現代スサノウの言霊 

神々の生成(子音創生)

 既に国を生み竟えて、更に神を生みき。故、生める神の名は、大事忍男神。次に石土毘古神を生み、次に石巣比売神を生み、次に大戸日別神を生み、次に天之吹男神を生み、次に大屋毘古神を生み、次に風木津別之忍男神を生み、次に海の神、名は大綿津見神を生み、次に水戸神、名は速秋津日子神、次に妹速秋津比売神を生みき。

 先天である十七個の言霊が活動を開始して、現象の単位である子音を生もうとするに当って、先ずそれぞれの子音が心の宇宙の中に占める位置・区分を確定するために島(国)を生みました。そして「既に国を生み竟へて、更に神を生むこととなります。そして三十二の神々が生れます。そこでこれよりそれぞれの神の名の示す子音について説明して行く事になるのですが、その子音の説明を分り易くするために島々の示す心の区分と、人間の言葉がどのような経路で生れ発音されて来るか、という事の関連についてお話することにしましょう。
 人間の言葉の循環の順序に示す図を載せました。人が口に出す言葉はどのように生まれ、言葉として発音され、その結末はどうなるのでしょうか。
 先ず人間の頭脳の中枢に何かの力動が起ります。先天十七言霊の活動です。しかしこの先天構造の活動は「先天」と名付けられいますように、それだけでは何かが起ったとも何が起ったかとも意識出来ないものです。それが具体的に何を意図し、どんな言葉として発音されるか、また発音された言葉がどう処置され、意図はどう結末に行き着くか、ということは後天として現象の世界のことに属している、ということが出来ましょう。
 それなら人間が発言する言葉は現象(出来事)としてどんな経過をたどるのでしょうか。それは先にお話しましたように古事記は三つの段階がある、と教えています。津島・佐渡の島・大倭豊秋津島という三つの区分です。三段階は次のように示されます。
 先ず第一の段階では頭脳中枢に始まった力動が実際にはどんな内容の事柄なのか、という具体的な考えをまとめる段階です。頭の中で何かが起った。それが何なのだろう。「そうだお茶が呑みたい」のだ、と考えがまとまって行く行程です。この行程は一見単純で簡単な現象のように思われますが、精密に順を追ってみますと十の現象行程がある、と古事記は教えてくれます。それを言霊で表わしますと、「タトヨツテヤユエケメ」の十言霊となります。この十言霊の区分が津島だ、と古事記は教えます。また言霊の循環という立場から見ますと、この十言霊のことを未鳴または真名と呼びます。未鳴とは考えがまとまって行く段階で、まだ有音の言葉とはなっていない、という意味であります。これに対し先天の十七言霊を先天の十七言霊を天名と呼ぶことがあります。
 次の第二の段階は一つの考え・アイディアとしてまとまったものを、具体的な言葉として組んで行く行程です。「お茶が呑みたくなった。どんな言葉で誰に頼んで持ってきて貰うかな」と考えを言葉に組んで行きます。そして有音の言葉として発音されます。これに八つの行程があります。言霊で表わしますと、「クムスルソセホヘ」の八言霊です。この八言霊を真名と呼びます。またこの区分を古事記は佐渡の島と名付けました。
 そして最後の第三段階です。言葉は一度発せられてしまったら、動きはそれで終りといういう訳ではありません。「誰々さん、お茶を持って来てください」と発音されますと、その音声は空中を飛び(現代の通信・テレビ等に見られるように、電波や光波となって飛ぶ場合も同じです)、他人の耳で聞かれ、その人によって言葉が頭脳内で反省され、「ああ、こういう事をあの人は言ったのだな」と了解され、行動によって処理されます。その後、言葉は先天宇宙に帰り、記憶として印画され、言葉の循環は此処で終わります。
 以上の第三段階の行程は正確には十四あります。そのそれぞれの現象を表わす言霊は「フモハヌ・ラサロレノネカマナコ」の十四言霊です。この十四言霊のうち、フモハヌの四言霊が、発音された言霊が空中を飛ぶ状態です。これを神名と呼びます。
 次の十音ラサロレノネカマナコは有音の神名が他人(または自分)の耳の鼓膜を叩き、検討され、意味を了解され、一個の現象として終結する行程です。この十音はまた真名と呼ばれます。そして言葉の一循環が終り、元の天名に帰着します。そしてこの十四音言霊の区分を古事記は大倭豊秋津島と名付けました。
 以上、言葉の循環の場と、言霊とその区分である古事記の島の名との関連についてお話しました。ここで読者の中にはちょっと奇妙・不思議に感じられた方もいらっしゃるか、と思いますが、言葉が生まれ、人に聞かれ、検討・了解される言葉の循環の順序を表わす言霊の三十二個が、同時に生まれ来る後天子音言霊三十二個そのものである、ということであります。古事記はこの言霊が生まれて来る順序と生れて来る言霊全部とを同時に説いていることに気付きます。タトヨツテヤユエケメ・クムスルソホヘ・フモハヌラサロレノネカマナコの三十二子音は同時にその言霊が生まれて来る創生の過程をも示しているのです。このような不思議とも思えることも、人間の心と共に言葉の最終要素である言霊にして初めて成し得る処でありまして、こういう奇妙さを「言霊の幸倍へ」と呼んでいます。
 さて個々の子音とそれを示す神名の説明に入る前に、もう一つ前置きの必要なことがあります。今迄母音と父韻について度々解説して来ました。またそれについて言霊学ならずとも宗教や東洋の哲学でいろいろな説明もなされて来ました。けれど子音については各宗教でその存在を指摘されて来ただけで、その実態については何一つ説明がありません。子音とは何なのでしょうか。
 言霊子音とは現象の最小単位だと言うことです。物理学で言えば物質の原子に当る、ということが出来ましょう。子音は父母音の交合によって生れるのですが、父母音がそれぞれ分れば、それによって生れる子音はすべて説明されるか、というとそういう訳でもありません。人間の場合も父母の結婚によって子が生れます。その子は父と母の性質を合わせ持っていますが、それだけで子の性質の全てだとは言えません。子は父母から生まれ、そして父母から離れて独立した存在なのです。子は父母からだけでは説明できない何か、を持った第三者です。
 更に心の事で言えば、母音は実在、父韻は知性のリズム、共に先天構造の要素ですが、子音は後天的な現象です。現象とは一瞬々々変化して止むことのないものです。その現象の単位をどう人間が捉え、自覚し、説明すればよいか、難しい事となります。例を挙げましょう。善哉汁粉は小豆と砂糖と少々の塩で作ります。原料の小豆やその他のものは説明出来ます。作り方の説明も比較的簡単です。けれどその善哉の味を説明せよ、と言われたら正確にはどう答えたらよいでしょうか。それに似て現象である子音を捉えることは難しい仕事です。
 とは言いましても、子音説明のよすがとして古事記にそれぞれの子音を示す神様の名前が挙げられています。またその宇宙区分として島の名もあります。それらを頼りにすれば子音を自らの心中にはっきりと捉えることは不可能なことではありません。さあ、この二千年間、全く説かれることのなかった言霊子音の内容に探索の歩を進めることにしましょう。それはまた古事記と言霊学の奥の殿堂に入ることになります。古事記「神々の生成」の本文に戻ることにしましょう。

