現代スサノウの言霊 

11.債務の誓約

聖書人が興奮した「誓約のパワー」を発見した時

「債務」が人間を支配する力の確固たる基盤になるという発想は、一般の常識とは正反対のようである。一般的な理解では、人々は努めて負債を回避する。債務を負うと、返済に難儀したり、高額な利子を負担しなければならない。債務を回避する能力は、借り手当人にとっては有利なことかもしれないが、貸し手にとって不利益であるのは当然である。ローンに対する利子なくして、マネーの貸し手は利益を得ることは出来ないし、生き残ることもできない。債務という手段によって「パワー」を得ることが出来るという発見は、聖書にある「誓約」に関する教えと、神話の人物アブラムがアブラハムになった物語の中に見出すことが出来る。現代マネーの「誓約のパワー」を始めて発見した興奮の渦中に我々を案内してくれるのは、かの有名な旧約聖書のアブラハムであり、聖書の第2神殿が出来た頃、紀元前539年以降のある時期のことである。
後にアブラハムとなるアブラムは、「洪水の向こう側から」聖書の中に入ってくる。この一節と「メルキゼデク」という人格は、聖書の暗号で記載されており、その人物像は主として比喩であるという本書の立場を補強することになる。メルキゼデクと出会った結果、アブラムがアブラハムになる話は、以下のことを暗号化して伝えている。経済霊とモロク神が到来したこと、聖書では「誓約」と称されている「マネー・ローン」のパワーが発見されたことである。
聖書の物語の中でメルキゼデクは重要である。ギリシャの栄光の銀行家テオドトスによると「メルキゼデクは人間ではなく、独立自尊の天の力であり、至高にして名の無い場所にいることが確信できた。メルキゼデクは天使のための調停者・仲介者であるという意味で、人間だけのために比べれば、キリストのやっていることは劣化版コピーに過ぎない」。これを読むと、メルキゼデクの調停力というのは、モロクの天使たちとともに、金融業とマネーの権力に最善を尽くすためにあるのだろうという印象を強くうける。
キリスト教徒やユダヤ人が一般的に理解している伝統的解釈とは正反対に、アブラハムは苦悶する犠牲者でも貧窮する放浪者でもない。聖書のアブラハムになる以前でさえも、金持ちであり、当時をリードする大商人であった。彼は知り得る限りの商業圏のまさに東西両極の地を結ぶラクダの隊商を持っていた。後にアブラハムとして秘儀を伝授されてから、彼は市場のマネーで広大な土地を買った。彼はラクダでエジプトを訪れ、滞在した。エジプトでラクダを利用し、マネーを使用したということは、アブラハムがいた時代は、第2神殿と、最初に硬化がマネーとして使用された時期になる。その時期以降でなければ、エジプトにラクダはいなかったし、市場でマネーを使うのは一般的ではなかった。通常の聖書解釈による時代(紀元前1000年以前)に彼が旅行していたとすれば、気候的には馬を使った移動が適していただろう。

人類が利益を「理解」したのはメルキゼデクの「神聖なる指導」から

アブラハムがまだアブラムであった頃、彼はどんな時代でも商人であれば抱える一つの問題、「決済の手段、方法はどうあれべきか?」に悩まされていたはずだ。掛け売りの残高を商品で決済すると、貴重な貨車のスペースを占領してしまい、次の目的地に移動するのが困難である。金塊や銀塊で受け取れば、品質の検査や盗難の心配がある。明らかに現在の為替手形のような信用形態を使うのが最も便利であった。アブラムが物品を配達すると、買い手から90日以内に合意した物品の数量を支払う約束を受け取る。これによって、売買のタイミングを逃すこともなく、往復の輸送のスケジュールも組みやすくなったに違いない。こうした取引がもたらした便益(利益ではない)は、様々な物品を部族間や地域間で交換したいという相互の必要性から生じたもののようである。
交換の目的が利益を得ることではないことが、原初期の交易の特徴である。人間の事業活動は必ず利益を意識しているという一般的な経済学の概念は、誤りに陥っている。「事業は原初の時代から利益を動機として駆り立てられた合理的な営為であったという考えは、理論的にだけでなく、歴史的にも誤解をもたらすものである」。ローンによって資金調達され、コストと価格で利益を追求するのが当然という現代のグローバル市場の感覚では、この事実を理解するのは不可能に近いだろう。経済霊が利益追求の動機となるべく突然変異し憑依する「事件」は、至高の神の司祭であるメルキゼデクとアブラムの出会いにその端緒がある。人類が利益というものを「理解」したのは、神聖なる指導によるものであると聖書は伝える。「私は、お前に利益を得ることを教える、お前の主人である神である」。本書では、メルキゼデクの介入という形でアブラムの経済思想を転向させるために介入した神はモロクであるという見解をとる。
この介入する神モロクが、自らの高位の祭司メルキゼデクを配置した聖都が、後にエルサレムとなったようである。大商人アブラムは、戦争で血族の者が捕虜になったことに耳にしていた。その戦争は、4人の王と、5人ほどの王との不和に起因するものだった。この戦争で大敗したのがソドムの王であった。勝利した王たちは、ソドムの王の財産と人民を手に入れ、アブラムの甥を捕虜として拘束した。アブラムはこの機に跳んで手腕を発揮した。私的に軍隊を編成し、甥と人々を救出するとともに、ソドムの財産も取り戻した。ソドムの王は、アブラムの功績に歓喜した、ソドムの王はアブラムに言った。「人民は私に戻してくれ、物品はあなたが取れば良い」。アブラムは「あなたのものは何も頂きません。頂けば、自分が私を金持ちにしたとあなたは言うでしょうから」。

