現代スサノウの言霊 

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日本の歴史(二)

 先に述べた如く東進したユダヤ部族の先鋒は鵜草葺不合王朝の末期には続々と日本に到達した。彼らはその経済的才能を以て国家の各機関に入り込み、更に日本の皇室とも深い関係を持つようになった。それまでの日本は言霊布斗麻邇の原理に基づく道義政治の時代であったが、世界が生存競争の時代に突入した今、日本に於いて布斗麻邇の運用を続けることは今後の世界の物質文明促進の目的の妨げになる。また葺不合王朝の末期に日本に大地震が起こりその文化の大破壊があった(竹内文献)為もあって、日本の政治の宏謨に大変革が行われた。その現われが神倭王朝の誕生である。この王朝の出現を契機にとして日本は神代から現代へ、王朝政治から権力政治へ、神皇時代より人皇時代へと変貌する。その大綱に則って即位した初めの天皇が神倭伊波礼毘古命即ち神武天皇であった。
 神倭王朝の統治の目的は次の如く要約することが出来る。
 一、神代に於ける政治の原器である言霊五十音布斗麻邇の原理を或る時まで日本人の意識の表面から隠没させること。
 二、将来人類の第二の文明である物質科学の完成の時、再び要請される第一文明である言霊原理が民族の意識に甦るためのよすがとなる諸施設を予め用意しておくこと。
 三、原理の隠没により当然招来されるであろう権力政治時代の生存競争・人心の混乱の事態に対処する假の手段と  しての諸信仰の樹立・輸入。
 四、日本古来の文字を廃し、物心両文化共外国よりの移入によって民族の需要を賄うこと。
 道義政治の基礎である言霊原理を隠没させた実際の実行者は神倭朝十代崇神天皇であった。がそれより以前気化したユダヤ人の血が神倭朝の皇室に入った事が推察される。神武天皇の皇后は帰化人だったとも言われる。この様に神倭朝の発足の経緯には種々の謎があり未だ明確ではないが、唯はっきりしていることはこの王朝の発足を契期として日本皇室の精神・国是の大綱に大変革が起こったことである。この謎を解明しようと神霊憑依の形で先鞭をつけたのが近代に於ける民間宗教の天理・大本の教祖であった。
 高山の真の柱は唐人やこれがそもそも神の立腹。(天理教々祖お筆先)
 大千世界一度にひらく梅の花、梅でひらいて松でおさめる神国の代になるぞ。今の世は獣の世であるぞ(大本教々祖お筆元)
 高山の真の柱とは天皇のことであり、その天皇が実は古代からの日本人ではなく外から入って来た外国人であり、そのことがそもそも日本古来の神々の気に入らぬ事だ、というお告げである。この天理教々祖のお告げは天照大御神の神霊として出て来る。次に大本教祖の御告は国常立命の神霊憑依による。国常立命とは言霊エであり、〝梅でひらいて松でおさめる〟とは前著「言霊」で書いた言霊の造化三神の構造を示したものであり、神武以降現代まで人類は人間が人間たるべき精神の構造の原理を失った弱肉強食の獣の魂の世の中であり、近い内に言霊の原理が甦り、人間は神聖をとりもどして世界は神の国になるというお告げである。以上のお筆先によっても神倭王朝樹立に際して日本の皇室の人脈・霊脈並びに国是の大変革があった事が了解される。
 日本書記崇神天皇の章に「是より先に、天照大神・倭の大国魂、二の神を天皇の大殿の内に並祭る。然してその神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鋤入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。仍りて磯堅城の神籬を立つ。…」と記されている。この事件を同床共殿の廃止という。日本書記天孫降臨の章に「吾が児、この宝鏡を視まさむこと、當に吾を視るがごとくすべし。与に床を同じくし殿を共にして、斎鏡とすべし」という天照大御神の命令がある。崇神天皇までは天照大御神である三種の神器の一つ八咫は天皇と同床共殿であった。即ち天皇は言霊五十音図布斗麻邇の原理の体得者であった。その鏡を天皇の手許から離して神として祭ったということは、言霊の原理を政治の基本とする古代よりの大方針を廃止したことを示している。爾来道義政治創造の原器であった五十音言霊原器は次第に日本民族の表面から忘却され、唯信仰の対象である天照大御神として礼拝されるのみとなった。先著「言霊」に説明された如く〝五作〟(斎)の神より、おろがむ(拝む)神となった。と同時に五十音言霊の体得者として道義政治の直接実行者であり責任者であった日本天皇は、この時より日本民族の宗家としての即ち天照大御神の血統を継いでいるというだけの信仰の対象としての天皇となったのである。同床共殿廃止の方針は神倭朝初代神武天皇の時に計画され、600年後の十代崇神天皇によって実行された。この同じ意味の治績によって両天皇共「初国知らしし」天皇という贈名がつけられている。
