現代スサノウの言霊 

天地の初発

 古事記の上巻は次の文章で始まります。文章を区切って順を追って説明して行きましょう。

天地初めて發けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、みな獨神と成りまして、身を隱したまひき。


天地初めて發けし時

古事記だけでなく古代の世界の神話のほとんどは、最初の文章がこの「天地初めて發けし」の事から書き出されています。例えばキリスト教の旧約聖書の最初の文章は「元始に神天地を創造りたまえり」です。
「天地の初めて」の天地とは何を指して言うのでしょうか。「そんな事は言うまでもなく、我々の眼前に広がっている大きな宇宙、その中にある星雲や銀河系や太陽・地球といった天体のことを言っているのだ」と大方の人は思われることでしょう。果たしてすぐにそう断定してよいものか、もう少し考えてみることにしましょう。
 眼を開いて大空を見上げたとしましょう。そこには無限に広い宇宙が広がっています。夜ともなればそこには無数の星が瞬いているのが見えるでしょう。この眼に見える宇宙、天地のはじめと言えば、当然に幾百億年か知れない大昔、宇宙物理学が主張するように、混沌とした宇宙の内部が活動を始めて次から次へと天体が生成出現した時を指していることとなります。
 このように考えるのが現代の常識と言うことが出来ましょうが、それならそう考えることしか解釈の仕様がないのか、といいますと、そうとも言い切れない事に気付くのです。
 先に眼を開いて大空を仰ぎました。今度は眼を閉じて静かに座ってみましょう。初めの内はつい先程まで仰いでいた大空の記憶の余韻が続きます。空は青かった。木々の緑がさわやかだった。という記憶です。その内に「そろそろ腹が空いて来たな」とか、「午後に会う約束のA氏とはどんな人かなあ」等々、様々な思いが心をよぎります。このように色々な思いが現れては消え、消えては現れる心、その心の広がりを心の宇宙と呼ぶことができます。眼を開けて仰ぎ見た外の宇宙が果てしなく無限であるように、内に返り見た心の宇宙も果てしない広がりを持っています。人間にとって大空や太陽・地球・大地など外の世界は厳然と存在しているものでありますが、色々な思い、感じが起こって来る心の世界も否定し去ることの出来ないものであることも確かなのです。
 そして古事記を始め世界の各宗教書の最初に掲げている「天地初めて」の天地とは外に見える太陽や地球のある宇宙のことではなく、正にこの心の宇宙のことを指して言っているのです。この事をはっきりと心に留めませんと、古事記や世界の神話や各宗教書の内容が途方もなく間違った方向に解釈されてしまいます。
 現代は科学の時代です。現代人は物事を自分の外、向うに置いて考えることが得意です。それとは逆に古代は精神の時代でした。物事を見たり、聞いたりしている自分自身の心の内容に重きを置く時代でありました。そして古代には物事を表現するための哲学的概念の言葉がありませんでした。ですから心の中の出来事を表現するのに、眼に見える外界の事物を借りて表現したのです。例えば心の中に起きる出来事の全て、ということを表現するのに外界に見える全部、即ち天と地、天地という言葉を使ったのです。古事記のはじめの言葉「天地」とは人間の心の中を現われ出て来るもの全部という意味なのであります。
「天地」が心の中に現われて来るもの全部という事であるなら「天地のはじめ」とは何を指すのでしょうか。心に現われて来るもの、といえば眼や耳・鼻・舌・身体などの感覚、好奇心やアイデア、感情、命令…等々いろいろあります。それらのものの「はじめ」といえば、それらが心の内に現われ出ようとする瞬間のこと、と思っていいでしょう。心の内に何かが現われようとする兆しの瞬間、それが物事の「はじめ」です。
 外側に見える「天地初めて」といえば、物理学や天文学が研究している広い宇宙の中の天体が現われ出ようとする数百億年か前の大昔のことを言っていることになります。それとは逆にそれらの出来事を見たり聞いたり、思ったりしている人間の心の世界の「はじめ」とは、人間の思いや考えが今にも現われ出ようとする瞬間々々のことを指した言葉なのだ、ということを御理解頂けることと思います。古事記の「天地初めて發けし時」とは正にその心の世界のはじめの事を言っているのです。
 そして心の中に一つの思いの芽が兆しはじめ、それが発展して具体的な一つの思いとして心の内に現われ、言葉として表現され、発音され、その声が人の耳によって聞かれ、了解されて行く、という一連の出来事の成り立ちや活動の内容が明らかにされるとしたなら、それが取りも直さず私達人間の心の構造と活動の様式を解明することになる、ということが出来ましょう。そうです。古事記の上巻である神話は神様のおとぎ話でも民話でもなく、永遠に変ることのなうない私達人間の心とは何か、を説明しているのです。

