拡大した。かつて「神聖なるハーバード・スクール」として知られていた経営学科で学んだクルーグマン教授でさえ、市場の力はどことなく「人間的でない」と認めている。「経済霊にはもともと倫理観は備わっていない」と教授は判断した。「ただ機能している」のだ。ユダヤ・キリスト教基盤の道徳や倫理は、従業員に対して就職時や仕事を続けるために要求されるが、市場における企業の行動はそれとは全く別物である。アヘンの密輸、奴隷貿易、大波で多の船舶から金銀を略奪する、そんな「商行為」と全く同質のビジネスなのだ。この道徳とは露ほど関係ない歴史が、現代の地球規模の大商人たちの経済的慣習の基盤であり、格式市場の役割の起源である。多くの人々はあまり心配していないようであるが、このように考察していけば自ずと行き着く先は、束縛と隷属の形態であり、最終的に社会に悲惨な結末をもたらす。この結末は全ての人口には当てはまらない(一握りの超富豪は除外される)が、大部分の人にとっては統計的に真実である。つまり、何度も繰り返すが、利子付きのマネー債務によって人生を過酷に支配されているのだ。
先述の通り、多くの人々について技能レベルと知的水準の順位付けをすれば、必ず人口の半分は平均以下という結果になる。マネーに関する諸法則を管理する能力という観点で一般民衆の技能を考えれば、まさにこの事実が当てはまる。さらに、パレード曲線から推測すれば、ほんの人口の2割だけが商売で利益を出すことに秀でていることになる。株式取引市場に大勢の人々が参加するおかげで、利率が社会に役立ちうるという発想を持ち出すことは実に馬鹿げている。利率計算の技能に優れ、経済霊の力を得た僅かな者たち、情報を得ることができ表に姿を出さない僅かな者たちに対峙して、統計学的には8割もの人口が不利益を被ることになる。

人口の2・73%だけが高利マネーの恩恵に浴する

市場の構造と金融の神話に撹乱された状況で、自然と調和しながら繁栄するという共通の善が、いかに高利貸しによって突き崩されているか。残念ながら、このことに常人が気付くことは、ほとんど不可能になっている。聖書の命令は根本から覆われ、逆立ち状態である。高利貸しの禁止は、通常は貧しいものを保護するために求められいると理解されいるが、本当はもっと大きな意味がある。高利貸しの法則は極めて僅かな人間だけが理解している。人口の2・73%(カルト273との符合)だけが高利マネーの深遠な儀式を完全に習得することが出来ると言ってもよい。国際マネー市場の実態を見ると、高利貸しの熟練者たちは、利子を支払うことを、市場の力の支配下に貶められた金融奴隷人間の「神聖不可侵の義務」にしたことを示している。そして今、債務に束縛されている大多数の人間には、どんな逆境にあっても、人命や自然環境を犠牲にしてでも、金貸し業者を守ることが強要されている。高利の力は、「貧しい者が富める者を守ることが出来る」ことを確かにしている。
マネーや債務、投資として表現される現代の高利貸しは、主に株式市場指数を通じて公共の場に出てくる。この我欲をくすぐる想念は、マネーが種子の数量であった時代から、才能豊かなごく少数の人間の賛助によって進化してきた。マネー以前の原初の時代では、市場には利益を求めるという動機は共有されておらず、商品が他の商品と交換されていた。資本には名前が付いていなかっただろう。人々は、神々の声に耳を傾け、一般的な家計の範囲で慎ましく生活していた。現代の失業に相当するような概念はなかった。中央銀行という無慈悲で無責任な仲介者が交換の媒体を創造するということもなかった。聖職者が生活資源を割り当て、田畑を耕したり、種を蒔いたり収穫したり、と季節ごとの生業の記録を取っていた。聖職者は最低限の生き残りのためと、必要に応じて発生する交換のために種子を生産し、管理した。人々の需要は、物質の数量で賄われた。マネー価格が操作され、必需品が入手できないという懸念は存在しなかった。「社会を導くマネーによって動かされる神秘の市場には力がある」とは、馬鹿げた妄念であるだけでなく、「反逆の神」が存在する動かね証拠と思われたことであろう。
原初期の神殿による種子の分配を調査すると、これはマネーの分配の原初的な形に過ぎない。しかし、高利貸しの禁止は、実践的な生活者である人間の本性に基づいた、極めて健全な判断であったことが発見できた。明らかにその禁止の目的は、神殿で神に仕える聖職者だけに、種子の分配とローンの計算を確実に出来るように限定したかったからである。このように聖職者の役割が保証され、穏当な社会目的がローンと分配の取り決めに漏れなく反映された。非人間的なI=P×R×Tの計算式が生命を支配するという劣悪な発想は古代の聖職者にとっても既知のことであったに違いないが、決して採用されることはなかった。
高利貸しの商売が発達した不吉な形態が、今日である。多くの人間が少数の人間の利益のために完全にコントロールされ隷属している。現在、遺憾ながら、才能豊かな少数の人間は、社会正義と道徳、説明責任を果たす責任を免除されている。経済霊を通じて算術知識を注入された少数者たちは、逆神モロクから並々ならぬパワーを与えられた。この初期の危険な状態を見て、神々は、即座に高利貸しを禁止しなければいけないと思ったに違いない。こうした高利のパワーに対する原初の懸念が発生したのは、種子が交換手段であった時代であると言える。その時、凶悪な鬼子となるマネーはまだ存在していなかった。