 既に国を生み竟えて、更に神を生みき。
人間の言葉の循環の図  生れて来る言霊が精神宇宙の中に占める位置・区分(国)を確定したので、次に言霊子音(神)を生んだ、と言う事です。そして次々に子音を表わす三十二の神々の名前が出現して来ます。その一つ一つについて順々に解説して行くことになります。

 大事忍男神
 言霊タ:それを指し示す神名の大事忍男神とは、大いなる現象として(大事)押し出して来た(忍)言霊(男)という意味です。前の父韻の説明の章で、父韻チとは「精神宇宙全体がそのまま現象となって現われる力動韻」と申しました。子音タは父韻チの力動韻をそのまま受け継いで現われた現象、ということが出来ましょう。
 自覚している、いないに関係なく、人間が一つの言葉を発するには先天構造の宇宙の十七個の天名言霊の力動がなければなりません。日常の生活の中では人はそのことを意識しません。けれど一度、人が絶対絶命の場面に立たされて、「身を捨てるこそ浮ぶ瀬もあれ」と決意した時など、この言霊タという現象そのものになるのではないでしょうか。大昔の人は大空に鳴り響く雷と同様に、人間の言葉も「神鳴り」である事を知っていたようです。正しく言葉は神鳴であり、大宇宙の振動なのです。
 先天宇宙が力動を開始して、先ず自らがそのまま現象子音タとして現れ出ます。心理学的に言えばその言霊タは人間の「人格の全て」と言う程の意味にとれます。古事記や言霊学では、それを田と表現します。何故田なのか、といいますと、次の通りです。人間の精神宇宙は五十個の言霊で構成されています。この五十個の言霊を以て人間の天与の性能を表わしますと、縦五個。横十個に並ぶ五十音表が出来上がります。人間の全人格はこの五十音言霊図で表わされます。五十音図は田んぼの形をしていますので、五十音言霊によって表現された人間の全人格を田というわけであります。古事記で「天照大神の耕していらっしゃる田」などと言えばその事を指しています。

