現代スサノウの言霊 

50音の整理・運用

 古事記の上つ巻には初めの天の御中主の神より三貴子と呼ばれる天照大神・月読命・須佐男の命まで丁度百の神名が出て来ます。この百の神名は人間の心に関する根本の道理百個を謎々の形で表現したものです。この道理を形の上で神社神道が表徴したのが鏡餅であります。
 鏡餅はご存知のように上下二段のお供え餅から成っています。上は心の構成要素である五十個の言霊を表わします。下の段はその五十個の言霊の運用方法五十を示したものです。上段は天の御中主の神・言霊ウより火之夜芸速男神・言霊ンまで五十個の神名で表わされました。下段は五十一番目の金山毘古神より百番目の須佐男之命までの五十の神名で示されています。
 前章までのお話で五十番目の火之夜芸速男神・言霊ンまでが出揃いました。鏡餅の上段が出来上がった事になります。そこで今度は鏡餅の下の段のお話が始まることになります。五十個の言霊をどう操作・運用して人間精神の究極の行動規範(鏡)を作って行くか、の問題です。それでこれより五十一番目の金山毘古神、五十二番目の金山毘売神…と話を進めることに致しますが、その話に入る前に重要な二つの事について申し述べておきたいと思います。
 人間の心が全部で五十個の言霊から成り立っていることは分りました。今その五十個の言霊を持って人間の行動の鏡となる精神構造を作ろうとしているわけです。ところがここでよく考えてみますと、言霊をもって鏡を作る道筋は、そのまま私達人間が日常に営む創造行為や世界的な人類文明創造の政治の方法ともなるものなのです。古事記の後章に出て来る「禊祓」とは言霊の立場からする創造行為なのであることがお分かり頂けることと思います。これが挿入したい第一の事であります。
 もう一つの事を申し上げましょう。前章「子生み」のお話で三十二個の言霊子音の一つ一つについて出来る限りその言霊に即して説明して来ました。子音言霊という現象の最小単位の内容に限りなく近づく努力をしました。けれど現象の姿を描写する形容詞や比喩の言葉・文章は現象の実相そのものではありません。矢張り種々の概念的説明と同様に「あれがお月様だよ」と指さす指月の指なのです。
 では現象の最小単位三十二の子音をはっきりと把握する方法はないのか、というとそうではありません。唯一つだけあるのです。これから検討を始めようとする五十音言霊の操作・運用による行為の規範(禊祓)の中に、心の中に鮮明に言霊子音の一つ一つが眼に焼きつく如く自覚されて来ます。人間の創造行為の言霊による鏡を作る作業の内に、個人が言霊を自覚する可能性が秘められています。これが是非前もってお話しておきたかった第二の事柄です。詳しいことは後章「禊祓」の章で申し上げることに致します。

古事記の本文にもどります。

 此の子を生みしに因りて、美蕃登炙かえりて病み臥せり。多具理邇生 れる神の名は、金山毘古神、次に金山毘売神。次に屎に成れる神の名は、波邇夜須毘古神、 次に波邇夜須毘売神。次に尿に成れる神の名は、弥都波能売神、次に和久産巣日神。此の神の子は、 富宇気毘売神と謂ふ。故、伊邪那美神は、火の神を生みしに因りて、遂に神避り坐しき。

此の子を生みしに因りて、美蕃登炙かえりて病み臥せり。
 此の子とは火之夜芸速男神のことです。美蕃登の蕃登は霊止で子の出る所。伊邪那岐・美の二神の夜這いによって己に三十二の子(子音)が生まれ、それを火之夜芸速男神・言霊ンで表音神代文字で表わし、全部で五十個の言霊が出揃いました。もうこれ以上の言霊は存在しません。もう子は生れません。伊邪那美命は子を生めなくなったのです。この事を最後に火之夜芸速男神即ち火の神を生んだので、子の出る所が焼けてしまって病気になった、と洒落れた表現をしたのであります。

