現代スサノウの言霊 

訳者あとがき

本書は、様々な視点で読むことが出来る。

第1に、原著のマネーという表題の通り、金融を理解するための書である。しかし、通常の金融学と異なり、ウィリング氏の探求は、光合成から得られたインスピレーションが、イスラエルが、イスラエルという言葉となり、マネー創造の先駆けとなったという、金融の起源にまで遡っている。こうした高度な観念論・抽象議論のベースにあるのは、「地球の生物圏を世話する人類の責務」(スチュワードシップ)を果たすこと、つまり、地球環境と調和した繁栄という極めて具体的な、文字通り地に足の着いた視点である。なお、この「地球の世話人」の責務について、ウィリング氏は、創造主との「契約」という一神教的表現を使用しているが、これは日本神話にある「修理固成」にも通じるものではなかろうか。
第2に、本格的な聖書理解の書としてである。意味不明な聖書の記述を筋が通った形で理解するためには、聖書の暗号であるという前提を置くことになる。ウィリング氏は、その暗号を解く鍵はマネー創造の秘密であるとし、その観点で聖書の物語に1本の筋を通している。これは、新規さを狙ったセンセーショナルな聖書解釈とも、もちろん教会の聖書解釈とも、一線を画している。高利貸しと戦って十字架に磔になったキリスト像、そして、マネーこそが多様な神々を殺して、1神教をもたらした起源であるという示唆には瞠目する。 第3に、暴露本として読むことが出来る。ただし、本書には具体的な人名は少なく、あったとしても過去の話ばかりである。現役の政治家等の名称がほとんど出てこないという意味では、暴露本としては物足りないかもしれない。しかし、これは、本書が暴露内容が、あまりにも根源的なレベルに到達してしまっている証拠であろう。社会の表舞台で人々をコントロールしている著名人たちの背後で、彼らを操っているネットワーク、そして更にその背後の心霊次元で秘密ネットワークに憑依している存在という構図であるとすれば、本書がヴェールを剥がしたゴッド・モロクは、その心霊次元の存在である。そして、悪神は、逆方向に動機付けると善神に切り替わるという示唆も、日本の祟りと祭祀の伝統に通じるものがある。
第4にmトウモロコシは宇宙人のギフトであるという話や、アブラハム・リンカーンとアドルフ・ヒトラーの神からの啓示の話など、オカルト的な関心をひく本としてである。また、随所に数秘術を意識していることが窺えるが、ウィリング氏は、次作で数秘術を主要テーマとして構想しえいると聞いている。

一神教とマネー、そして日本

本来の神が、マネー概念の登場とともにモロクと入れ替わり、「赦すことを知らない」モロクが神を詐欺しているのがユダヤ・キリスト教の歴史と現状であるというのが概略ウィリング氏の見解である。聖書の「神」は、明らかに詐欺、窃盗、残虐を本質としていながらも、一方で「約束を守ること」を中心とした道徳を人々に押し付ける。このダブル・スタンダードによって利益追求のマネー経済を支える「信用」が維持されている。そして、人々のマネー利益追求の想念の炎は、地球の生物圏を痛めつけてきた。
本書の多くは新旧約聖書の解読に割かれており、全人口のわずか1%程度にしかキリスト教徒の普及率がとどまっている日本には、あまり関係ない内容に感じられるかもしれない。しかし、モロクは隠れることが得意な神である。
フランシスコ・ザビエルは、1549年8月15日(33の日)に日本に上陸して以来、民族社会を支配するためには支配者を操縦すればよいというイエズス会の常套手段によって、鉄砲をエサに当時の権力者を少なからずキリスト教になびかせていた。ザビエルが主に布教活動した薩摩・長州が、その後、明治政府を築いた。同じく民族社会を支配するにはその文化を利用すればよいというイエズス会の常套手段により、「天皇教」の装いでユダヤ・キリスト教的価値観を日本に定着させたのではないかと思える。つまり、モロク教が、キリスト教を装い、そのキリスト教がさらに天皇教を装った、三重の騙し構造が第二次世界大戦までの日本であったのではなからうか。
長崎で被爆した浦上の「聖者」は、日本を生け贄に選んでくれた(原爆を落としてくれた)「主」に感謝した。この倒錯的なマゾヒズムの精神構造こそが、モロク神が嗜好する奴隷の資質である。ザビエルに始まった日本支配の遠大な計画は、1945年8月6日(33の日)の広島原爆投下、1945年8月15日(33の日)の終戦の玉音放送で、一応の完結を見た。
そして、戦争と終結とともに「天皇教」は消滅し、日本は「経済成長」という呪文を唱えるマネー教にどっぷり浸かってきた。いま、我々を取り巻く価値観は、万事、マネーである。
日本では、「金の亡者」とか、「拝金教」という言葉が昔からあり、金は一種の宗教であるという視点はそれほど驚くべきことではなく、その起源からして、明確に祭祀の対象となる神を持ち、ドグマ(教義)と組織をもった宗教であると指摘している。