 言霊原理の隠没の施策と共に、その隠没の期間当然起こるべき世界の人々の精神の荒廃に対処し。更に人類の第二の文明である物質科学の完成の時人類の意識に甦る第一文明の言霊原理を理解し易くする為の準備の施策も着実に実行されて行った。
 先ずは先に記した孔子・老子・釈迦の来朝による儒・仏教の創始に続いてイエス・キリストの来朝によるキリスト教の創設である。イエスの来朝は十一代垂仁天皇の御宇である。イエスは先輩モーゼと同じく日本皇室より神道を学び、故国に帰ってその教えを「山上の垂訓」の形で民衆を強化した。イエスに与えられた命令は以降二千年の将来甦るであろう古代さながらの愛と英智の道義世界を迎える為の世界民衆の心の準備を説く事であった。「主の道を直くせよ」の叫びである。「悔い改めよ、天国は近づけり」の教えである。神足別豊鋤天皇からモーゼに与えられたヘブライ民族の団結と世界各民族の背後に立って全世界を権力によって統一せよという命令がキリスト教に於いて「旧約」と称せられるのに対し、垂仁天皇よりイエスに課した人類愛精神の普及の使命をキリスト教で「新約」という。この旧約と新約が完成される時が言霊原理復活の条件となるということが出来る。
 ここで参考のため附記すべきことがある。世界の大宗教である仏教とキリスト教はその教理が全く異っている様に思われている。しかしこの著に於いて示している如く両宗教を創始した原型である言霊布斗麻邇の原理より見る時、それら両教の教理が同一の構造であることである。イエスの弟子であるペテロやパウロは実在の人間イエスを理想化し、神の子としてのキリストを信じ、それを自己に於いて証明することによって愛と智の人間の本性を悟り真の自我を確立する方便の教えを確立した。これがペトロの樹でたカソリックの方便としての教えであるが、イエスを神の子イエス・キリストとして信仰することはカソリックの方便としての教えである。仏教も同様であり、法華教・維摩経・般若経等に於いてその宗教々理を説くと同時に、無量寿経・阿彌陀経に於いて阿彌陀如来の極楽浄土を方便として示すことによって信仰と自証を求めたのである。日本の天皇の言霊原理による人類歴史の創造という立場より見る時、一見異なる様に見られる世界の宗教も同一目的の下類似の構造を持っていることが明瞭となるのであり、そのことからも人類創造の淵源を窺うことが出来るであろう。
 生きている人間の精神構造である言霊五十音布斗麻邇の原理は隠没され、その代りに伊勢神宮に天照大御神として祭られることとなったが、時来り将来原理の人間意識への甦りの時に備えて神宮の本殿の建築構造は五十音言霊図特に天津太祝詞音図を象る形に設計されている。「一心の霊台、諸神変通の本基」(神道五部書)といわれる本殿中央の忌柱、氷木(千木・道木)・鰹木(数招)の形や数、階段の段数等五十音図の象形である。更に後世二十年毎に神宮本殿の建替えをする遷宮の制度を設けることによりその構造の意義を失うことのないよう計画されたのである。又伊勢に内宮と外宮がある。内宮は日本の神である天照大御神を祭り、外宮は外国の神を祭る。豊受大神宮である。祭神豊受毘売神とは御食津神であり食物の神といわれる。いうまでもなく天照大御神の許を離れ、物質研究の旅に出て、その成果を携えて姉神の住む高天原日本に参上って来る。その物質探究の諸成果こそ天照大御神の食事である。伊勢の内外宮の存在は織女・牽牛の七夕の祭りと同様の意義を持っている。(伊勢皇大神宮の言霊学的構造については先著「コトダマ学入門参照のこと)
 言霊原理開顕に備えての施策はその他いろいろある。先づ宮中の儀式のほとんどは言霊学的表徴としての意義がある。たとえば立太子の儀式の中に〝壺切りの儀〟があるが、これは葺不合朝までは皇太子として立つには布斗麻邇の原理を体得している人でなければならなかったが、原理隠没後はそれを表徴して五十音の真奈の素焼板の入った壺を開けて中身を確認する儀式として残したものであった。奈良時代古事記・日本書記の選上が行われた。記紀の神代巻は歴史ではない。神名や過去の天皇名を引用して言霊五十音による人間精神構造を神話の形によって呪示したものである。後世人が一度言霊の存在に気付き、各神名の呪示を基礎として自我の精神内部を観察する時、明らかに五十音言霊の実体に近づくことが出来る様に編纂されたものである。この書前編を読まれれば明らかに了解されるはずである。