多具理邇生れる神の名は、金山毘古神、次に金山毘売神。
 多具理とは今の言葉で嘔吐のことです。けれどここでははたぐり即ち多具理という謎。金山毘古・毘売の金は神名の事を指しています。言霊を粘土板に刻んだ迦具土を手で手繰り集めますと神名文字の山(金山)が出来ます。五十音言霊を整理するために、先ず五十音神名文字を全部集めた、ということです。金山毘古は音であり、金山毘売は文字のことであります。
 神社・寺院で供える鐘・鉦はすべてこの神名・神音を意味する謎です。

次に屎に成れる神の名は、波邇夜須毘古神、 次に波邇夜須毘売神。
 屎とは組素という謎であります。五十音を刻んだ粘土板(埴土・波邇)を集めて、それを一つ一つ点検して行くと、どの音も文字の正確で安定(夜須)している事が分った、ということです。この場合も毘古は音を、毘売は文字を意味します。
 神道では神主が唱える大祓祝詞や古事記の「天之岩戸」の章には「くそへ」「糞まり」という言葉が出て来ますが、ここに出しました「組素」の意味にとるとよく文章が通じます。大祓祝詞の内容は極めて難解に見えますが、言霊の見地に立って見ますと、全編の意味内容が明らかに了解出来ます。

次に尿に成れる神の名は、弥都波能売神、
 尿とは「いうまり」で「五埋まり」という謎です。五埋まりの五とはアイウエオと並ぶ五母音のことであります。先ず五十音を手繰り集め、一つ一つを点検し、次に整理のためすることと言えば、五つの母音を並べる事です。即ち「五埋まり」です。すると言霊アは天位として上に行き、言霊イは地の位で下にあり、その二つに挟まれた形で言霊オウエの三音が並びます。
 神名の弥都波能売とは「三つの葉(言霊)の目」という意の謎です。三つの葉とは天地に挟まれたオウエの三音のことを指します。日本書記には弥都波能売を罔象目と書いてあります。罔は網のことで、母音を盾に五つ並べてみますと、丁度網の象の目(罔象目)のようになっていることがわかります。

和久産巣日神
 和久産巣日とは枠結びということの謎。五十音を集め、一つ一つ点検し、次に五つの母音を並べてみて、網の目になっていることが分った。その網の目に合う様に五十音全部を整理して並べてみると、五十音が一つの枠の中に結ばれるように並ぶのが分った、ということであります。但しその結ばれ方の意味内容はまだはっきりと分らない状態です。「和久」は「湧く」ともとれ、まだ枠結びの内容が確定されない混沌さを持っている、の意を示しています。

此の神の子は、 富宇気毘売神と謂ふ。
 富宇気毘売神の富とは前にも度々出て来ましたように先天宇宙のアオウエの四母音とイ・キシチニヒミイリ・ヰのイ・ヰとそれに挟まれた八つの父韻を表わしてます。富で先天構造の意です。宇気はその先天(宇)の性質(気)の意。和久産巣日は五十音言霊図としては内容がまだしっかり確認されてはいないけど、それをそのまま活用しても(子とはその働きの意)先天宇宙の性質を秘め(毘売)られているから充分通用する、という意味であります。宇気は盃(入れ物)の意でもあり、和久産巣日(枠結び)の内容は確認されてはいないが、その整理は先天の内容を受け入れている、の意とも取れます。