石土毘古神、石巣比売神
 言霊ト・ヨ:石土毘古の石は五十葉で五十音言霊のこと、土は培うの意、毘古は主体のことで、石土毘古とは五十音言霊を育てるチイキミシリヒニの八父韻の実際の働きのことであります。八父韻の両側に言霊イとヰがついて、五十音言霊図の横の十音を形づくります。言霊トは十に通じます。言霊タとして発現した人間の全人格が一つの行動として言葉になって行く為に、先ず人間の創造の根本知性であるイ・チイキミシリヒニ・ヰのドア(戸)を通ること、とも解釈することが出来ます。
 石巣比売神の意志は五十葉で五十音言霊、巣は住家のこと、比売は秘めるの意で、石巣比売の全部で五十音言霊を秘めている住家という意味を示します。ウオアエの四母音の宇宙から全てのこの世の中の現象は現出して来ます。言霊ヨは四であり、また世の中にも通じます。人間の行為としての現象はウオアエの四つの次元から出て来る以外のものはあり得ません。先天宇宙が震動して、自らが言霊タと現象として現われたら、次にその言霊タの全人格を表わす五十音言霊図の横の列であるイ・チイキミシリヒニ・ヰの創造知性が働き、次にその知性の働きを言霊ウオアエの四つの宇宙次元が受け入れる、というメカニズムで先天構造の実際現象としての働きが始まります。タートーヨと続く子音誕生の最初の働きは以上のように解釈出来ましょう。
 石土毘古・石巣比売の言霊トヨは日本の古い国名であります豊葦原瑞穂国の豊であります。日本は言霊五十音の原理によって肇国された国であり、その原理の基本は言霊図の横十音(ト)と縦の列四音(ヨ)です。日本の古名の語源の一つともなっています。

大戸日別神
 言霊ツ:人間の言葉の循環の立場から見ますと、大戸日別神の大戸とは大いなる十の創造知性(父韻)の意で、日は霊で働きのこと、別は元の場所から離れて現われ出で来ること、となります。実際には創造知性の働きである言霊トが婚いとして言霊ヨである四つの次元宇宙に「ツ」と近づき進む様子を表わします。

天之吹男神
 言霊テ:天之吹男神の天は先天宇宙、吹は吹きつけること、男は主体でここでは父韻のことであります。実際には先天活動により父韻を四つの母音に向って吹きつける様子です。言霊テは人の手に通じます。言霊テはエ次元の言霊であり、選ぶ働きを持っています。父韻をウオアエのどの母音に手を指し延べて吹きつけるか、によって八つの父韻の配列も変って来ます。この次元による八父韻の配列の相違については後章詳しくお話いたします。

大屋毘古神
 言霊ヤ:大屋毘古神の大屋は大きな構造物、という意です。吹き出した父韻が母音と結び付いて、心の中に一つのイメージとしての形を形成して行く様子であります。

風木津別之忍男神
 言霊ユ:風木津別之忍男の風木津とは霊と体、主観と客観に別れる、の意。忍男は押し出す言霊ということ。神名全体で、心の中で次第に一つの考え・イメージとなってまとまって来た形が、矢張りその内容として霊と体、主観と客観という区別を失うことなく分け持っており、それが湯の如くに湧き出して行く現象という意味です。

 

海の神、大綿津見神
 言霊エ:大綿津見とは海(綿)に渡して(津)明らかになる(見)という意。心中にイメージが細い処を通って次第にまとまって来る。それは川の流れに喩えられます。まとまったイメージは言葉として広い所(口腔)に出て行く先は海に喩えられています。川から海への境の線が江です。

水戸神、名は速秋津日子神、妹速秋津比売神
 言霊ケ・メ:水戸は港です。速秋津とは速やかに明らかに渡す、の意。頭脳中の細い川のような処を通って先天の力動から次第に一つのイメージに考えがまとまり、集約されて来て、いよいよ海である口腔に行き着きました。そこが港です。そこからは考えが言葉で組まれます。言霊ケ・メは言葉に組まれる直前のイメージとして一つに集約される現象であります。ここでも言霊ケは気であり、霊であり、主体であり、言霊メは芽であり、眼であり、客体であり、霊と体を分け持っています。

