現代スサノウの言霊 

父韻

 次に成りし神の名は、宇比地迩神、次に妹須比智迩神。次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能地神、次に妹大斗乃辨神。次に淤母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。

 

母音・半母音

 広い宇宙の一点が活動を始めて、言霊ウアワオヲエヱという宇宙が次々に剖判して来た処までお話が進みました。それらの言霊はそれぞれ頭脳の先天構造の中の実在であって、それ自体は決して現象としては姿を現すことがないものでありました。試しに母音であるウアオエをそれぞれ発音して見て下さい。息の続く限り「アーー」と同じ声が続きます。それは時間の上でも空間でも宇宙が無限であることを表わしています。
 さて、今迄に確認されました先天構造内の言霊ウ・アワ・オヲ・エヱを主体と客体(私と貴方)に分けてみましょう。主体側アオエの母音と、客体側にワヲヱの本母音とが区別されます。言霊ウは主客未剖ですから主客の区別はありません。今、便宣上主客に分かれない言霊ウを主も客もウと考えて、主体側をウオアエ、客体側をウヲワヱとして対立させますと図のようになります。
 そこでウ→ウ、ア→ワ、オ→ヲ、エ→ヱの対立について考えてみましょう。そのそれぞれは対立している、とは言っても、ウアオエ・ウワヲヱの一つ一つは「独り神で、身を隠している」実在ですから、それ自体はじっと静まりかえっているばかりで、自分から何らかの行動も起こすことがない存在です。ウ→ウ、ア→ワ、オ→ヲ、エ→ヱの対立と言っても、私と貴方の両方共互いに後ろ向きに立って、眼を閉じ、耳を塞ぎ、互いに相手に全然気が付いていない時と同じ状態と言ってもよいでしょう。これでは私と貴方との間で何の交渉も起りようがありません。交渉がなければ何の出来事も起りません。私と貴方が互いに向き合い、眼を開け、耳を澄まして相手に注意を払うようにするのは何かお互い以外のものが必要です。私と貴方に働きかける仕掛人の役目をするものが要ることになります。そこに人間の思考構造の中の父韻が登場することになります。

父韻

 古事記は豊雲野神の次に宇比地迩神から妹阿夜訶志古泥神までの八神を挙げています。チイキミシリヒニの八音の言霊のことです。この八音の言霊がウウ・アワ・オヲ・エヱと主客に対立している母音・半母音の宇宙に働きかけ、母音と半母音が噛み結ぶ、感応同交する事を可能にします。ウオアエ・ウヲワヱの母音・半母音は人間の心がその中に生れて来る大自然宇宙です。大自然だけでは「独り神で身を隠していて」何の活動も起りません。そこに働きかけ母音と半母音を噛み合わせ結ばせる八つの音は大自然ではなく、大自然を見、聞き、考え、感じ、生活を創造して行く人間の知性の根本律動とも言ったらよいものです。この八つの音を父韻と呼びます。
 この父韻の力動の型に八種類があります。チイキミシリヒニの八音で示します。この八音は古事記に「宇比地迩神、次に妹須比智迩神。…」と書かれていますように妹背即ち夫婦・陰陽といった二音一組の四組の型から成っているのです。科学的に表現しますと作用・反作用の関係と言ったらよいでしょうか。この作用・反作用の関係は八音の力動の内容の説明のところで明らかにされます。
 この純粋の主体と客体とを結び合わせて、現象を生んで行く八つの父韻の存在は大昔から宗教・哲学書によって知らされて来ました。例えば日本の神道では「天之御柱(純粋主体)と国之御柱(純粋客体)との間を渡す天之浮橋」と言い、仏教では「此れより彼岸に渡す石橋」と喩えられています。また易経では乾兌離震巽坎艮坤の八卦で示しておりますし、キリスト教では「我わが虹を雲の内に起きさん。是我と世との間の契約の徴なるべし(創世記九章)」とエホバの虹という言葉で伝えています。このように聖書も伝えますように、黙ったお互いに後ろを向いている主体と客体に働きかけて、正面に向き合い、互いに気持を交換し合うように仕向ける人間の創造知性の働きは、神から与えられた即ち生来人間が持っている八つの父韻以外にありません。
 ではこれら八つの父韻の言霊は、それぞれどんな働きをして主体と客体とを噛み合わせるのでしょうか。八つの父韻を指し指月の指である古事記の神名の説明に入ることにします。実を言って主と客を結ぶ力動パターンなどと言いましても、心の中の奥の方で一瞬に閃く火花のようなものですので、言葉で説明・表現することは至難の業なのです。けれど一度父韻の力動を知ってしまうと、古事記の太安万侶が実にうまい名前で実際の父韻という月を指さした事か、関心させられるのです。