吉備の児島
 以上五十一番目の金山毘古神より和久産巣日神までの座を吉備の児島といいます。五十音言霊の整理が始まり、全内容を確認したわけではないけれど、兎に角五十音を一つの枠に中に結んだ段階、ということです。吉備の児島とは「よく備わった締り、の意です。島に児がついているのが初歩の締めくくりであることを示しています。
 さて初歩的にではあるが、富宇気として先天の性質を受け持っているこの五十音の枠結びを天津菅曽は菅麻とも書き、先天・大自然そのままの性質の音図(すがすがすい衣の意)のことです。
 古事記の天之御中主神より火之夜芸速男神までの五十音が示す言霊五十音を金山毘古神から和久産巣日神までの六神の区分である吉備の児島と呼ばれる整理作用で天津菅曽という音図が出来上がりました。それは初歩的ではありますが、人間が自らの心を構成する要素である五十個の言霊を整理して作った最初の五十音図です。これ以後の五十音の整理検討の作業はこの音図によって行われることとなります。この音図即ち天津菅曽という音図は大自然そのままの人間の心、例えばこの世に生れたばかりの赤ちゃんに与えられる心の性能の構造と言ったらよろしいであようか。

故、伊邪那美神は、火の神を生みしに因りて、遂に神避り坐しき。
 この文章を文字通り神話として擬人法としてみますと、伊邪那美神は火之夜芸速男神(火之炫毘古神・火之迦具土神)という頭に火の字が付いている神を生んだので、「御陰やかえて病み臥せり」と病気になり、遂におなくなりになった、という意味になります。けれどその神話が示す原理が示す原理として見るとどうなるでしょうか。これは、三十二子音が生まれ、その子音を火の神である神代表音文字で表わして麻邇字が出来たので、伊邪那美神の仕事はここで一応終わったために、高天原という精神創造の世界の中の役目から去って行った、ということになります。
 この所をもう少し詳しく説明してみましょう。伊邪那岐神(主体)と伊邪那美神(客体)が感応同交して、その協力作業によって現象の実相である言霊子音を生みました。その子音は伊邪那岐・美の二神、父と母の性質を合わせ持ってはいますが、父と母とは別の第三者としての現象が生れてしまうと、そこで客体である伊邪那美神の仕事は終り、その子音を整理・吟味する仕事は専ら主体である伊邪那岐神のものとなります。
 卑近な例を挙げましょう。ゆで小豆を作るとしましょう。作る主体は人間、材料である客体は小豆・砂糖・塩などです。さて料理が終り、ゆで小豆が出来上がりました。出来てしまえば客体としての材料の小豆などの役目はそれまでで終り、その後の吟味である「うまいか、どうか」の判断はもっぱら主体である人間の役目です。当らずとも遠からずの説明だと思いますが、御理解頂けたでありましょうか。
 そしてこの整理作業は、後章でお話します禊祓の所でクライマックスに達する事になります。他方、伊邪那岐神との協同による創造の仕事を終えた伊邪那美神は高天原を去って、本来の自らの世界である客観世界(予母都国)の主宰者となって美神独自の仕事を開始することになります。即ち物質を自分の外側に見る分野、客観的物質科学文明の創造の世界の事であります。

古事記の本文にもどります。

故爾に伊邪那岐命詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命を、子の一つ木に易へつるかも。」と謂りたまひて、乃ち御枕方に匍匐ひ、御足方に匍匐ひて哭きし時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本に坐して、泣沢女神と名づく。故、其の神避りし伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき。

伊邪那岐命詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命を、子の一つ木に易へつるかも。」と謂りたまひて、
 伊邪那岐命は、それまでの創造のパートナーであった妻伊邪那美命を失って、悲しんで言いました「愛するわが妻、伊邪那美命を一連の子と代えてしまった」と。伊邪那美命を失って、その代りに三十二の子音が生れました。その三十二の子音を表音神代文字に表わした火之夜芸速男神・言霊ンを得ました。ですから子の一木とは言霊ンである神代文字の事を指します。

御枕方に匍匐ひ、御足方に匍匐ひて哭きし時
 先の五十一番目の神である金山毘古神から五十音言霊の整理作業が始まっています。この愛妻を失って悲しむ伊邪那岐命の行為も、実はその整理作業を謎で示したものなのです。整理作業は初めて手にした天津菅曽音図に基づいて行われています。御枕方とは音図を人間の寝ている姿に喩えますとア行に当ります。御足方はワ行を指します。御枕方と御足方を匍匐うというのは、音図のア行とワ行の間を行ったり来たりすること、です。
 哭きし時、とは声を出して見ることです。ア行とワ行の間を往来して、発声して見ると、どんな事が起るであろうか。