津島またの名は天の狭手依比売
 以上お話しました大事忍男神より妹速秋津比売神までの十神、タトヨツテヤユエケメの十言霊の宇宙に占める位置・区分を津島と言います。津とは渡し場の意。先天の力動が現実に一つの考えにまとまって行くが、まだ言葉としては組まれない未鳴の期間であります。先天が言語に渡って行くまでの期間のことです。それはまた天の狭手依比売とも言います。先天から細かい処を通って、手さぐりするように一つの考えにまとめられるが、まだ言葉としては組まれていない、即ち秘め(比売)られている区分、という意味であります。
 なお此処で大変ユニークで興味ある事柄があります。詳しいことは他の機会にゆずりますが、簡単に触れておきましょう。それは私達が見る夢のことであります。私達が眠っている時夢を見ます。また覚めている時でも、将来ちょっと実現しそうにないような大きな希望として心の中に夢を画きます。この夢とは何なのでしょうか。日本語のそれぞれを造っている一音一音の言霊それを明らかに教えて呉れます。
 古事記では津島と呼ばれる心の宇宙の区分、それにはタトヨツテヤユエケメという十個の言霊が展開していることをお話して来ました。これら十個の言霊で示される行程を通じて、先天活動が現実の考えにまとめられて行きます。けれど言葉としてはまだ組まれていません。この十個の言霊のうち、終りの方のユエケメのユメの二つの言霊が私達の見る夢を作ることと深く関係しているのです。今は簡単にそう指摘するだけに留めることに致します。
古事記の文章に戻りましょう。島の区分から言いますと津島より佐渡の島に移って行きます。

 此の速秋津日子神、速秋津比売神の二柱の神、河海に因りて持ち別けて、生める神の名は、沫那芸神、次に沫那美神、次に頬那芸神、次に頬那美神、次に天之水分神、次に国之水分神、次に天之久比箸母智神、次に国之久比箸母智神。

此の速秋津日子神、速秋津比売神の二柱の神、河海に因りて持ち別けて、生める神の名は
 意識なされない先天の力動が、現実にタトヨツ…と十個の未鳴の現象を経て細い通路を通って一つのイメージにまとまって行きます。ここまでが川に喩えられます。そして速秋津日子と速秋津比売の言霊ケ・メに来て一つの考えにまとまります。次にこのまとまった考えが言葉と結ばれ、発音されて行く段階・過程が海です。頭脳内の細い通路(川)を通って、いよいよ広い海(人間の口の中)に出ようとしています。速秋津日子・速秋津比売、言霊ケ・メまでが河に喩えられ、これから生れて来る沫那芸神以下が海というわけです。

沫那芸神、次に沫那美神
 言霊ク・ム:先の先天構造の説明で、伊邪那岐・妹伊邪那美二神、言霊イ・ヰの婚い(呼び合い)によって現象がうまれる、と申しました。しかしそれは先天構造の内部のことで意識することの出来ないものです。沫那芸・沫那美の二神の活動は、先天の伊邪那岐・妹伊邪那美二神の目に見えない活動を受けて、後天界である現象に於いて吾と汝、霊と体、心と言葉を結びつける働きです。
 沫那芸の沫はア(吾)とワ(汝)であり、またアオウエイとワヲウヱヰであります。沫那芸の芸は気であり、霊であります。沫那美の美は身であり、体であり、音(言)です。沫那芸神・沫那美神、言霊ク・ムは吾と汝を、心と身を、そして霊と音を組み結ぶ働きと言う事が出来ます。まとまった心のイメージを実際に言葉に結び組んで行く活動です。

次に頬那芸神、次に頬那美神
 言霊ス・ル:前の沫那芸・沫那美、言霊ク・ムで霊と言が組まれたものが、この頬那芸・頬那美、言霊ス・ルで実際に発音される。実際の発音の働きであるを示すために頬(ほお)の字が使われています。沫那芸・沫那美と同じように頬那芸は霊を頬那美は体を受け持っています。言霊スは澄む・巣・住むで動作のない状態。それに対し言霊ルは流・坩堝等で動く状態を示します。
 頬那芸・頬那美の動きがうまく調和すれば物事はスルスルと運びます。頬那芸・スに片寄れば物事は停滞しますし、頬那美・ルに片寄れば事は性急に過ぎてしまうことになります。「立て板に水」の弁舌も言葉の節々に「間」がありませんと、言っている事となります。よい話術とは弁舌が滑らかであると同時に間の取り方が上手であることを条件とします。言霊ス・ルの御理解に役立つことができたでありましょうか。
 さて此処に言霊スが出現いたしました。この言霊スの御理解を頂けた事として、「古事記と言霊」という題でお話を始めました古事記の冒頭の文章「天地初めて發けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、…」の解説に一言付け加え度いことがあります。
 古事記の「天地初めて發けし時」とは、何一つ現象が起っていない心の宇宙の事でありました。その宇宙の一点に天之御中主神・言霊ウという、やがては意識の芽となるものが生まれ出て来ます。そして言霊ウから言霊ア・ワが分れて来ますその状況を図で示しますと図のようになりました。言霊ス(巣・澄)が明らかにされた今では「天地初めて發けし時」とは正しくそれが言霊スであることを確認出来ることになります。そこで図の宇宙剖判の最初の図は次の図に改めることが適当ということが出来ましょう。言霊スは何もない、のではなく、そこから一切のものが生れ出でるエネルギーで充満していながら、静かに澄んで動かない状態です。

