現代スサノウの言霊 

創造へ、そして失敗

 先天十七個の言霊が活動を開始し、言霊イ・ヰである伊邪那岐・美の二神が婚いして子(子音)を生む行為が始めることになりますが、古事記では先ず最初に子生みの失敗談が披露されます。人間精神の原理の話がいよいよ佳境に入ろうとする時、何故失敗した事などが語られるのでしょうか。それは古事記神代の巻が人類の文明の歴史を深く洞察した上で書かれた事の証明となることなのですが、それは話が進むにゆれて明らかになり、著者太安万侶の深謀遠慮に驚かされることとなります。さあ、古事記の文章に帰りましょう。

 是に其の妹伊邪那美命に問曰ひたまひけらく、「汝が身は如何にか成れる。」ととひたまへば、「吾が身は、成り成りて成り合はざる処一処あり。」 と答白へたまひき。爾に伊邪那岐命詔りたまひけらく、「我が身は、成り成りて成り余れる処一処あり。故、此の吾が身の成り余れる処を以ちて、汝が身の成り合はざる処に刺し塞ぎて、国土を生み成さむと以為ふ。生むこと奈何。」とのりたまへば、伊邪那美命、「然善けむ。」と答曰(こた)へたまひき。爾に伊邪那岐命詔りたまひけらく、「然らば吾と汝と是の天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗能麻具波比為む。」 と詔りたまひき。如此期りて、乃ち「汝は右より廻り逢へ、我は左より回り逢はむ。」 と詔りたまひ、約り竟へて廻る時、伊邪那美命、先に「阿那邇夜志愛袁登古袁」と言ひ、後に伊邪那岐命、 「阿那邇夜志愛袁登売袁。」と言ひ、各言ひ竟へし後、其の妹に告曰げたまひけらく、「女子先に言へるは良からず。」とつげたまひき。然れども久美度邇興して生める子は、水蛭子。此の子は葦船に入れて流し去てき。次に淡島を生みき。是も亦、子の例には入れざりき。

吾が身は、成り成りて成り合はざる処一処あり。
 古事記の最初の文章「天地初めて發けし時、高天原に成りし神の名は、」にありますのと同様に、「成り成りて」の成りは「鳴る」の謎であります。そうでないと古事記が言霊原理の教科書であることから離れます。母音であるアオウエイのそれぞれを発音してみて下さい。同じ音がズウーと続いて変化がありません。このような音を仏教で梵音と呼ぶ大自然・大宇宙の音なのです。それは音が続いている限り開いたままで合うことがありませんので、「成り合はざる音」と表わしたのです。鳴り合わぬ陰部に譬えたわけであります。

 我が身は、成り成りて成り余れる処一処あり。
 古事記のこの文章の「我」とは伊邪那岐命です。けれど「我が身」とは伊邪那岐命である言霊イそのものではなく、伊邪那岐命の実際の働きである八つの父韻キシチニヒミイリのことであります。この八つの父韻を発音してみますと、音が二段階となっていて、イという音が余音となって続く事に気付かれるでしょう。これが鳴り(成り)余れる音(一処)というわけです。イ言霊は五つの母音の一つであり、同時に八つの父韻に展開して創造の韻となって活動して父母音の両方の性質を持っていることから、言霊イを親音と呼んで単なる母音と区別しているのです。この鳴り余れる音であります父韻を男根の成り余っている姿に譬えて示したのであります。伊邪那岐・美の両命の婚いによって言霊子音を生む子生みは、巧みに男と女の生殖の行為に譬えて説かれていますが、言語の発音も男女の生殖も共に人間生命の唯一の道理の発現でありますから、比喩が誠にぴったりと当てはまることとなります。

此の吾が身の成り余れる処を以ちて、汝が身の成り合はざる処に刺し塞ぎて、
 この文章は勿論男女の身体の結合に事寄せて言葉の発生の事を述べるのである。父韻を母音の中に刺し塞ぐようにして発声すること。父韻キと母音アでキア(k+a)=カとなります。同様にしてキエ(k+e)=ケ、キオ(k+o)=コ、キウ(k+u)=クとなり、カケクコとカ行の音が生れます。五十音図の他の七行も同じようにして発現して来ます。