高天原に

「天地初めて發けし時」が天体や大地がこの宇宙の中に形成された大昔ということではなく、心の中に色々な現象が現われようとする瞬間の時ということが了解されました。ですからそれに続く「高天原に」とは宇宙の中の何処かの場所ということではなく、ここでは単に「心の世界」という程の意味にとる事が適当でありましょう。何か起ころうとしてまだ何も起こっていない真新な心の宇宙のことであります。一つの塵もない透明な広い広い心の世界のことです。仏教ではこれを法界と呼び、禅では「空」と名付けました。
 この高天原という言葉は古事記の文章の中に度々出て来るのですが、その使われる時と場所によって意味内容に相違があります。その都度説明することに致しますが、今は代表的なもう三つの意味についてお話しておきましょう。「天地初めて發けし」の次の高天原には何の出来事も起きていない清浄無垢な心の宇宙のことです。その何もない心の内に活動が起り、思いが具体化して言葉となり、その結果として心の全構造が人間によって完全に認識・自覚されます。この認識された理路整然たる心の世界、これが高天原と呼びます。更にもう一つの高天原とは、心の構造がはっきりと自らの心の内に理解した人が集まり、その原理に基づいて文明を創造し、人々を教化する政治に場のことを指して言う場合です。このような政庁を昔は百敷の大宮とも呼びました。
 高天原という言葉についてもう一つの話を付け加えておきましょう。高天原という名の由来です。この本の話が進行して人間の心とはどんな構造をしているのか、が次第に明らかにされ、結論として理想的創造神の構造が五十音の言霊の図として把握されることになります。この図表を天津太祝詞音図と言うのですが、その音図の上段の十音が向って右からアタカマハラナヤサワと並びます。その十音の中の五文字タカマハラ(高天原)を取って名付けたものです。でありますから高天原は正しくはタカアマハラ、またはタカマハラと呼ぶのが適当と言えます。

成りし神の名は

 何事も起っていなかった高天原という心の宇宙に、ある時、ある処で何が起ろうとする気配が始まります。心の中に一つの思いや考えが起ろうとして来ます。心の活動の始まりです。
 普通私達は何かを思い、感じた時、それが心の活動の始まりだと思っています。「喉が乾いたな」と思うのが始めで、次に「お茶が欲しい」と続く、と思っています。けれど自分の心の内をよくよく考えてみますと、「喉が…」と頭で具体的な言葉として思う以前に、頭脳の中で複雑な経緯があることが分ります。物事を(それがどんなに簡単な出来事であっても)それを思い、感じる以前に、頭の中では目まぐるしい動きがあって、その後に「ああ、喉が乾いた」という具体的感じが出て来るのです。
 具体的に「喉が渇いたな」と感じた時は己に心の出来事です。その出来事が起きる以前の心の働き、まだ形として表れない働きを心の先天構造と呼びます。経験する以前ということで先験活動とも言われます。それに対し具体的に思い、感じた事を後天活動と呼んでいます。そして今お話をしています「天地初めて發けし時」というのは、出来事として分る以前の心の先天活動について言っているのです。
 さて頭の中に何かの思いの兆し動き始めました。勿論具体的な思いになる以前の動きですから、人はそれを何だと表現するまでに到っていません。けれど何かが成立し始めようとすることを、古事記は「成りませる」と表現しました。また具体的に出来事として起った時は言葉として成立しますから、言葉である音が「鳴る」という字を当てて考えることも出来ます。くどくどしくお話するようですが、人間の思いが初めて動く始める瞬間の様相は以上のように考えられるのです。
 何もない広い心の宇宙に何かが動き始めました。それはどんな事なのでしょうか。話は次に移ります。