天之水分神、国之水分神
 言霊ソ・セ:水分とは水配りの意です。心を言葉と結んで発音するためには水の補給が必要になります。天之水分の天は霊、国之水分の国とは体の事を指す謎であります。そこで天之水分とは発音する時に必要とする霊的・心的なエネルギーの補給と言った意味でありましょう。これに対し国の水分というのは体的エネルギーの補給の事です。具体的には発生時の口腔内の唾液なども一つの例でありましょう。実際に心の内容と言葉を結んで、それを他人に伝えようと発音・発声するためには、それなりの心的・体的なエネルギーを必要とすることは、日常の生活の上で素直に理解出来ることでありましょう。
 言霊ソは注ぐ・削ぐ・添える等の言葉で、また言霊セは瀬・急く・堰・責める等でそれぞれの内容の見当がつけられます。

天之久比箸母智神、国之久比箸母智神
 言霊ホ・ヘ:久比箸母智とは久しく(久)その内容(比・霊)が豊かに(母智)続く、という意味であります。ここでも天は霊で、国は体を示します。言葉は心と音の双方が結ばれて出来ます。発音された言葉は、その言葉の内容を何処までも持続し発展する、の意味です。言霊ホは穂・火・秀など、言霊へは山の辺・舳・凹等にみられます。双方共に先へ行って開く姿であります。

佐渡島
 以上、お話して来ました沫那芸神より国之久比箸母智神までの八神、言霊クムスルソセホヘの八個の区分を佐渡島といいます。先に述べました津島という区分で先天の活動が実際に一つの考えとしてまとまり、次にそのまとまった考えが言葉に組結ばれる行程が佐渡島であります。その行程を詳しく調べますと合計八個の言霊クムスルソセホヘの八行程である、というわけでです。これによって心が肉体の発声器官によって実際に発音されることとなります。
 佐渡島の佐は助ける、渡は渡すの意であり、佐渡島とは霊と体の双方の働きを実際の言葉として、実相として実現・創造する働きの区分、という意味であります。この区分の働きによってアイデアとしての真名の音声としての神名となって口腔より空中に飛び出して行くことになります。

 次に風の神、名は志那都比古神を生み、次に木の神、名は久久能智神を生み、次に山の神、名は大山津見神を生み、次に野の神、名は鹿屋野比売神を生みき。亦の名は野椎神と謂ふ。
此の大山津見神、野椎神の二はしらの神、山野に因りて持ち別けて、生める神の名は、天之狭土神、次に国之狭土神、次に天之狭霧神、次に国之狭霧神、次に天之闇戸神、次に国之闇戸神、次に大戸惑子神、次に大戸惑女神。
次に生める神の名は、鳥之石楠船神、亦の名は天鳥船と謂ふ。次に 大宜都比売神を生みき。次に火之夜芸速男神を生みき。亦の名は火之炫毘古神と謂ひ、亦の名は火之迦 具土神と謂ふ。

 ここに次から次にへと神々が誕生しますが、このうち、志那都比古神より大宜都比売神までの十四神が大倭豊秋津島と呼ばれる宇宙区分に属している子音言霊を指す神名であります。
 この区分の前の区分である佐渡島に属する言霊の働きで心と言葉が組み合わされ、発声器官によって発声された言葉が、空中を飛び、人の耳に聞かれ、復誦・検討されて「ああ、この事か」と了解され、言葉としての役目が完成され、再び先天の宇宙に帰って行きます。この過程を細かく観察すると十四の段階があり、そのそれぞれが十四個の言霊で表わされる、という事であります。たまその十四個の言霊のうち、初めの四言霊は発音された言葉が空中を飛んでいる間の姿・内容を表わしております。順を追って説明していきます。尚、最後に誕生しました火之夜芸速男神については後述いたします。

風の神、名は志那都比古神
 言霊フ:発音されて空中に飛び出した言葉は、もうそれで発声した人と関係がなくなるわけではありません。志那都とは志の内容である言霊(真名)がことごとく(那)言葉(都・霊屋子)として活動しています。風の神の風とは息のことでありましょう。言霊フはその心です。吹く・伏す・踏む…等に見られます。

木の神、名は久久能智神
 言霊モ:久久能智とは久しく能く智を保っている、という意。木の神の木は気であり霊を表わしています。言霊モは茂・盛る・森等に見られるように、茂り発展する形。発声されて空中を飛んでいる言葉は人間の気持を何時までもよく保持し伝えます。