御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本に坐して、泣沢女神と名づく。
 香山とは書く山の謎。先に言霊ンの火之夜芸速男神と同様です。言霊五十音を粘土板に書き刻んで焼いた埴土の集り、それが今は最初に確認された天津菅曽という音図になっています。その音図の畝尾と言えばアからワ、オからヲ…に到る横の列(アオウエイの格段)のことです。
 悲しんでア行とワ行の間を往き来して、泣いた涙は畝尾の一番下のイ段に落ちます。するとそこに母音イと半母音ヰの間に展開している八つの父韻チイキミシリヒニが存在していること、そしてその父韻というのは泣き沢ぐ神(言霊)であることが確認されます。泣き沢ぎ、かしましいといえば普通女性を連想します。そこで泣沢女という女の字が附けられたのでありましょう。

小豆島を生みき。亦の名は大野手比売と謂ふ
 この泣沢女の神の座、即ち音図上に初めて確認した八つの父韻の締めくくりの区分を小豆島と言います。八父韻は音図上で小豆即ち明らかに続く気の区分であります。別名の大野手比売とは大いなる横(野・貫)に並んだ働き(手)を秘めている(比売)のいみであります。父韻は音図に於いて横に一列に展開しています。

音図上の八父韻の確認を泣沢女の神と呼んだのは何故か、もう少し詳しく説明してみましょう。
 泣沢女の神の泣沢とは泣き騒ぐ、の意味だと申しました。また鳴き騒ぐ、ととってもよいでしょう。その鳴き騒ぐ音とは図で示されます天津菅曽音図のイとヰの間に展開するチイキミシリヒニの八つの父韻です。父韻が鳴き騒ぐ音であるのに対し、それ自身決して騒がない音がアオウエイの五母音です。仏教ではこれを梵音と呼ぶように大自然宇宙の音です。この大自然の宇宙は、自らは決して鳴らないがそれに何かの刺激が加えられると、無限に現象の音を出すエネルギーに満ちておりますので、宇宙の音を「無音の音」などと呼ぶ事があります。
 この大自然の無音の音を言霊でアオウエイの五母音で表わしました。宇宙にはこの五母音しか存在しません。お寺の鐘を撞くとゴーンと聞こえます。でも実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけなのです。雨上がりの空に七色の虹が見えます。けれど実際には虹は七種の波長の異なる光波を出しているだけです。それが何故鐘がゴーンと聞こえ、虹が七色に見えるのでしょうか。同様にピアノは鳴っていません。唯空気の振動の波を出しているだけです。それが妙なる音楽に聞こえるのは何故でしょうか。
 鐘がゴーンと聞き、虹が七色に見、ピアノをポンと聞く現象の仕掛人、それが八つの父韻です。人間の創造知性であります聴覚や視覚のリズムとシンクロナイズする時、初めて現象が生れます。鐘の音を聞き、森の緑に心を癒す物事の現象を作り出す知性のヒビキは飽くまで主体の側の活動なのでありまして、客体の側にはないものです。鳴き沢ぐのは父韻であり、人間の創造知性の側の仕事であって、その働きの刺激によって宇宙である五つの母音から現象が出て来る、ということなのです。
 八つの父韻の確認を泣沢女の神と呼ぶ理由を御理解頂けたでありましょうか。