マネーの起源と利子、利益

聖書の文化になじみのない日本人にとって、本書は理解しにくい部分があるかもしれないが、ウィリング氏の基本的な論点は、次のようにシンプルである。
人類は、マネーという想像上の価値に取り憑かれて、人類の存続にとって本当に必要不可欠な自然を破壊してよいのか?
この疑問に答えるため、ウィリング氏は、何故、そもそも、人類がマネーという想念に取り憑かれるようになったのかを解明していく。マネーの創造は、物々交換をする当事者び不便さから生じたのではなく、交換取引を記録管理する仕事をしていた神殿の書記官の手間を減らすため発生したという。その後、マネーは神殿から飛び発って、「信用」となって世界を席捲した。ここに地球外の存在が介入した可能性があるという。
やがてマネーは、人間そのものを買うことの出来る手段にまで成長していく。モーゼがエジプト人をマネーで支配した時「人間はマネーで買うことが出来る」という言葉を、サラリーマンの人々は身をもって実感しているだろう。将来にわたって安定した雇用と収入という、宇宙の本質「不確定であることの自由」を無視した、本来はあり得ない未来にわたる約束を信じて束縛されている。これは、利子収入という将来のマネー収入を確定させる永久債の雇用契約版であろう。我々は、将来にわたる安定雇用と収入という「幻想」を得るために、何か大切なものを売り渡していないだろうか。
人間さえも購入できるマネーであれば、人間界においてマネーが万能の力を持つと思われるのも当然であり、人々がマネーの獲得に全身全霊を捧げるのも無理からぬことである。しかし、その時、我々は、マネーは中央銀行が作る数字に過ぎないことを忘れている。
ここで少し頭の整理が必要である。
・マネーが幻想であるのは分かるが、現実にマネーで生活に必要なものが購入できるではないか?まねーなくして物質の流通、経済は成り立つのだろうか?
・高利貸し(あるいは利率の高低に関係なく利子)が諸悪の根源とはいえ、金利なしでマネーの貸し借り(金融)が成立するのだろうか?
前者については、まず、マネーがあっても必要なものが手に入らなくなる状況を考えてみるとよいかもしれない。ちょうど今、そんな時代がくるのではないかという懸念を我々は抱えている。この素朴な疑問を突き詰めていけば、人間にとって本当に大切なものはマネーではなく、むずと食糧であることが明らかであろう。
そのような究極の状況は別にすれば、ウィリング氏もマネー自体の必要性は否定しておらず、中央銀行を国の主権下に取り戻し、アメリカ南北戦争時のグリーンバックのような、国の借金と表裏一体でない、利子とも無縁の通貨を採用すべきであると主張している。
後者の金利については、まず、一般に個人や企業が自ら働いて貯めたマネーを誰かに貸すことと、帳簿の貸借(預金と貸付金)双方に金額を入力するだけで自らマネーを「創作」できる「銀行」が貸すことは、同じマネーの貸しであっても、根本的に別のものであることを忘れてはならないだろう。この根本的に違うものを、同じものであるかのように混同させ、金利の存在が、あたかも当然のことのように正当化されている。
我々が、友人や知人に個人的にマネーを貸すとすれば、それは、金利収入を得るためではなく、困っているから助けてあげるという人情的な動機である。従って、この意味での金融は、利子がなくとも成立するはずである。誰にも頼ることが出来ない人は、政治的な救済策(生活保護など)に頼る以外ない。また、現在の金融においても、返済能力の見込みのない個人はマネーを借りることが出来ないのであるから、同じことである。
それでは、住宅ローンはどうか。金利なしで貸してくれる銀行はないだろう。しかし、誰でも住居は必要なのであるから、政府が無利子で貸せばよいことである。今でも住宅ローンの税額控除があるように、政策的に必要なことなのだ。
企業の借り入れはどうか。大きな事業を起こすには、資本金が必要である。株式市場や銀行借入なくして、企業活動は維持できるのだろうか。これも、民主主義というならば、公共的なプロセスで決定し、政府が無利子で貸せばよいことである。というのも、現在の金融の仕組みでも結局責任を取らされるのは国民だからである。「民間主導」と称して巨額の事業投資をし、失敗して最終的に責任を取っているのは誰か?税金という形で、我々国民である。今でも、誰の役にも立たない民間投資の失敗は、銀行救済という名目で国民の負担になっている。明らかに採算の取れるはずのない巨大なショッピングセンターが建設される。自然を消耗・破壊しながら、利益を得ている悪い人間がいる。
「民営」という言葉に、騙されてはいけない。社会を営んでいる以上、経済活動は、定義からして例外なく「公共」なのである。私人の利益追求に任せるほうが効率的と言っても、その失敗は、私人では補償しきれないのである。私人に責任を求めてもせいぜい謝罪か、仮に究極の死刑にしたとしても、経済的・人的損失、地球環境に与えた損失は、取り戻せない。
このように考えると、金利という概念が支えていると言われている現在の金融制度そのものの必要性が極めて疑わしい。そして、「金利」とは、地代・家賃・レンタル料のマネー版ではなく、どうやら「利益」という概念そのものであるようだ。ここで「利益」とは、収入から労働の対価を除いた部分、露骨に言えば「詐欺」分、不労所得のことである。