山の神、名は大山津見神
 言霊ハ:山津見の山の語源は八間であります。創造意志である八つの父韻チイキミシリヒニが発現する形を図示しますと となります。この図の八つの間にそれぞれの父韻が入ります。その図の中心の点上に引き上げた立体図は山の形となるでしょう。山津見の津見は渡し現われる、の意。八間の中の父韻の働きが佐渡島の区分の働きで渡され、現われたものが言葉です。
 言霊ハは葉であり、言の葉と言うように言葉のことです。また言霊ハは端・橋・歯・肌・裸・這う等々に見られます。父韻ヒが「言葉の表現が宇宙の表面に完成する韻」であることを思い浮かべますと理解出来ましょう。
 山の神、名は大山津見神と初めに山とあるのは、言葉に霊波・音波の起伏があることを示しているのでしょう。その場合、波の高い所は父韻であり、低い所は母音である、ということが出来ます。中国の「老子」という本に「谷神は死なず」という文句があります。谷とは山の低い所のことで、母音を表わし、母音は先天宇宙の音であり、永遠の実在であり、変ることがありません。

野の神、名は鹿屋野比売神を生みき。亦の名は野椎神
 言霊ヌ:鹿屋野の鹿屋とは神の家である言葉の意で神名であります。真名が口で発生されて神名となります。その神名が空中に飛んで大山津見である言葉となる、山が終わって鹿屋野の野に下りて来た、と洒落た表現であります。山から野に下って、そこで人に聞かれることになります。耳の鼓膜を叩くので野椎の神とも言っています。言霊ヌは貫・縫う・温くもり等の言葉にみられます。

 以上お話しましたフモハヌの四音の言霊は発生された言葉が口腔を離れて空中を飛んでいる時の状態を表わしています。人の身体とは離れた外界のことでありますので、風・木・山・野の神として自然物の名が付いているわけです。この発声されて空中を飛ぶ時の言霊を神名と呼びます。そして耳で聞かれた、復唱され了解される過程で再び真名に帰ることとなります。
 言葉は人の口を離れれば、その生命が失われという訳ではありません。空中を飛んでいる時もちゃんとその内容・エネルギーは維持され、人に聞かれて影響を与えます。でありますから人間の精神生命の範囲とは言葉の及ぶ全ての処ということが出来、結局人間生命の存在領域は宇宙である、ということになります。決して一個の肉体だけに限定されているわけではありません。それでありますから宇宙の中に起る現象の全ては、言霊という観点にまで集約しますと、この話の中で述べております五十音言霊に還元して表現することが出来、残す所がないのです。

大山津見神、野椎神の二はしらの神、山野に因りて持ち別けて、生める神の名は、
 発生された言葉は空中を飛び、大山津見神で山を越え、野椎神となって野に下って来ました。そこで言葉が自分または他人の耳に入ります。聞かれた言葉はそこで次々に現象を生みます。それを言霊で表わしますと、タサロレノネカマナコの十言霊となります。

天之狭土神、次に国之狭土神
 言霊ラ・サ:狭土とは耳孔のせまい所の椎(槌)の意。天の霊を、国は音を分担していることを示します。言葉は耳孔の狭い所を入って行く様を言います。言霊ラは螺の字が示すように螺線運動のことです。言霊サは刺す・指す・差すが示すように一定の方向に向っての浸透状態であります。

天之狭霧神、次に国之狭霧神
 言霊ロ・レ:天之狭霧・国之狭霧の狭霧とは、言葉の霊と言とが霧のようなバイブレーションとなって耳の孔の奥へぐるぐる廻りながら入り込んで行く様であります。言霊ロ・レは共に螺線回転の状態です。

天之闇戸神、次に国之闇戸神
 言霊ノ・ネ:細い耳の孔の奥に入り込んだ言葉は、その霊と言の波動が闇がりの戸(闇戸)に突き当たります。聴覚器官の言です。そこで言葉は更めて復誦されます。言霊ノ・ネは宣る・音に通じます。有音の神名である言葉が頭脳内で真名に還元されるために、先ず音が宣られる事になります。言霊ノは宣る・乗る・退く等の言葉に、言霊ネは音・値・根・願う等に見られます。

大戸惑子神、次に大戸惑女神
 言霊カ・マ:古事記神代の巻の文章の中に著者太安万侶の頭脳の冴えは随所に見られますが、この言霊カ・マを指す指月の指として大戸惑という神名を当てた事などは、その冴えの一つでありましょう。正に絶妙と言えます。言霊カは掻き・掛く・借りる・貸す等に見られ、言霊マは巻く・混ぜる・丸める等で考えられます。有音の神名が耳で聞かれ、復誦され、入って来た言葉がどんな意味を持っているか、と頭の中で掻き混ぜられ、煮つめられます。カマ即ち釜は物を煮つめる道具です。その事によって言葉の内容が次第にはっきりして来て、有音の神名が再び真名に還元されて行きます。そして大戸惑子神は言葉の霊を、大戸惑女神言葉の言(音)を受け持っています。
 耳に入って来た言葉が言霊ノ・ネ(宣音)で復誦され、次に言霊カ・マでその内容・意味を「こうかな、ああかな」と大いに戸惑いしながら了解されて行く働きに対して、大戸惑という男女神の名を当てた事など誠に洒落ているではありませんか。