其の神避りし伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき。
 頭脳の先天構造のことを昔の言葉で真奈井と呼びます。真奈(真名)である言霊がこんこんと湧き出る井戸という意味です。その言霊が現われる原因である父韻(泣き沢ぐ神)の働きは頭脳から雲の如く出て来る様に感じます。出雲は出る雲の謎です。出雲の国とは父韻を表わします。伯伎とは母の木のことでアオウエイの五母音の謎です。聖書では生命の樹と呼びます。
 比婆とは霊の葉の謎です。言霊のことうを指します。言霊の中でも特に三十二の言霊子音を霊または光の言葉と呼びます。
 夫神である伊邪那岐神と協同で三十二個の子音を産み、仕事を終えた伊邪那美神の活動の名残なのだという意味です。

古事記の本文を先に進みましょう。

是に伊邪那岐命、御佩しませる十拳劒を抜きて、其の子迦具土神の頸を斬りたまひき。爾に其の御刀の前に著ける血、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、石拆神。次に根拆神。次に石筒之男神。次に御刀の本に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神。亦の名は建布都神。亦の名は豊布都神。次に御刀の手上に集まれる血、手俣より漏き出でて、成れる神の名は、闇淤加美神。次に闇御津羽神。

菅曽音図を基として五十音言霊の検討は更に進められます。一節ずつ説明して行きましょう。

伊邪那岐命、御佩しませる十拳劒を抜きて、其の子迦具土神の頸を斬りたまひき。
 迦具土神とは言霊ン(表音神代文字)を示す火之夜芸速男神の別名、火の迦具土神の事です。その頸とは組霊の謎で、霊である言霊を組んだもの事。これでは菅曽音図を意味します。今迄五十音言霊の一つ一つの検討が続けられて来て、これからはその五十音によって組まれた人間の精神構造全体についての検討が始まることになります。
 ここに古事記で初めて十拳の剣と言って、剣という言葉が出て来ました。古事記に於いても同様ですが、一般に神話や宗教書にある剣というのは、物体を斬る刀のことではなく、頭の中で物事の性質を検討するための天与の判断力の事を言います。この判断力は大きく分けて三つの種類があります。十拳剣・九拳剣・八拳剣です。
 ではここに出て来た十拳剣とはどんな判断力のことを言うのでしょうか。十拳とは握り拳を十個連ねた長さの剣という事ですが、勿論それは謎の言葉です。精神上の剣の場合、十拳とは十という数を示します。十拳剣とは物事を十数を以て検討する判断力のことです。十数で判断する、と言っても見当がつかないかも知れません。十数とはア・タカマハラナヤサ・ワと横に十個の言霊が並ぶ天津太祝詞と呼ばれる五十音図が後章登場しますが、その音図に示される精神構造に基づいた判断、ということなのです。後程詳しく説明されるでしょう。そして十拳剣は主として天照大神または伊邪那岐神が用いる判断力です。
 十拳剣で迦具土神の頸を斬った、ということは、表音神代文字で表わされた五十音図を十拳剣と呼ばれる人間の精神構造の判断力を以て、分析・検討を開始した、ということになります。菅曽音図を基として五十音言霊の検討は更に進められます。一節ずつ説明して行きましょう。

其の御刀の前に著ける血、湯津石村に走り就きて
 迦具土神の頸である五十音言霊の集りを十拳剣で分析・検討して人間の心の構造がどうなっているか、を調べる作業が始まります。御刀に著いた血とは分析して分った道理(血)ということ。御刀の前というのは、次の文章で「前」の次に御刀の「本」、御刀の「手上」と分析・検討が進展して行く様子を示すためです。
 湯津石村の湯津は五百個の謎です。アオウエイの五母音を基調とし、五十音を上下にとって作った百音図のことです。石村は五十葉叢で五十音図のこと。湯津石村全部で五十音図を指します。
 文章全体で、五十音の一つ一つの集りを分析・検討する主体側の心の構造とその働きが五十音図の構造と結び付き(走りつきて)、その関連で分析・整理・運用の道理が次第に明らかになって行く、ということであります。