天之御中主神

 言霊ウ:心の内に具体的な事柄として言葉で表現される以前の、意識されない頭脳内の先天の構造の中のお話であることを心に留めてお聞き下さい。何もない広い心の宇宙の中に何かが動き出します。何かはわからないけれど広い宇宙の一点に動き出したもの、そしてやがては「私」という意識に発展して行く最も原始的な意識の姿です。
 宇宙の中に初めて意識が動き出す一点、それはよくよく考えて見ますと、その動き出す瞬間が今であり、此処である、ということです。心の息吹が芽を吹き萌え出ようとする瞬間こそ現実の今であり、此処であると言うことが出来るでしょう。これ以外に今という時と此処という処はありません。私達の心の活動はいつでもこの今・此処から出発しています。人間万事全ての活動が始まる出発点です。古事記の編纂者太安万侶はこの人間の原始的な意識に天之御中主神という神名を当てて表現したのでした。その実体を言霊の学問で言霊ウと言います。
 何故太安万侶は今・此処に始まる意識の元の姿に天之御中主神という名前を当てたのでしょうか。天之御中主神の「天之」は心の宇宙の、という意味です。「御中主」とはその宇宙の中心にあって、すべての意識活動の元(主人公)としての、の意味。神とはそういう実体の事。広い心の宇宙に、ある時ある処で、やがて発展して私という自覚となる原始的な意識が芽生えます。その意識がどんなに小さい、ささやかなものであっても、無限大の宇宙がその今・此処の一点から活動を開始するのですから、その瞬間の一点こそ宇宙の中心ということができます。そしてその一点がやがて「我あり」の自覚に発展して行くのですから、宇宙の主人公というわけです。私達日本人の先祖はこの一点の原始的な自覚体に言霊ウ、と名付けたのでした。そして太安万侶は古事記神代巻の編纂に当って言霊ウを指し示す「指月の指」として天之御中主神という神名を使ったのです。

 古事記を言霊との関係の話はまだ始まったばかりです。けれどこの両者の関係について賢明な読者はもうお分かりになられているか、と思います。古事記が編纂される以前から人間の心の全容を解明した言霊の原理なるものが己に日本人の所産として世の中に用いられており、その原理がある理由から呪示・比喩の形式で書き表わされることになったのが太安万侶による古事記神代巻である、ということです。言霊の原理が先ずあり、その後で謎々としての古事記が作られた、というわけです。今後古事記と言霊との関係が明らかになるのつれて、読者はこの事実を確認することとなりましょう。
言霊ウの発生 心の宇宙の中に活動の第一歩が始まりました。天之御中主神・言霊ウの誕生です。これを図で表現しますと図のようになります。宇宙の中心に「我あり」の自覚の最も原始的な意識の芽が萌え出しました。言霊ウです。宇宙の始まりです。この言霊ウの内容を表わす漢字を拾ってみますと有・生・動・蠢等が考えられます。
 言霊ウについて更に考えてみましょう。私達は今迄お話しましたように、眼に見える他の世界から一転して、それを見ている自分の内なる心の世界を考えて来ました。そして色々な心の現象が無限に広い心の世界を考えて来ました。そして色々な心の現象が無限に広い心の宇宙から現われ出ようとする瞬間の一点を考えることとなりました。この一点の何か分らないが何かが始まる存在として言霊ウに思いが到達しました。正しく心の活動の最初の一点です。この一点を了解した心で更に思いを先に進めて見ましょう。
 思いを内に向けて自らの心を顧みて広い宇宙の存在と、そこから心の活動が始まる最初の一点である言霊ウを確認しました。この事実は次のように考えることも出来ます。外界の宇宙ではなく、その外界を見ている内なる心の存在に気付きました。その心の中には種々雑多な心の現象が現われては消えて行きます。そして人はそれらの現象がそこから現れ、そこに消えて行く内なる広い広い無限の宇宙の存在に行き当ります。そして人間の思考はもうそれより先には進むことが出来ない事に気付きます。宇宙は無限です。時間にも空間にも無限です。人間の心はこれより先には遡ることは出来ません。いわば人間の思考には無限という現界がある、と言うことが出来ます。
 私達人間の心はこれ以上遡る事が出来ないのですから、引き返すことしか方法はありません。何処へ引き返したらよいのでしょうか。それは無限の宇宙から、有限である心の活動が始まる一点へ引き返すことです。活動が始まる一点、それは現実的に言えば今・此処ということです。
 こう考えて来ますと、人間の心が活動する最初の点である無限から有限が始めるという関係を了解することが出来ましょう。無限の宇宙を天といい、最初の有限を中主といいます。今・此処である中今の自覚者(主)ということであります。最初に生れた一つの存在である言霊ウに対して太安万侶が天之御中主神という神の名を当てて表わしたのも誠にもっともな事ではありませんか。
 人間の心の活動が始まる瞬間に、心の中でどんな事が起るかをお話して来ました。話やややもすると難しく煩雑になって恐縮なのですが、これも心の出来事として人間が意識する以前の頭脳内の作用についての話しですので已むを得ない事なのだ、と御了解下さい。難解についでにこの初めの瞬間である言霊ウについてもう少しお話したいと思います。
 最初に心の活動の一点に何故言霊ウと名付けたのでしょうか。それは活動の最初の一点がどんな精神内容であるか、に合わせて五十音の中から最も相応しい音として「ウ」を選んで名付けたのです。音声学という学問がありますが、それによりますと母音のウが五十音の中で人間が発する言葉の最初の音である、といいます。また人間の精神構造が全部明らかにされ、その構成要素にアイウエオ五十音の単音をそれぞれ結びつけた時、最初の原始的な意識にウの一音を当てはめると全部が合理的に整頓されることから言霊ウと名付けるのが妥当である、ということが証明されてきます。
 意識の萌芽とも言える言霊ウは現実の人間の生活とどんな関係にあるのでしょうか。それは人間だけではなく、全ての生き物(動物・植物)の持っている最初の最も単純・直接で衝動的・本能的な「感覚」という精神活動となって発現してきます。人間にあっては眼耳鼻舌身の五官感覚です。