「神聖なミルク」から「パンとワイン」の「新型の聖餐」に転向

この会談が本当のところ何を意味しているのかは不明瞭であり、アブラムとソドムの王との間に取り交わされた本当の条件が何だったのかについては、いまだに学者の中で議論が続いている。突然の第3者メルキゼデクの登場により、状況は謎に包まれてしまう。「そこで、至高の神の祭司メルキゼデクが、パンとワインを持ち出した」。メルキゼデクはアブラムを祝福し、最後にはアブラハムという新しい名前を与えることになった。この名付けの儀式は、キリスト教徒の「再び生まれる」体験の起源となるものではないかと解釈する人もいる。パンとワインの聖餐は、伝統からの衝撃的な逸脱を意味する。明らかに、アブラムは忠誠の対象を新しい関係に変更したのであり、その臣従の条件は「普通ではない」ものだった。至高の神の祭司メルキゼデクによって行われたこの祝福の儀式より以前は、「パンとワイン」でなく「神聖なミルク」によって聖餐の儀式は行われていた。
さらに、この新しい聖餐には、もう一つの次元が含まれている。具体的にマネーと言及されてはいないものの、かつてなかった「タイズ(10分の1税)」と呼ばれる報酬の支払いが初めて行われたことが記述されている。聖書の諸説を見ても、タイスの金額は明確ではないが、ある部分では10%の金額であることが推測されている。タイスは、アブラムからメルキゼデクに支払われたとも言われる。これは驚くべき行為である。というのは、アブラムはソドムの王から財産を受け取ることを辞退したはずであり、タイスの支払いに充当した資産はアブラムのものではなかったからである。後になって、聖書は、メルキゼデクは「全てのタイズ」をアブラムに与えたことを伝えている。これも注目すべきである。概にアブラムが辞退していた資産は、ソドムの王に属するものであって、メルキゼデクのものではないからである。このように理解できないまま読まされるところには、明らかに暗号が存在している。
この取引にメルキゼデクが参入するのを許可したのは「至高の神」である。聖書では、この神の名は特定されていないが、「新たな意識体」が商売と報酬の領域に入り込んできたことが明らかである。誰が誰にいくら払ったのかについての混乱は、記録室の混乱を反映しているのではないかという疑問が生じる。記録官たちは、人類の尺度として新たに登場したマネーでの報酬の支払いという新しい概念や、マネーで評価された「タイズ」という新しい観念と格闘して、混乱していたのかもしれない。
アブラムがソドムから報酬として差し出された物品を断ったこと、新しい聖餐を取り入れたこと、タイスの概念に加えて至高なる神の祭司メルキゼデクが関与したこと、これらの状況から判断すると、この新しい聖餐の中で、心理的・知能的な体験が共有された形跡を発見することが出来る。突然のひらめきがお互いに同時発生し、新たな「理解」の共有につながったのかもしれない。この「新型の聖餐」に引き続いて起きた出来事は、ここでの聖書の文章が、至高の神モロクを後ろ盾にした経済霊のマネーの秘密と利益の発見への参入儀礼に関する暗号であることを示唆している。「マネーの力を隠匿する」暗号は、あえて誰でも見ることの出来るところに隠されて我々に示されている。8日目に男のメンバーが包皮切断されるという猥褻な議論で目隠しされているのは、「人間はマネーで買う事が出来る」というひらめきである。さらにこの力の発見に関する洞察は、ヨセフの物語に繰り返されている。ユセフがマネーで人々を買うことの出来る力を発見して有頂天になっている様子は、彼がエジプト人に対して「私はお前たちを買った」と言ったところに見付けることが出来る。