宇比地迩神

 言霊チ:宇比地迩という漢字から宇(いえ)は地と比べて似て近いものだ、という意味が読み取れます。これだけでは神名が如何なる父韻の働きを表現しているか明らかではありません。宇比地迩の宇は「いえ」とか宇宙の宇の事です。ここで」「いえ」と言えば勿論人間の心の家の事です。心の家は宇宙全体です。体や物には障壁がありますが心にはそれがありません。思ったら直に何処でも何時の時代でも飛んで行けます。でしから心の家は宇宙全体です。その宇宙が地と比べて近い、と言うのです。天が地と比べて近い、とはどんな意味でしょう。
 もう少し突っ込んで考えて見ましょう。心の宇宙といえば心全体ということです。それはまた一人の人間の人格全部ということにもなりましょう。それでは地とは何でしょうか。心の宇宙が目に見えないものとすれば、地とは眼に見えるもの、現実的なもの、という意味にとれます。そこで「心全体が地に近い」とは心全体人格がそのまま現象となって現われ出て来ること、の意味にとれます。言霊チとは宇宙全体がそのまま現象となって現われ出ようとする力動韻ということです。
 例えば明日大切な出来事を処理しなければならない、とします。どう対処したら良いか、なかなか考えがまとまりません。「ああでもない、こうでもない」とうとう夜中が過ぎてしまいました。その時ふと諦めの心が湧いて来ました。「自分の力ではどうすることも出来ないのかも知れない。それなら、その場に当って砕けろ」そう心が決まります。この「当って砕けろ」は決して投げやりの気持ではありません。成功することを念願しながら、その場に臨んで自分の持っている力全部を総動員して事に当ろうと決心することです。このように何らの先入観も持たずに、全身全霊を以て事に当ろうとする瞬間の人間の創造意志の力動、これが父韻言霊チなのです。

妹須比智迩神

 言霊イ:この言霊イのイはアイウエオのイではなく、ヤイユヱヨのイであります。され妹須比智迩神には冠に妹の字が付いています。前の宇比地迩神と妹背、陰陽・作用反作用の関係にあることを示しています。宇比地迩神が宇宙全体がそのまま現象界に姿を現わす韻というなら、それと陰陽・作用反作用の関係となる働きとはどんなものなのでしょうか。それは言霊チの宇宙が一瞬に現象化する力動であるのに対し、言霊イは「現われ出て来た動きの持続する働きの韻」ということが出来ます。パッと現われたものが弥栄に延び続く姿、と言ったら良いでしょうか。
 神名を見ましょう。須比智迩は「須らく智に比ぶるに迩かるべし」と読めます。須比智迩が地に比べているのに対し須比智迩は智に比べています。その違いは次の通りでしょう。先の例にありますように、どう対処したら良いか思いあぐんで、「下手な考え休むに似たり」と先入観を振り切って、清水の舞台から飛び下りるつもりで立ち向うときは、一瞬大地を呑み込む勢でぶつかりますが、一旦飛び下りてしまえば、後の相手との交渉は自分の持っている経験的知識をどう使うか、に掛って来ます。決意して飛び出す時が言霊チとすれば、飛び出した後は言霊イです。それは否応なく自分の知恵に頼らざるを得ません。「須らく智に比べるに迩し」の神名はその事を指しています。大刀を振り落す瞬間が言霊チなら、振り落された大刀を持つ手がどこまでも相手に向って延びて行く様が言霊イということです。

 以上言霊チ・イの二つの父韻の内容についてお話しました。御理解を頂けたでありましょうか。先に古事記の神名はすべて言霊の内容を指し示す指月の指であると申しました。ですから指し示す指だけを見ていても、それが指し示す実際の物事の内容は決して理解することが出来ません。と同時に言霊チ・イについてお話しましたこの文章もまた指月の指なのです。文章について御理解頂けた読者は更にそれを参考になさり、読者御自身の生活や心理の中でその父韻の実際の姿を自覚なさって下さることを希望します。続いて言霊チ・イ以外の父韻のお話を進めることにします。

角杙神、妹活杙神
言霊シ・リの内容図示

 言霊キ・ミ:言霊キ・ミを指差すこの二神の名前は比較的容易に理解出来きます。人間が生れた時から授かっている天与の判断力・知恵のことを各宗教書では剣とか杖とか、または杙・柱などと呼んでいます。人がこの世の中に一人生きて行くための頼りになる拠り代と言った意味を持っています。この判断力で人が生きるために必要な知識・信条・習慣等々を、角を出すように掻き繰って自分の方に引き寄せて来る働きの力が父韻キであります。その働きとは反対に、自らの判断力によって(杙)、生活を更に発展させようと世の中の種々の物に結び付こうとする力動、これが生杙の神である言霊ミです。手蔓・物蔓・金蔓・蔓人手当たり次第に結び付こうとする当今の政治家気質を思えば理解が早いでしょう。けれどこの力動は何も政治家だけのものではありません。人間にとってこの世に生きて行くのに最も必要な創造意志のパターンなのです。