次に高御産巣日神、次に神産巣日神

言霊ア・ワ:広い心の宇宙に何かが動く出しました。言霊ウです。次の先天の頭脳構造に何が起きるのでしょうか。
主体と客体に分かれる  秋か冬のよく晴れた日、高いビルの屋上に上って、仰向けに横になった事がありますか。経験のない方は想像して見て下さい。目に見えるものはただ一面の透き通った青い空、一点の曇もありません。その青い空を緊張せず、ただ漠然と見ていますと、何時の間にか空が下って来て自分を包み込んでしまうような、または自分がだんだん空に向って昇って行って空の中に吸い込まれてしまうような気持ちになります。誠に奇妙な気持ちです。それでもめげずにじっと空を見ていると、一瞬自己意識が消えて、自分が空か、空が自分か、分らなくなってしまいます。
 人間は相対するものを見たり聞いたりする時、自我を意識します。仰向けに横になって一面の青空を眺めて、視点としての対象となるものを失ってしまいますと、自我意識も薄れて、終りにはなくなってしまいます。
 以上のことを逆に考えてみましょう。澄んだ青一色の空をじっと見つめて、見る対象を失って自分が空か、空が自分か分らなくなりました。それは自分は空を見ているのでもないけれど、見ていないのでもありません。そんな状態です。心の世界で何か見ているが、何か分らない状態、正しくそれは前にお話しました広い心の宇宙から何か意識が生まれ、動き出した状態と同じではありませんか。言霊学はこれを言霊ウと呼んだことは己にお話しました。
 それなら言霊ウに次に心の世界に何が起るか、もうお分かりでしょう。心の宇宙の中に一点言霊ウが生まれ、次の宇宙は主体と客体、見るものと見られるもの、私と貴方に分れる事となります。見る主体を言霊ア、見られる客体を言霊ワといいます。古事記の編者はそれら言霊の意義・内容を指す指月の指として高御産巣日神・神産巣日神と言う神名を当てたのでした。
 心の宇宙から言霊ウが生まれ、次に言霊アとワに分かれた、といいましても、これ等はまだ意識の自覚に至る以前の先天構造の内部のことでありますから、見ている側が何の誰べえとか、見られる客体が何々のものとか、という具体的な事ではありません。飽くまで先天の構造についてお話しているのだ、ということを御承知下さい。この何もない宇宙から言霊ウ・ア・ワと分れて来る状況を図で示しますと、図の様になります。
 言霊アとワについて太安万侶が高御産巣日神・神産巣日神という名を当てた意図は何だったのでしょうか。両方の神名を仮名で書いてみましょう。タカミムスビノカミ、カミムスビノカミとなります。両方を比べて見ますと、漢字で書いた時には気が付かないのですが、主体を表わす高御産巣日神の方が頭にタの一字が多いという他は全く同じである事に気付くでしょう。先ずそのタの一字を除いたカミムスビノカミについて考えてみましょう。
 カミムスビのカミは噛むの意です。噛み合わさる、ことです。ムスはうまれる・はえる・生じる、という意。ビは霊で言霊特に子音のことです。むして出来た子を息子(むすこ)と言います。カミムスビの全部では「噛み合わさって現象である子音を生じる」となります。噛み合わさることを現代語で感応同交といいます。主体と客体がお互いに感応同交して現象が生まれる、ということです。男と女が感応同交すれば子が出来ます。そのお互いに噛み合わさるもの、それは主体と客体であり、我と汝であり、また男と女・出発点と目的点・積極と消極等々色々なことに当てはまります。