「誓約」で聖職者は、マネー創造の神々となる

メルキゼデクとともに得たひらめきに続いて、アブラムは、一連の夢と幻影を見て、アブラハムとなるべく進展していく。深い眠りに落ちたアブラムに「恐怖の暗闇が舞い降りてきた」。オカルトの言語解釈によると、深い眠りは、創造の時を象徴する。ここで創造とは、マネーを創造する科学と、マネー・ローンに変化した誓約の力として理解できるだろう。恐怖という言葉は、力を象徴する。また、秘儀的な解釈によると、「会得の時」を意味する。利益の概念と符合した知的シナプスと、人間を購入できる力を備えたマネー創造の秘儀への新規参入は、まさに「新たな会得」の時と言える。
アブラハムという新たに作り出された名前になったアブラムは、「彼の種子」の未来についての観念を知覚する。種子という言葉は、交換の媒体を意味するだけでなく、通常は自然界だけに見ることの出来る特別な生産力のことも指す。創造された種子アブラムは、アブラハムになる過程で、マネーの「増殖力」の中に、実質的に種子と同等なものがあることを見出す。それ以前の世界では、自然だけが生殖の秘密を握っていた。いまやマネーで表現された利子付きのローン(聖書では「誓約」といわれている)によって、聖職者は神々のごとくなり、彼等の言葉を発するだけで創造することが出来る。この権能は、聖書の「お前たちは神々である」という断言によって認識できる。
神殿の誓約として利子付きで貸されたマネーは、神が創造した自然の仕組みにおける種子のように芽を出し実を結ぶことが出来る。この新たに発見されたマネーの力は、アブラムの夢に示されている。神殿における誓約によって創造されたアブラムの種子(つまり、マネー)は、既知の全世界に対して力を及ぼした。数字の99で表されたアブラムの年齢は、1つの時代の終わりと、一つの時代の始まりを象徴している。アブラムからアブラハムへの卒業は、物々交換取引の時代が終焉した印であり、マネーと利益活動の時代の始まりを象徴している。この新しい時代は、「全能の神」の登場によって開幕する。
この新しい「全能の神」こそが、モロクと経済霊とマネーとして理解できるものである。そして今、「マネーの秘儀」を伝授された者は、未来の収入を確実に決めることが出来る。I=P×R×Tという公式は、利子を決めたマネーの誓約から得られる利益の計算である。この単純な公式によって、聖職者は、創造の力を備えた神のようになる。強制的な十分の一税の収入を資本金として組み入れることにより、利益を稼ぐ利子を付けて誓約を貸し付けることが出来る。貸し手としての神殿は、社会における貧困への処方箋を提供する伝統的な責任を免除されると同時に、世俗の政府と国家宗教とは完全に分離され、独立した状態になることが出来る。