鳥之石楠船神、亦の名は天鳥船
 言霊ナ:言葉が頭の中で煮つめられ、「ああ、こういう事なのだな」とその内容が了解されます。了解された内容が「ナ」であり、名であります。「名は体をあらわす」などと申します。了解された内容がその事物の実相です。言霊ナは名前・成す・馴れ・萎える等に見られます。
 鳥之石楠船の鳥は十理の意です。ア(我)とワ(汝)との間に双方を結ぶ八つの父韻が入って現象子音を生みます。父韻は私と貴方との間を飛び交いますので、昔の人は鳥に喩えました。アとワと父韻で十数となり、現象を生む理となります。石楠は五十葉である五十個の言霊を組んで澄ますの意、すると五十音図が出来上がります。船とは五十音で出来た言葉を運ぶもの、御船代と呼びます。神社では神様を乗せる船と言います。鳥之石楠船神全部で「言霊の原理に基づいて五十音言霊図上で確かめられた物事の内容」ということになります。亦の名は天鳥船も同様な意味です。発音され、人の耳で聞かされた言葉の内容がここで確定・確認されます。このように発声され、ひとに聞かれ、その内容(ナ)が確認される時、初めて私と貴方との交渉で生み出された現象が、私と貴方とを離れた第三者である「子」としてその存在が確立されることになります。その「子」が次に生れます大宜都比売神即ち言霊コであります。父と母の間に生れた子が父母とは違う第三者としての存在となります。甲と乙との間で一つの契約が取り決められますと、その契約が返って甲と乙とを縛る存在となりますのも、その契約が甲と乙とを離れた第三者になったからであります。

大宜都比売神
 言霊コ:大宜都比売とは大いに宜しき言葉(霊屋子)を秘めて(比売)いる、という意。言霊子音のことであります。物事の実相であり、またその最小の単位のことです。
 伊邪那岐・伊邪那美の二神、言霊イ・ヰの呼び合い(婚い)によって私と貴方との間に交流が起り、現象を生みます。その現象の最小の単位となるのが言霊子音です。母音と半母音の交流は、その橋渡しの役割である父韻が母音に働きかける形となり、結局八つの父韻と四つの母音、八と四との相乗積で合計三十二個の子音が誕生します。父と母が呼び合って子が生れます。前にもお話しましたように、子音は父と母との結合によって創生され、父と母との双方の性質を受け持っておりますが、それでいて父と母からは独立した第三者としての存在です。主体と客体、心と体の双方から生れ、そのいずれとも違った実相(現象の姿)の単位であります。大宜都比売神・言霊コは現象子音であり子であります。その前に誕生しました鳥之石楠船神
言霊ナは子の内容といった意味を持っています。

 伊邪那岐・美の神の子生みによって誕生して繰る三十二の神々、即ち三十二の子音についてお話をして来ました。これ等三十二の言霊子音については数理的・概念的・比喩的な説明ならともかく、そのものズバリの指摘が行われますのは世界の歴史上ここに挙げます古事記ともう一つ日本書記があるに過ぎません。誇張でも何でもなくこの二千年の間、日本と世界の人々が物事の現象の最小の単位である言霊子音の説明に接することが出来ますのは、古事記(と日本書記)の「子生み」の文章以外には見られない重要な事でありますので、「子生み」の文章の要点をもう一度おさらいしておきたいと思います。言霊子音の解明は世界中の宗教書・東洋哲学の奥義・秘伝なのですから。

 古事記で「天つ神諸の命」といわれます先天十七神、十七言霊の活動が起り、それが一つの考えにまとまり(津島)、その考えが言葉に組まれて口で発声として発音され(佐渡島)、その声が空中を飛び、人の耳で聞かれ、復誦検討された後、「こういう事だったのだな」と了解され、心と言葉の循環が一段落して、言葉としての真名が再び最初の先天に帰ります。
 以上のようい一つの発想が言葉となって発声され、それが耳で聞かれ確認・納得されて初めて一つの出来事が決定されます。子である現象の実相が生れます。人間の心はこのように循環して現象を生みますが、この心の一循環を詳しく正確に観察しますと全部で三十二の行程があり、その一つ一つの行程が以上説明して来ました三十二の子音で示されるのです。
 人間の頭脳中に起った一つの発想が事実となって生まれるまでに三十二の子音で示される行程を辿る事はお分かり頂けた事と思いますが、その生れる事実(出来事)を構成する最小単位がまたその三十二の子音である、ということです。これは何とも奇妙で巧妙な事でありますが、全くの事実です。この奇妙であるが事実としてあること、これも心の最小単位である言霊にして初めてあり得ることであって、前にも申しましたように「言霊の幸倍へ」と呼んでいます。この言霊の原理の「妙」はしっかり御記憶願いたいと思います。