 次に主体の方にただ一字タの字の冠がついているのは何故か、考えてみましょう。音声学ではタ行のタチツテトの音は陽性で積極的な音だと言います。剣道で刀を大上段から真向いに振り下ろす時の掛け声がタ行の音です。純粋の主体と客体が感応して現象を生み出そうとする時、イニシアチィブを取るのは常に主体からであって、客体はただ受身となるだけです。ですから主体である高御産巣日神の方にタの字が頭に付いている、と説明出来ます。
 それだけではありません。言霊学の講義はまだ始まったばかりですが、話が先に進みますと人間の心の要素が全部で五十個の言霊で構成されていて、それから五十個の言霊で心の構造を表わすと絶て五個、横十個の言霊が並ぶ五十音図が出来上がります。現在私達が使っているアイウエオ五十音図もその一つです。それは自覚された人間性の内容を示しています。またその形は丁度稲を作る田んぼの形でもあります。後の話に出て来ます言霊学の総結論に与えられた神様の名前である天照大神は田を耕していると古事記に書かれています。タという言霊の一音は田の字に通じ、それは自覚された人間性を表わしています。主体の側である高御産巣日神の冠にタの一字が付く理由となります。主体と客体が感応合交する時、主体側だけが人間性の自覚に裏打ちされた働きかけが許されており、客体側はただその働きかけに答えるだけに過ぎません。
 話が少し難しくなって来たかも知れません。もう少し説明しましょう。人は何か一つの物について調べるとしましょう。その人の研究が色彩に関したものだけである場合、その物の色が問題となり、その他の性質である堅いか柔らかいか、金属製か木製か、などの問題は一切ネグレクトされるでしょう。客体は現象としては主体の問いかけにのみ答える、ということをお分かり頂けることと思います。
 何もない心の宇宙からある一点が動く出します。言霊ウです。この時はまだ主体と客体に剖れていません。主客未剖と哲学で呼びます。そこに人間の何かの思考が加わる時、一瞬にして「何かあるもの」は主体と客体に分れます。ウからア・ワに分れます。主客未剖の一者が思考が加わると主と客の二者に分れる。この一見当り前のように思える働きですが、人間の心の働きにとって重要な事柄なのです。初めに一者が二者に分れること、これが人間の知性の第一の法則であり、また人間の宿命である、ということが出来ます。
 また次のようにも言えます。宇宙から先ず一者が生まれ、それが二者に別れ、それぞれにウ、ア、ワと名がつけられました。生れて来ると同時にそれに名が付くこと、これが人間の創造の始まりです。名が付かなければ何も始まらないのと同じです。これも人間の心の営みの大原則ということが出来ましょう。
 ではこの言霊アである世界は人間心理とどんな関わりを持つのでしょうか。言霊アから出て来る人間心理それは感情です。また主体である言霊アの内容に当る漢字を拾って見ますと、天・吾・明などが考えられるでしょう。そして客体である言霊ワには我・和・輪が考えられます。