「誓約」を望んでも、貸付信用枠もあり、厳しい資格審査がなされた

誓約によって創造された債務から生じた新しいマネーの力は、「10分の1税」や「生け贄」・「供物」といった強制的な義務とは全く異なるものだった。誓約をする義務は誰にもない。つまり「神殿の財政からローン(誓約)を借りる義務は誰にもない」ということである。 聖書によると、誓約に参加する資格を得るためには、神殿によって認められた特別な要件を満たされた人でなければならなかった。誓約を行う資格を得るためには、借り手は信用できる人物でなければならなかった。また、借り手は、神殿が担保物件として認知できるものを何か所有している必要があった。支払期限が到来した時に、誓約を弁済する能力があることが証明されなければならなかった。貸し金の規則はレビ記27章に記述されており、そこには、誓約の基盤として使用される全てのもののローン価値と担保の価値が詳しく説明してある。条件は「神殿のシゲル」を尺度として具体化された。神殿のシゲルは、交易や商売に使用される法定通貨の硬貨とは全く別物の、特別な貨幣であった。神殿のシケルは、通常のシケルの3分の1の価値であり、義務であった10分の1税を納めるために神殿で購入する必要があった。神殿の硬貨交換所は、現代の銀行の外貨交換カウンターと同じであった。この領域こそが、ユダヤ人過激派のヤンシュア・ベン・バンディルと同様に、イエスなる人物による有名な攻撃の目標であったことは間違いない。
資格ある誓約者が神殿で利用できるローン元本は、一種のクレジット・ライン(貸付信用枠)のように、年齢と性別の区別によって定まられていた。
20歳から60歳までの男には50シゲル
20歳から60歳までの女には30シゲル
5歳から20歳までの男には20シゲル
5歳から20歳までの女には10シゲル
1カ月から5歳までの男には5シゲル
1カ月から5歳までの女には3シゲル
60歳超の男の信用枠は15シゲル、女は10シゲル
どうしようもなく貧しく、担保にするものもなく、支払いの手段や技能もない者は、聖職者に直接会って、誓約を行う資格を与えてもよいかどうか個人審査を受ける必要があった。
聖書によると、誓約も、教会の信徒が神殿で持っていた4つの主要な教会との関係の一つであった。教会の聖職者たちは、神殿に物質的な支援を行うよう日頃から信徒会衆を指導していた。儀式的な生け贄、特別な供物、会衆の全ての生産物に強制的に課される10分の1税などを納めるように指導がなされていた。
信徒たちにとって、誓約は違っていった。経済霊がいかにして今までの慈悲深く受容的な神殿政治の力を包み込み、それに取って代わったのかを理解する鍵は、いかに誓約が10分の1税、生け贄、供物と異なっていたかを理解することである。誓約は、現在ローンと呼ばれているものと同等のものであると認識しておくことが大事である。神殿が誓約を引き受けるということは、神殿への債務が発生することである。誓約には将来におよぶ支払いの義務が含まれている。この義務は、現代の金融商品で「債務」と呼ばれる長期債務の前身である。この債券は。主なる神(モロク)が民数記30章2節~15節で命令したものである。誓約(ローン)における未成年者や女の法的責任や適格性の制限に関する、聖職者たちの基本方針もここに詳しく記述されている。さらに申命記23章18節~22節には誓約(ローン)の担保の品質に関する基準が詳述されている。当然ながた、犬や売春婦の見込み稼ぎはローンの担保としては不適格であった。借りないこと自体は罪ではなかったが、もし借りたならば「返済を滞らせてはならない」(申命記23章22節)。誓約は、即座に財産を引き渡す生け贄や供物や10分の1税とは全く異なっている。経済霊を理解するための鍵は、神殿の誓約がいかにしてマネー・ローンとなり変異したかを知ることである。
経済霊とモロク神以前には、借り手が誓約を行い、ローンを受け取る時の支払いは、神殿にあった現物でなされた。神殿は貸した物品そのものを引き渡したのである。10エファの穀物の誓約に対して神殿は10エファを提供すればよかった。後になって、マネーの創造方法が発見されたために、神殿は物資を表した「トークン(札)」を引き渡すだけになった。トークンは市場に持ち込めば、希望したエファ分だけ入手することが出来た。もちろん、市場が利用可能であること、価格が安定していることが前提である。マネーが存在する前の時代には、神殿に在庫の無い物品は借りる事が出来なかった。ローンの返済の時も、神殿に実際の物品を届ける必要があった。
今日のローンと同じような形態のマネー・ローンになった最初の誓約を借りた人は、物品で返済する物品のローンと比較して、マネー・ローンに関連する力は大きく違ったものであることに気付かない。現代のマネーを早い時期に発見した神殿の書記官や聖職者たちは、マネー・ローンを創造した時に初めて手に入れたパワーの大きさに、雷のような衝撃を受けたに違いない。
聖職者たちは、あまり多くの人が借りない(誓約しない)ことを望んだであろう。というのも、元本と利子の支払いを満たすことの困難さとリスクが理解できる借り手は極めて少数であったからである。レビ記27章31節に記述されている「5分の1」つまり20%に利率が設定されていれば、返済のプロセスは非常に重荷になる。借り手は神殿の会衆の常連メンバーであることが、聖職者によって要求されたに違いない。誓約からの収入を神殿の不利益となるように逸脱されてしまった借り手は、2度とローンを借りる資格は与えられなかった。