意富斗能地神、妹大斗乃辨神

 言霊シ・リ:この二つの神名から推理して言霊の内容に到達することはほとんど不可能に近いように思われます。けれどもこの神名を基にして人が自分自身の心の内の動きを見つめて行きますと、言霊の内容に行き着くのもそれ程難しいことではありません。
 意富斗能地とは大いなる量の働きの地と読めます。人は物事がうまく識別出来ない時、ああかこうかと試行錯誤します。迷い努力した末にやっと理解納得して、事は終り、事態はここで一段落します。静まります。静まったのは何もかもなくなってしまった事なのではなく、経験知識として物事の識別の土台となって残ることです。その土台が地です。意富斗能地とは大きな識別(斗)の働き(能)が土台となるように静まること、と受け取れるでしょう。言霊シとは人の心の中心に向って静まり収まる働きの韻なのです。
 大斗乃辨とは大いなる量りのわきまえ、と読めます。言霊シとリは陰陽・作用反作用の関係にあることから考えますと、人間の識別の力(斗)が心の宇宙の広がりに向って何処までも活用されるように発展伸長して行く力動韻と見ることができます。また言霊リの行であるラリルレロが渦巻状・螺旋状の動きを表わすことから、言霊シ・リの内容を図示しますと、図の様に画かれます。

淤母陀流神、妹阿夜訶志古泥神
父韻の説明

 言霊ヒ・ニ:この二つの神名からは容易に言霊の内容を推察できます。淤母陀流神を日本書記では面足尊と書いてありますように、表面(面)に完成する韻ということが出来ます。何が完成することなのか。人はその人の前で起っている物事を適確に把握することが出来ず、思い悩むことがあります。それが何かの瞬間、事情が呑み込め、どういう事かの表現が頭の中ではっきりと出来る上がる事があります。このように物事の事態をしっかり把握してその言葉としての表現が心の表面に完成する働きの韻、これが言霊ヒであります。
 この言霊ヒと妹背の関係にあります妹阿夜訶志古泥神が指差す言霊ニの内容は自ずと明らかであります。妹阿夜訶志古泥とは「あやにかしこき音」の意味です。阿夜と夜の字が使われている事から、心の表面とは反対に心の中心部分を暗示しています。心の底の部分に物事の原因となる音が煮詰まり成る韻、それが言霊ニであります。
 例を引いて見ましょう。物事の実際の内容が理解出来、それをどう表現したら良いか、が言葉として完成し、「分った」と思って心が晴れやかになった、その時、同時に心の中心には己に次の事態の発生する根っことなるものが、何も知らないが煮詰まり成っていることです。その動きに於いて前者が言霊ヒであり、後者が言霊ニの父韻であるわけです。

 以上八つの父韻チイキミシリヒニの内容とその指月の指となる古事記の神名についてお話して来ました。お分かり頂けたでしょうか。この父韻については、先にお話しましたように易で八卦といい、仏教で石橋と呼び、キリスト教で神と人との間の契約の虹と表徴して、その存在に言及はしているものの、その表現は飽くまで概念的・比喩的なもので、父韻の実体はここ数千年の謎とされて来たものなのです。またここにお話しています言霊の学でも奥義と言ってよい部分でありますので、読者におかれましても種々比喩で表現されます文章を参考に自分の心の中に踏み入って父韻の実際の姿を確認して頂き度いものであります。八つの父韻が理解されて来ますと、人間の心の全構造の輪郭が略々見えて来ることになります。
 また次のように言うことも出来ます。古事記の中に出てくる幾多の神様の名前は全て言霊の原理の内容を表徴する所謂「指月の指」でありますので、それら神様を担ぎ回り、やれ御利益だ、崇敬せよ、と叫びましても、個人的に心を慰めるのに多少の役に立つかも知れませんが、それ以外何らの意味もないことであります。「あれが月ですよ」と指差すその指を云々しても何も始まるものではありません。
 それなら古事記神代の巻にある神名は、古事記の編纂者である太安万侶が言霊を表徴するために創作した名前なのか、と言うとそうではありません。日本史の年表に「六四五年、天皇記・国記消失」とあります。その時代までの古代の天皇家や国家の歴史記録が消失してしまったのですが、その写しであると言われて民間に伝わる竹内古文献・大伴文献やその他上記等を見ますと、古事記の神代巻にある神名と同じ名前の天皇名や人の名前が多数発見されることです。この事から太安万侶は言霊の一つ一つに、その内容を表徴する所謂指月の指となるのに適当な名前を選び神名として用いたに違いありません。現代に生きる私達が自らの心の中に踏み入って一つ一つの言霊を確認する時、その表徴である神名が「成るほど」と首肯されることから、太安万侶の意図の正確さが証明されます。
 古事記の編者は何故そのようなまどろこしい謎々で言霊の原理を後世に伝えようとしたのか、その解説は後章に譲り、ひとまず八父韻の説明を終えます