我々は、心霊次元の戦いの渦中にいる

聖書の神は、身内と外国人を別扱いするように命令する。これが利益の起源であり、利子の起源である。人間は自己及び自己と同一視する身内からは利益を得ようとしない。利益を得る行為には、自分とは異質な人間が存在するという意識が前提となる。
独立した自己という意識と、それに伴う利益計算の「思考」が、利益の起源であり、利子の起源である。
そうしてみると、今日の社会問題、経済問題、環境問題は、実は理屈の問題ではなく、人間の心の問題であり、意識の問題である。そのような指摘は陳腐かもしれないが、本書のように明確な視点で指摘したものが、かつて存在したであろうか。
ウィリング氏は、これを心霊次元の戦いであると述べている。
「新しい心」の出現、そして、それが人類の大勢となる日は来るのだろうか。そして、自然破壊というアウトプットだけを生み出している高利貸しのマネー・システムが瓦解する日が来るのであろうか。
このバカバカしさに気付く人が圧倒的な割合に達するまで増えれば、世界は意外なまでに簡単に変わるはずである。しかし、残念ながら、人間の意識は簡単に変わるものではない。人間の意識が変わる時まで、経済恐慌、戦争、天変地異、疫病、奇病の災厄が絶えることはないだろう。早く気付けば、その分、苦しみは減るかもしれない。