この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隱したまひき

 独神とは独立している神ということ。独立でありますから、それ自体だけで存在していて、他に依存しないこと、というわけです。どういう事か例を挙げて説明しましょう。言霊アと言えば、そこから人間の感情が迸り出る元の宇宙です。そして人間の感情というものはそれだけで人間心理の一世界を形成していて、人間心理の他の出来事であります欲望とか、経験知などに依存することなしに働きます。そのような一つの独立した心の世界(次元との言います)を独神といいます。
 身を隠したまひき、とは眼で見、耳で聞かれるような現われた出来事(現象)ではなく、心の先天構造の中でだけの実在であるから、「身を隠している」ということであります。例えば「私」というものは、色々な出来事を作り出し、その出来事は見聞きすることが出来ますが、私自身そのものは現象として現れることはありません。それは抽象的な概念として、または宗教的な自覚の内容としては存在しているけれど、具体的に「これですよ」と人に示すことは出来ません。先天構造の内部にだけ存在して、後天的な具体性を持ったものではありません。これが「身を隠したまひき」という意味です。

 

次に国稚く浮ける脂の如くして、海月なす漂えるとき、葦牙の如く萌え騰る物によりて、成りし神の名は宇摩志阿斯訶備比古遲神、次に天之常立神。この二柱の神もまた獨神と成りまして、身を隱したる。

国稚く浮ける脂の如くして、海月なす漂えるとき

 心の先天構造の中に初めて生れて来るウアワの三つの言霊の宇宙が確認出来ました。次に宇宙はどう分れて来るのでしょうか。話を先に進めることにしましょう。
 「国稚く」の国とは組んで似せる、または区切って似せる、の意。分ったものに名を付ける、ということは、広い宇宙の一部を区切って他と区別して言葉としてそのものの内容を表現することです。現代使われている国という言葉も、世界の中から日本という国を区別して付けた名前、ということが出来ます。何もない宇宙からウアワの三つの宇宙が分かれて来て、それに名が付いたけれど、まだそれだけでは心の宇宙の区分けは始まったばかりで、はっきりとしていない。そのことを「稚い」と表現しました。「浮ける脂の如くして」とはその状態は水の上に漂っている油のように不安定であって、の意。「海月なす漂えるとき」の海月とはクラゲ、暗気の意、混沌として暗黒に包まれていて、まだはっきりと分別が出来ていない、ということです。心の宇宙に意識の芽が生れ、それが主体と客体に分れた、というだけでは整理確認の作業は混沌としている、ということであります。
 「葦牙の如く」とは葦の芽の如く、の意。「萌え騰る物によりて」とは、葦の芽が次から次へと連鎖反応を起こすように吹き出て来る様子に喩えている。では何が出て来るのか、といえば…

 

宇摩志阿斯訶備比古遲神、次に天之常立神

 言霊ヲ・オ:宇摩志は霊妙なの意。阿斯訶備比古遲は葦の芽、比古遲とは男の事。男は音の子で言葉を意味する。全部で霊妙な葦の芽のように次から次へと萌え出で来る言葉の実体、ということになります。心の中で次々に吹き出るように現れるもの、といえば、それは直に人間の記憶であることがお分かりのことでしょう。宇摩志阿斯訶備比古遲神とは人間の記憶、経験した出来事の記憶のことであります。その記憶はただ一つポツンとあるものではなく、他の記憶と連結していて、次々と果てしなく関係が広がります。その経験の記憶が存在する宇宙のことを言霊ヲといいます。そのヲに漢字を当てはめますと尾・緒などが考えられるでありましょう。
 記憶の連鎖のことを生命の玉の緒などと呼びます。この緒が途切れてしまうのが人間のボケです。また記憶というのは、経験そのものは過去のものとなっても、何時までも緒を引いて残ります。それは動物の緒のようなもので、窓の前を動物は過ぎて行っても、尾っぽが一番後まで残るようなものです。
 天之常立神とは大自然(天)が恒常に(常)成立する(立ち)主体、といった意味であります。阿斯訶備比古遲が記憶そのものの世界(言霊ヲ)とすれば、天之常立神とは記憶し、その記憶それぞれの関連を考える主体の世界(言霊オ)ということが出来ましょう。記憶とその関連を考える世界というば、そこからやがて学問が成立して来る世界であります。それはまた「自然とは何か」の思考を成立させる心の世界のことでもありましょう。
 以上の記憶とか学問的な思考を成立させる宇宙も、それだけで十分独立していて他に頼ることなく存在する世界です。またそれは先天構造の中の存在であって、それ自体は現象となっと姿を現すことは決してありません。ですからこの言霊オ・ヲも「獨神と成りまして、身を隱したる」なのであります。