 国土を生み成さむ
 国土を造ることではなく、言語を生むことであります。此処では特に子音を創ること。「くに」とは前に説明した事がありますが、「組んで似せる」ことです。何に似せるか、というと、物事の真実の姿に似せて、そのものズバリの言葉の要素を造ることです。今迄の処は心の先天構造のことばかりを説明してきました。先天のことですから、五官感覚で接触することが出来ない、姿を持たない世界のことでした。日本書記の言葉を借りますと「兆しを含み、薫が満ちている」先天の要素が漂っていて、目に見える何物も発現していない先天宇宙の中から初めて後天現象の要素である子音が生れ出ようとするのです。この時、先天の要素を天名と言い、後天の要素を真名または真奈と呼びます。子音である真名は先天父母音で組まれた国土ということとなります。
 日本書記に「善きかな国のありけること」とありますように、言葉は文明の始まりであり、人間の集団としての国の始まりです。この時、その言葉がどのような言葉であるか、によって国柄が定まって来ます。人間誰しもが生来授かっている心の先天構造の原理に則って言葉が造られ、その造られた言葉が示す真実の実現として肇められた国家が世界で唯一つあります。その国の名は「霊の本」即ち日本であります。霊の本とは人間の生命法則そのままの言葉を保持している国、という意味であります。
 日本や世界が今後困難な事態に遭遇し、絶望の淵に沈もうとする時があっても、それを乗り越えて人類の生きる道を発見することは可能なのです。それは「いざ」という時、心を虚しくして人間の創造意志が働く瞬間の時点(中今)に帰り、そこから発動する創造意志そのまま発せられる言葉の指し示す道に気付く事です。日本語とはそういう言葉なのであります。

爾に伊邪那岐命詔りたまひけらく、「然らば吾と汝と是の天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗能麻具波比為む。」 と詔りたまひき。
 天の御柱とは先に説明しましたように、母音アオウエイの縦の並び、これに対し国の御柱とは半母音ワヲウヱヰのことです。この御柱とは古事記の大方の注釈にありますような「家屋の中心となる神聖な柱」という現実的な家の柱のことではありません。心の柱です。心のアオウエイ五母音言霊という五段階層の構造の宇宙を住家としています。これが天与の人間の生命の拠り所でありますので、家屋の大黒柱にたとえたわけであります。天の御柱とは純粋の主観、国の御柱とは純粋客観を意味します。
 ではこの天の御柱を岐美二神が廻って美斗の磨具波比(結婚)をする、とはどんな事を言うのでしょうか。これも先にお話した事ですが、物事には全て相体観と絶対観という二つの見方があります。夫と妻が対立していると見る立場と、夫と妻が一体となり夫婦として行動する立場との二つです。話が理屈っぽくなって恐縮なのですが、ここは我慢してお読み下さい。分り易くするために図で相対観と絶対観の立場を示しておきましょう。
 相対観とは伊邪那岐命イ(ウオアエ)と伊邪那美命ヰ(ウヲワヱ)とが対立している状態です。図の上がそれを示しています。それに対し絶対観の立場では岐の命と美の命が一体となった状態です。下の図で示されます。この場合、岐の命イ(ウオアエ)と美の命ヰ(ウヲワヱ)は一体となり、陰陽の陽、能動と受動の能動、主と客の主である岐命の側のイ(ウオアエ)を以て表わす事となります。その場合の天の御柱というのは単なる天の御柱ではなく、その中に国の御柱をも含んでいる、ということです。
 以上の相対観と絶対観という立場を頭に入れておいて「吾と汝と是の天の御柱を行き廻り逢ひて」という事を考えますと、次のようになります。即ち「イ・アオウエ(天の御柱)とヰ・ワヲウヱ(国の御柱)が創造意志の火花(律)の媒介によってお互いに感応同交すること」であり、絶対観の立場からすれば「宇宙の実在であるアオウエ・イに岐の命と美の命との間に閃く創造意志も火花が働きかけて、実在である子音を現象として現わす」ということになります。「吾と汝と是の天の御柱を行き廻り逢ひて」という古事記の表現は主として上の説明の内の絶対観の立場を頭に置いたものでありましょう。
「美斗能麻具波比為む。」とは現代風に言えば「結婚しよう」ということであります。日本書記には「遘合為夫婦」「交の道」と書かれています。遘合は交合のこと、夫婦のまじわりの意です。麻具波比は「招き合い」の意でしょうか。交は十作でイ・キシチニヒミイリ・ヰの交流を言います。

 汝は右より廻り逢へ、我は左より回り逢はむ。
「伊邪那美命は右より廻れ」と言った。右は見切りの意で女陰の形であります。天の御柱を右廻りに廻り、夫韻ミリイニの役目を負え、という意味です。それとは反対に伊邪那岐命は左より廻って父韻ヒチシキの役目をする、ということ。左(ひたり)は霊足または霊垂の意味で男根を示し、能動・積極性を表わします。岐美二神がそれぞれ成り余れる処と成り合わざる処の役目を負うことによって物事の現象が生じます。

女子先に言へるは良からず。
 女が男より先に発言した事は適当でない、の意。これは何も男女の優劣・順序を言っているわけではありません。現象である子音を生もうとして母音を先に発音して父韻を後にしたのでは、子音は生れない。だから適当でない、ということであります。例えば父韻kを先に、母音aを後にすればカという子音が生れるが、母音を先にしたのではa・kで子音は生れて来ないことになります。
 右の例は言霊学の子音を生む事に関する説明ですが、これを人間の創造行為について検討してみましょう。人は何かをしようとする場合、「人間とはそも何者か」などという問題を第一に考え、実践創造意志である父韻の発現を無視したのでは、人は創造の第一歩を踏む出せない事になります。自我の本性を見定めようとする小乗信仰の立場から実相である文明創造は湧いて来ないことになります。これも「女子先に言へるは良からず」ということです。