大倭豊秋津島またの名は天つ御虚空豊秋津根別
 以上発声された言葉が空中を飛び、耳で聞かれて確認され現象が確定するまでの心の区分、志那都比古神から大宜都比売神まで、フモハヌ・ラサロレノネカマナコの十四言霊の位置を大倭豊秋津島と呼びます。ここまでで五十音の言霊が全部勢揃いしますので大和(大倭)であり、それがすべて豊かに明らかに現われる(豊秋津)区分(島)というわけであります。それはまた先天から(天つ御虚空)豊かに(豊)明らかに(秋)現われた(津)音(根)の区分(別)でもありますので、天つ御虚空豊秋津根別とも呼ばれます。

言霊の幸倍へ 三題

「言霊の幸倍へ」という言葉が出ましたので、それに地なんだ三つの事を列挙しておきましょう。
 先ず第一には今迄説明して来ました、タトヨツテヤユエケメ・クムスルソセホヘ・フモハヌ・ラサロレノネカマナコの三十二音であります。物事の実相を構成する三十二の子音言霊の生まれ出て来る心の過程を、その生れ出る三十二の子音の配列によって示した言霊の妙であります。
 第二は世のいろは歌として知られています「いろは四十七文字」のことです。
 イロハニホヘト・チリヌルヲ・ワカヨタレソツネラム・ウヰノオクヤマケフコエテ・アサキユメシヱヒモセス
 このいろは歌は物事の実相の意味を考えることによって、その実相が生れる以前の宇宙(空)に帰る方法を明らかにしたものです。四十七の言霊を重複することなく全部並べることによって、その言霊が生れる以前の心の宇宙に帰る方法を示しました。麻邇(言霊)を以て麻邇以前に帰る途を示すという言霊運用の妙であります。
 第三は石上神宮(奈良県)に伝わる「府留の言本」と呼ばれる言霊の運用法です。
 ヒフミヨイムナヤコトモチ・ロラネシキル・ユヰツワヌ・ソヲタハクメ・カ・ウオエニサリヘテノマス・アセヱホレケ
 この歌は言霊四十七個を重複することなく並べることによって、古神道で言う禊祓即ち文明創造の政治の方法を説いたものです。言霊の原理の運用による歴史創造の心構えを言霊全部の配列によって示すという、言霊の幸倍へであります。
 以上言霊運用の妙を三題書きました。言霊の原理に通じますと、現代の常識を超えた霊妙な力が言霊布斗麻邇には備わっている、ということにお気付き頂けると思う次第であります。それぞれの詳しい説明は他の機会に譲ります。

火之夜芸速男神を生みき。亦の名は火之炫毘古神と謂ひ、亦の名は火之迦具土神と謂ふ。
 言霊ン:古事記神代の巻の天之御中主神に始まる神名が火之夜芸速男神に来て丁度五十番目となります。五十音言霊を示す最後の神名です。火之夜芸速男神とは、火は言霊のこと、夜芸の夜は夜の国、夜見または読みのことであり、芸は芸術のこととなります。全体で言霊の読みの芸術が早く示されている存在、という程の意味となります。これは正しく文字のことでありましょう。文字は言葉が眠っている夜の芸術です。
 亦の名である火之炫毘古神とは、文字を読みますと言葉となって脳裏に意味が蘇って来て、言霊が炫いているのが分りますから、その名があります。
 亦の名は火之迦具土神の火は言霊、迦具土とは書く土の謎です。昔五十音を粘土板に書き刻みましたので火之迦具土神と名付けました。この書き刻んだ粘土板を窯で焼いた素焼きのclay tabletを甕といいました。鹿島神宮の御祭神である武甕槌の神の甕も同じ意味です。甕の神は甕神で御鏡に通じることになります。大和三山の一つ、天の香具山の名は迦具土と同様、文字の意味を持たした象徴的な名前です。古事記にある「常世の国の香久の果」とは橘即ち蜜柑の古名と思われていますが、実は香久は迦具と同じで文字のことであり、常世の文字ですから漢字のことを指したものです。
 火之夜芸速男神と示された神代表音文字には数多くのものが作られました。そのそれぞれの解説は後章取り上げられます。
 火之夜芸速男神・言霊ンの出現によって五十音言霊のすべてが出揃いました。伊邪那岐・美二神の子生みの仕事はここに終り、次に生れた五十音を整理運用して、人間の行為の基準となる精神構造を作る作業が始まることとなります。