 言霊原理隠没時代の社会の精神荒廃に備えて、それまでの宮中の儀式であったものを民間に移した神社神道の創設や、外国よりの仏教・儒教等の宗教の傳来の促進、外国芸術の輸入等種々の方策がとられた。これらは皆月読命の活動である。
 葺不合朝末期以来来朝帰化するユダヤ人の数は次第に増大し、日本社会の各分野に重きをなして行った。特に産業・経済の才にすぐれ、日本の経済の実権を掌握して行った。これは現代まで続いている。この情勢に鑑み允恭天皇の御代日本人の性別の調査が行われ、神別・皇別・審別の三姓に別けたと伝えられる。秦・波多野・呉羽・服部等はその当時の審別姓であった。帰化ユダヤ人は元十二部族のうちの祭祀を司るレビ族の流れであったから信仰に厚く、彼等の神の故郷である日本の神宮と皇室に忠誠であった。伊勢神宮の建築に協力し、下がって奈良平城・京都平安の都の建設は彼等の力に依る所が大きかった。現在見るが如く奈良・京都の升目の通った町並みの設計は彼等の旧都エルサレムを原型としてこれを写したものである。
 彼等のある者は朝廷の中に入り、又は日本有数の支族と婚姻によって結ばれた行った。東の漢の直駒は推古朝の大臣となった。又彼等の末は着実に日本の経済を掌握し、浪花・近江・甲斐等の商人として栄えたのである。
 日本と帰化ユダヤ人との関係に於いて特筆すべきは聖徳太子の治積である。日本神道の奥義を知り、更に儒仏の知識に精通していた太子は帰化ユダヤ人の由来を承知した上で種々の施策を行った。京都太秦(うずまさ)に彼等の活動の根拠地として広隆寺を建てた。太秦は漢音でダージーと読み、東ローマ帝国のことである。その寺内に十二の井戸があったという。その井戸の石に伊浚井の文字が見られ、現在は三箇である。伊浚井はイスラエルであり、十二の井戸は十二部族を表わしている。更に寺内に酒公なる人を祭った大酒神社があった。大酒は太辟の転化であり、それはダビデの漢音名である。
 仏教では正方千年像法千年末法千年と言われる。日本に於いては神武天皇より崇神天皇までの六百年が正法時代ということが出来よう。言霊原理の政治の香りがまだ濃く残っていた時代である。同床共殿制度の廃止以降現代までの二千年が像法末法時代であった。第二の物質文明を推進するべき方便としての生存競争の時代の精神荒廃によなえて最小限の慰安が必要であり、先に述べた如く神道の創設や儒教・仏教の輸入、下ってはキリスト教の導入もそのためであった。それら宗教の導師の中には修行の行程に於いて言霊布斗麻邇の原理の存在に気付いた人達も二、三に留まらなかった。例えば柿本人麻呂・菅原道真・役小角・弘法・伝教・日蓮等はその最たる者である。それらの人々が残した書物を見れば、彼等が歴史に於ける天皇の経綸とその創造の原理の存在を自覚していた事を明らかに読み取ることが出来る。真理の存在を知っていて、然も明らかには説くことがなかった。説いてはならぬ時代であることを知っていたからである。像法末法の時代にはかくの如き仏教の所謂菩薩が活躍した。但し麻邇に精通しそれを説く仏陀は生れなかった。仏陀は存在してはならない時代だったのである。
 下の事は例証として日蓮の三沢鈔を挙げておく
「我に付記たりしものどもに、真の事を言わざりけると思いて、佐渡の国より弟子共に内々申す法門あり。此れは仏
より後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙薬・伝教・義親等の大論師、大人師は知りて而もその心の中に秘めさせ給ひて、口より外に出し給わず、其の故は仏制して言ふ、我滅後末法に入らずば此大法言ふべからずありし故なり。日蓮は其使にはあらねども其時刻にあたる上、存外に此法門をさとりぬれば、聖人の出でさせ給ふまで、先づ序分にあらあら申すなり。而るに此の法門出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は、皆日出でて後の光、巧匠の後に拙なきを知るなるべし。此の時には正像の寺堂の仏像僧等の霊験は皆消え失せて、但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしと見えて候。」