 然れども久美度邇興して生める子は、水蛭子。
 久美度とは組む所の謎であります。言葉が頭脳内で組まれる所のことで、久美度とは陰辺のことで、隠り神の居る所。水蛭子の蛭は骨(霊音)のない動物。水蛭子はまた霊流子とも読めます。霊である父韻が流れてしまった実相の子音が生れて来ない、ということを示します。何故なら母音を先に発音し、母音である個人の心の内部の悟りばかりに拘るからです。
 この文章の初めに「然れども」とあります。「女子先に言へるは良からず」、適当ではないと言って尚且つ水蛭子を生んだのは何故でしょうか。母音である小乗的悟りに拘っては実相は生れて来ない、とは知っていても、しかし人間にはそういう状態もあり得ることでありますから、取敢えずは水蛭子も生むことにしようというわけであります。
 事実、世界はここ三千年間、日本に於いて二千年の間、物質文明創造の時代であり、弱肉強食・生存競争の社会が続きました。弱者である一般民衆は戦乱怒涛の唯中にあって、せめてもの心の平安を求めて、小乗的な信仰や思索の中に身を投ずるより方法がありませんでした。長い人類の歴史の中で、人間のそういう態度も必要であったわけであります。

 此の子は葦船に入れて流し去てき。
「女子先に言へる」実相を生むことのない心の持ち方ではあるけれど、場合によってはそれも人間に有り得ることであるから。成り行きのままに、自然のままに世界に流布させた、という意味であります。「葦船に入れて」の葦船とは言霊五十音図のことであります。「葦船に入れて流し去てき」とは言霊図に照らし合わせて、それも人類全体の歴史としては必要なことである、と承知して世界に流布・教伝させた、の意になります。この事を日本書記には「故、天磐いはくす船に載せて、風の順に放ち棄つ」と書かれています。天磐いはくす船とは五十音言霊(磐)を組んで済ました図形の謎であり、言霊図のこととなります。言葉は心を運ぶもの、ということで船に喩えます。
 事実、水蛭子の思想が世界に「流れ去った」結果が、「母音を先に発音する」ことによって発生した東洋に於ける五行・五大の考え方、また禅の空の悟り、念仏やキリスト教に見られる個人の魂の救われを求める各種宗教の発生等であります。これからの心の持ち方が三千年の暗黒の予を支えて来たともいえるでありましょう。

 次に淡島を生みき。是も亦、子の例には入れざりき。
相対観、絶対観  水蛭子の次に淡島を生みました。これも心の先天構造の活動から正統に生れて来たものではないので「子の例には入れざりき」となります。さて淡島とはアとワの締まり、ということです。アとワ、主体と客体との対立から生れて来る心の現象とは何なのでしょうか。普通心の先天構造である天津磐境では、宇宙が分れて図のようになります。このことは今迄何度となく説明していました。初めに意識の萌芽とも言える言霊ウが生まれ、これに何かの思考作用が加わると、その瞬間に主体と客体、アとワに分れる、ということでありました。淡島とはウーア・ワの剖判ではなく、己にアとワに分れた所から思考が始まる心の持ち方の事を言っているのです。
 こうお話しますと、読者は前章の「思」と「考」の違いについての話を思い出すのではないでしょうか。そうです。アとワ、私と貴方との対立した所から心の作業が始まると、「神返る」の考える、という働きとなります。哲学的に言うと、正反合の弁証法思考です。私を「正」とします。貴方がそれとは違った立場に立っています。これが「反」です。この正と反との対立が起れば、当然この二つのものを統合して双方が容認出来る立場が要求として心の中に出て来ます。その終着点が「合」というわけです。
 学問の立場からは正と反の対立から合の結論を導き出すこと出来ます。けれども実際の生命現象や社会現象では、その終着点に行き着く道程は時と経過に委ねられることになります。マルクスの唯物弁証法は労働者階級と資本家階級との対立が闘争の結果、労働者の勝利に帰すると宣言し、その闘争は己に百年の歳月が過ぎました。にも拘わらずまだ決着がつかぬどころか、共産主義国家の崩壊が次々と起っているのが実情です。弁証法的な考え方には学問上の推理はあっても、その結果を招来する手段・経過の道即ち原因と結果を結ぶ懸け橋である八つの父韻の原理の自覚が備わっていない為であります。「淡島」の物の考え方に淡い望みの「淡」が使われている理由なのです。淡島が先天構造の原理から正統に生れた心の持ち方でない事がお分かり頂けたことでありましょう。