成れる神の名は、石拆神。
 石拆は五葉裂くの意。分析の結果、先ず五十音言霊がアオウエイの五つの段階に分割されることが分った、ということです。言い換えますと、人間の精神宇宙とは五つの次元がたたなわっている構造をしていることが分った事であります。人間の精神に関する一切のものはこの五つの次元宇宙から現出して来るものであって、それ以外のものではありません。この「五葉裂く」の道理は世界の哲学・宗教の基本であります。
 この「五葉裂く」の道理は人々が会話する言葉に注目しているとよく分ります。心が言霊ウの次元に住む人同士の会話は各自自分が経験した事柄をその体験の順序通りに一部始終しゃべります。いきおい会話は長くなります。若い同志の電話の会話はその典型です。オ次元に住む人の会話には抽象的概念的言葉がやたらと出て来ます。社会主義新聞の論説などはその見本と言えます。言霊アの次元では詩や歌が、言霊エの次元では「かくすべし」の至上命令がその典型的言葉となります。言霊イの次元からは言霊が、そして他のウオアエの次元に住む人々の心に合わせた自由自在の言葉が出て来ます。

次に根拆神。
 根拆く、は音裂くまたは根裂くの意味。音ととれば泣沢ぐ音のこととなります。現在検討している菅曽音図は母音がアオウエイと並び、その根とは最下段の言霊イであり、音図全体で言えば八つの父韻のことです。現象を生む創造意志の原律である八つの父韻がどの様な順序で並んでいるか検討・確認される事であります。

次に石筒之男神。
 石筒は五葉筒または五十葉筒の意味。五十音言霊図は縦にも横にもそれぞれの列が一本の筒のように、人間の心が動く通路のように連続して変化・進展しているのだ、という事が確認された、ということです。天津金木音図を例にとりますと、五母音アイウエオも横の上段ア・カサタナハマヤラ・ワも一本の通路のように一定の内容を持って連続して変化・発展していきます。石筒之神と書かずに石筒之男神と男の字が付けられているのは理由があります。この事はすぐ後ろに出て来る建御雷之男神の項で説明します。

>次に御刀の本に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日神。
 人間の心を構成している五十個の言霊を検討して、先ず初歩的なまとめ方として和久産巣日之神(天津菅曽音図)を得ました。次にその初歩的に確認された音図を分析することによって伊邪那岐命自身の心の有り方を確認して行く事になります。
 「御刀の前」の次に「御刀の本」と分析・検討が進展して行く度合いを示します。そこで分った事柄が五十音言霊図(湯津石村)と比較・参照されて、心の構造の道理(血)が更に深く甕速日神と確認されました。甕速日神の甕はアイウエオ五十音を粘土板に掘り刻んで素焼きにしたもので言霊図を指します。速日の日は言霊の霊のこと、速日とはその言霊が言霊図の上でどの様な内容を表わしているかが一目で(速)分るようになっていることが確認された事であります。
 五十音言霊図を見るのに二通りの方法があります。その一つが甕速日とは言霊図全般の上で一つ一つの言霊の集りが何を表わしているかが一目で理解出来るように整理検討されたのであります。いわば言霊図の静的な状態に於いて検討した事と言うことが出来ます。静的な言霊図も検討といえば、天津金木、天津菅曽…等の五十音図もその例であります。

次に樋速日神。
 樋速日の樋は水を流す道具です。ですから樋速日神とは言霊図の上で言霊がどの様に連続しながら変化・進展していくか、が一目で分るように観察し、確認した事であります。甕速日の静に対し、樋速日は動的状態変化の確認ということが出来ましょう。人間の心を見るにも、心の全貌がどの様な状態になっているのか、という見方と、心がどう変化・連動しているか、を調べるという二つの見方がある事と同様であります。言霊の動的状態の検討といえば、先の「子生み」の章で見ました「タトヨツテヤユエケメ…」の子音が生み出るまでの心の働きの順序や石上神社に伝わる布留の言本「ひふみよいむなやこと…」等が例として挙げられます。
 ここに甕速日、樋速日と速日という言葉が出て来ました。速日と同じ意味の言葉に早振りがあります。言霊の立場で見ると、物事の性状・進展の内容が一目で分ることを言います。この事をまた「言霊の幸倍へ」ともいいます。