不正義の神殿に、敢然と挑戦したアレキサンダーとダビデ

利子付きマネー・ローンの高利貸しの複雑な仕組みを理解し、割引付きの神殿シケル交換取引を習得する作業は、数百年の歳月を要し、時折、挑戦を受けることになった。おそらく最も危険な脅威は紀元前330年頃、アレキサンダー大王がその帝国のために最初の共通貨幣を導入した時である。もしも彼が生き延びて、マネーは不毛であり利子という実を結ぶことはないというまともなギリシャ哲学が成就していたならば、アブラハムの夢に映し出された神殿の発見は何の意味も持たなかっただろう。アレキサンダーの早過ぎた死は、彼の政治経済的な重要性(施策の正しさ)を証明する品質保証書である。アレキサンダー以来、モロクの神殿と利子マネーの経済霊にとって脅威となる実力ある政治家リーダーたちは例外なく変死を遂げている(第3章註参照)。今のところ唯一の例外は、辞職することで生命からがら逃げたリチャード・ニクソン大統領だけである。
先述の通り、聖書の主要な人物像は実在せず、寓話と比喩としてのみ存在している。ダビデとソロモンの2人もそうである。有名なソロモンの神殿も本書では寓話であると考える。エズラとネヘミアのいわゆる第2神殿は、重要な神殿であり、実際には最初の神殿であると本書では考える。この神殿の際立った特徴は、現在の経済霊の時代の幕開けとなる意識の変化を表現していることである。
本書で採用した年代特定の見直しを前提とすれば、聖書のダビデは第2神殿と同時期である。エズラとネヘミアの第2神殿は、ローン事業で最終的に大成功したようである。20%の利率での貸付金はあまりに負担が重く、「誰も困窮し、誰もが借金漬けになった。そして不平不満は神殿の権力への抵抗を始めた。1人の首領の下に400人の集団を組織した」。借金から解放されることを望み、高利貸しローンの条件に抗議して公正さを求めた人々に対して神殿が返した答えは、モロク神の精神そのものの頑ななものであった。「誓約をした後にあれこれ詮索するのは卑怯である」。言い換えると、ローン契約が良くない内容であることが判明しても、借り手は聖職者に対して言い逃れしてはいけないということだ。モロクは「決して赦すことのない神」であるという先述の部分で思い起こしてもらいたい。
借り手たちは、ローンのために差し出した担保を消費してはならないという警告もされている。債務者たちは、誓約を行う(ローンを受け取る)ということは、神への献身であることを忘れてはならないと言われる。債務を返済しないことは、神殿に対する罪であると同時に、「焼き尽くす焔の神」への反逆でもある。レビ記でモロク神が紹介されている箇所に焔のことが言及されているが、それは焼き尽くす焔という意味であることは特筆しておくべきである。神殿に立ち向かい、反乱に決起した400人の首領が、外ならぬ聖書のダビデである。ダビデはゲリラ隊を率いて、神殿の不正義に対抗して立ち上がった。しかしながら、勝利者ダビデという人物を歴史学的に調査した結果、勝利を導いた指揮官ではなく、「敗走、そして破滅的な敗北」であったことが判明している。

「神殿の意義は、神殿を破壊することにある」

国の債務の存在と現代マネーの中央銀行組織に現れたモロク神の仮想神殿は、一度も敗北したことがないようである。実は、モロク神の債務への飽くなき執念は、たとえ「カルト273」の身内であっても金貸しをしないメンバーには呪をかけている。申命記28章22節~44節に、もし貸し手でないならば、「お前は借り手になるだろう、頭ではなく尻尾になるだろう、そしてお前が破滅するまで、呪いがかけられるであろう」と述べられている。この考え方によれば、国が中央銀行の債務奴隷になることを毅然として拒否すれば、いかなる金融システムもモロク神へ深刻な脅威となり、彼の神殿(中央銀行)に対する許すべからざる大反逆になる。
俗世の存在に対する戦いは、心霊界の戦いが中心となる。神殿の問題に、カバラは神秘的な考察で迫る。「神殿の意義は、神殿を破壊することにある。神殿を建築したことにあるのではない」という。この考察は、「自然と調和した繁栄という地球の世話人契約を締結している聖書の信仰者は、所得税で支払いが賄われている利子の付いた国の債務の束縛に自主的に服従して、騙されている」という本書の論旨を支持している。自身の信奉する宗教の教義を注意深く見直し、どうして知らない間に信頼すべき自らの宗教が、モロク神の神殿である中央銀行による束縛を支援することになってしまっているのか、今一度確認してみるべきである。