次に成りし神の名は、国之常立神、次に豊雲野神。この二柱の神もまた獨神と成りまして、身を隱したまひき。

 

国之常立神、次に豊雲野神

主体と客体

 言霊エ・ヱ:国之常立神とは国家(国)が恒常に(常)成立する(立)ための実体(神)という意味であります。この実体が言霊エです。この宇宙の広がりから現れて来る人間の働くは実践知です。言霊エに漢字を当てはめると選の字が最も適当でしょう。言霊エに「選らぶ」を当てるのが何故よいか、もう少し詳しく説明することにしましょう。
 広く何もない宇宙の中に意識の芽とも言われる言霊ウが生れます。まだ主客未剖で、何かあるがそれが何であるか分らない状態です。言霊ウは五官感覚作用が現れて来る世界です。次のその何だか分らないものに人間の「何かな」という思考が加わった瞬間、言霊ウの宇宙は分れて主体(吾)と客体(汝)である言霊アとワの宇宙となります。言霊アの宇宙から現れる人間性能は感情です。「何かな」の思考の次に、人はそれを今迄に経験した過去の出来事の中に求めようとします。記憶と結びつけようとします。言霊オとヲの経験知の世界が生れます。そしてその何かが分ったら、人間は次にそれをどう取扱うか、の選択に迫られます。言霊エとヱが現れます。言霊エ(ヱ)とは人間の選択する知恵即ち実践知が現われて来る宇宙のことなのです。言霊エに「選ぶ」の字が適当だ、とお話しました理由です。
 豊雲野神の「豊」は十四の数を示す謎です。解説は後章にゆずりますが、十四は先天構造を構成している言霊の来本数なのです。豊葦原の瑞穂の国の豊も同じ意味であります。「雲」は組むという言葉を示す謎です。「野」は分野という程の意。豊雲野神で先天構造の言霊をどのように組んで行くか、を考える分野の実体と言った意味に取れます。それは実践智によって表わされた道理とかという意味となりましょう。言霊ヱに当る漢字を拾いますと慧、絵等が考えられます。
 ここまでの話で、広い何もない宇宙からウ、アウ、オヲ、エヱの宇宙が分れ生まれて来ることが確認されました。言霊ウから五官感覚作用が、言霊ア(ワ)からは感情が、言霊オ(ヲ)からは経験知が、言霊エ(ヱ)からは実践智が現われて来るそれぞれ独立した宇宙であり、その一つ一つは先天構造内部のもので、それ自体は現象として姿を現すことがない実体であることが分りました。そして母音で表わします言霊アオエが主体の側であり、半母音である言霊ワヲヱが客体の側である事も分りました。これを図に示しますと図のようになりましょう。
 先に、宇宙に意識の芽とも言える一点言霊ウが生まれ、そこに何かの思考が加わると主体と客体言霊アとワに分かれること、それが心の働きの第一の法則であり、また人間の宿命とも言えるものだ、ということをお話しました。更に今、言霊オの経験知と言霊エの実践智という二つの知恵が現われて来ました。言霊ウ、ア・ワの宿命的な法則と経験知と実践智の区別との間には密接な関係があり、今後幾度となく解説することといたします。
 現代は知恵というと主として学問的知識の事を思い浮べ、物事に処する「機転」という実践智も方を見落とし勝ちです。または知恵といえば両者を混同して思いがちです。けれど両者は全く次元も成り立ちも違う別のものなのです。ではどのように違うのでしょうか。
 或る物事を見て、見る主体と見られる客体が分かれた処から思考が始まる時、言換えますと、ある出来事を見て、それを頭の中に思い浮かべて、「これは何故かな」と思考が始まる時、学問的な知恵、言霊オの世界からの働きが現われます。
 これとは別に、「何、何故」の思考を傍らに置いて、思考の始めである宇宙の初発に帰り、「さて私はどうしようかな」と思う時、実践智である言霊エからの知恵が動き出す、ということになります。詳しい説明は後に譲ることにしましょう。