次に建御雷之男神。亦の名は建布都神。亦の名は豊布都神。
 建御雷の建は田気の意であります。田とは人間の人格全体を五十音言霊で表わした言霊図の事です。また言霊図は田の形に似ているので、言霊図の譬えに用いられます。田の気とは五十音図の気ですから言霊を指します。雷とは五十神土の謎で五十音を粘土板に書いたものです。
 雷は天がどよめき轟く自然現象です。ところが人間の言葉も心の先天(天)が活動すること(神鳴り)によって現われる現象であります。この神鳴り(雷)に五十個の要素と五十の基本の変化があります。この要素である五十個の言霊とその変化を点検して先ず初歩的な和久産巣日という五十音言霊図(天津菅曽)にまとめました。その音図を主体の判断力の十拳剣で分析・検討して行き、心の静的な構造(甕速日)と動的な構造(樋速日)が明らかに確認されたのでした。その結果、五十音言霊によって組織された人間の理想の精神構造が主体である伊邪那岐の命の心に完成・確認されました。この構造を建御雷之男神と呼びます。
 先にも出ました石筒之男もそうですが、建御雷之男神と共に「男」という字がついているのは何故か、ここど説明しましょう。初めに伊邪那岐命は妻伊邪那美命と共同で三十二の子音を生みました。それを粘土板に書いて火之迦具土神という神代表音文字を作りました。言霊を文字に表わした処で伊邪那美命である客体の役目は終わります。美命は客観世界に去り、五十音を点検・確認する仕事は専ら岐命(主体)の役目となります。そこで最初に手にした五十音図天津菅曽を主体の判断力である十拳剣によって分析・検討し、精神の理想構造として建御雷之男神を得ました。この原理はやがて言霊学の総結論である「三貴子」の大原理を生み、また天孫降臨に際して大国主命に国譲りを説得する原理ともなったものであります。
 但し、理想の精神構造が完成確認された、とは言いましても、それは飽くまで伊邪那岐命という主体の心の中だけで完成・確認されたのであって、それがどんな場合に適応・応用しても妥当である、という証明は得てはいません。そこで主体の中でのみの確認・完成された真理だ、という事を強調して主体を表わす「男」の字が付けられるという訳であります。
 この主観の中での真理が客観的・絶対的真理となるためには、その真理を客観的世界に投影・適用して、それが真理として適用するか、否か、を確かめなければなりません。その作業は後章「黄泉の国」と「身禊」のところで詳細にお話することとなります。
 建布都とは田気である五十音図を構成する言霊を運用して、都即ち理想の精神構造図を組織(布)したことの意。都とは言霊によって組織された理想の精神構造を意味すると同時に、その原理を運用する政治の府をも指します。豊布都の豊は十四で母音と父韻の先天構造の原理のこと、豊布都はその原理によって言霊を組織することの意であります。建布都・豊布都は共に奈良県天理市布留にある石上神宮の十種の神宝の中の神剣の名前でもあります。

次に御刀の手上に集まれる血、手俣より漏き出でて、成れる神の名は、闇淤加美神。次に闇御津羽神。
 心の中に建御雷之男神という主観的大原理を確立した伊邪那岐命は、その原理を物事に適応して真偽をを判断する方法の検討に入ります。その方法は二通りあり、一つは闇淤加美神であり、他の一つが闇御津羽神であります。
 十拳剣による分析・総合の検討が「御刀の前」「御刀の本」に続いて「御刀の手上」と進展して来ました。この時、血が「手俣より漏き出て」という一風変った表現を使いましたのは、出て来る神の名、闇淤加美・闇御津羽に関係しているからであります。以下説明して行きます。
 人間は宇宙の中に現出するあらゆる現象や、現象との間の関係を調べる手段として数を使います。その実体は先に伊邪那岐命が迦具土神の頚を斬った十拳剣といわれる十個の言霊です。主体アと客体ワとその間うぃ結ぶ八つの父韻合計十個の言霊です。でありますが、数として十の操作は手の十本の指を曲げたり伸ばしたりする動作によって行われます。この指の屈伸の動作を御手繰と呼びました。建御雷之男神という大原理を基本として、この御手繰の動作によって物事の道理が現われ出で来ることを「血(道理)が手俣より漏き出で」と古事記は洒落た表現を使ったのでした。
 御手繰には二通りの方法があります。一つは十本の指を曲げて行くことです。これが闇淤加美です。指を一つ一つ順に繰り(闇)噛み合わる(淤加美)の意であります。十本の指を次々に一二三四五…と折り曲げて行って最後に十本全部握り終わった時、物事の内容の全てを十数によって把握・理解した事になります。この形を昔幣(握手)と言いました。物事の全部を掌握した和の形ですから和幣とも書きました。
 迦具土神の頚を十拳剣で斬り、その構造を分析・総合して建御雷之男神という理想の精神構造を心の中に完成しました。この理想の構造を示す言霊図を基準として、宇宙の間の一切の現象を掌握しようとすることが闇淤加美神であります。物事・現象の実態である言霊と、それを操作運用する法を表わす数の理(この数の理を数霊と呼びます)の二つで事物を掌握する時、物事を最も簡単に、そして正確に把握することが出来たことになります。この事を古代神道は和幣と言いました。
 神社に神や布で作った電光形のものが飾ってあるのを御覧になりましょう。これを幣または御幣と呼びます。闇淤加美神の内容を示した謎であります。昔の子供はお金のことを「握々」と呼びました。お金とは世の中の生産物の価値を掌握したもの、という意味を表わしています。神前にお供えする社会の生産物を「みてぐら」(饌)と呼びますのも、それが勤労の結果を表わしているからであります。
 御手繰のもう一つ方法は闇御津羽であります。指を繰って(闇)生命の知性の権威(恵み)である御稜威(御津)を鳥の羽の広がるように現わし示す(羽)ということです。その操作は闇淤加美神とは反対に握っている十本の指を一二三四五…と順に伸ばし起していく事です。この操作を起き手と言いました。建御雷之男神という言霊図の原理を色々な現象に適応してその時処位に応じて処理して行く事であります。
 起き手は掟の語源です。闇淤加美神で掌握した生命の原理・法則を実際に「第一条和を以て尊しとなす。第二条…」(聖徳太子の十七条の憲法)の如く社会の法律として制定し、これを世の中の定めとして社会を運営して行くことであります。
 以上説明して来ました石拆神から闇御津羽神までの八神の名前が示している検討・操作によって主観内に於いてではありますが建御雷之男神という理想の精神構造を完成し、その構造図を基として事物の原理の掌握とその活用の方法(闇淤加美・闇御津羽)が確認されたのであります。

大島を生みき。亦の名は大多麻流別と謂ふ。
 石拆神より闇御津羽神までの八神の操作が心の中に占める区分を大島といいます。大きな価値・権威を持った心の締りという意味です。またの名前は大いなる(大)言霊(多麻)が流れる露・発揚(流)する心の区分、ということです。繰返して強調させて頂きますが、古事記の初めの天之御中主神よりこの章の闇御津羽までが示す五十音言霊とその操作によって、飽くまで主体内の自覚としてではありますが、言霊布斗麻邇の原理が建御雷之男神として一応の完成を見た事となります。この主観的に確立された言霊原理が、客観世界に投影・適用されて、その原理が主観的であると同時に客観的にも真理であることを確認する言霊原理の最終的行程は後章より始まることとなります。