現代スサノウの言霊 

禊(その2)

是に詔りたまひけらく、「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱し。」とのりたまひて、初めて中つ瀬に堕り迦豆伎て滌ぎたまふ時、成り坐せる神の名は、八十禍津日神。次に大禍津日神。此の二神は、其の穢繁国に到りし時の汚垢に因りて成れる神なり。

 

古事記に於いて「ここに詔りたまひけらく」と殊更に言葉を改める時は、行動の観点が変る事を意味します。伊邪那岐大神は、自らの心の構造であります天津菅麻音図(竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原)の立場で、心の中に斎き立てた建御雷之男神という音図が客観世界に適用して間違いないか、どうかの検討を始めました。その検討の初めは、禊祓とは人間に与えられた五つの性能の内のどの性能で行えばよいか、の確認です。

是に詔りたまひけらく、「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱し。」とのりたまひて、
天津菅麻音図  伊邪那岐大神の精神音図(図参照)を御覧下さい。その母音の配列はアオウエイと並びます。大神が言った「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱し。」の上つ瀬とは母音アより半母音ワに至る横の列の並びであり、下つ瀬とは母音イより半母音ヰに至る並びです。瀬とは川の流れのことで、生命の川とも呼ばれる事もあります。では「上つ瀬は瀬速し」とはどんな意味でしょうか。母音アの宇宙から現われて来る人間の精神現象は感情です。感情は自由であり、奔放ではありますが、ともすると激しすぎて何時もここに置いて物事に対処しようとしていたのでは、身の休まる暇がなくなります。「上つ瀬は瀬速し」です。
 では「下つ瀬は瀬弱し」とはどういう意味でしょう。下つ瀬である母音イの列は人間の意志発現の世界です。その法則が言霊原理です。人間の意志というものは、他の四つの性能ウオアエの底にあって、その四つの性能を刺激して現象化させますけれど、意志自体が表面に出ることはありません。やる意志はあっても、意思だけでは物事に対処するのに何も為し得ません。「下つ瀬は瀬弱し」であります。そこで伊邪那岐大神は上つ瀬でも下つ瀬でもない「中つ瀬」に入って行きました。

初めて中つ瀬に堕り迦豆伎て滌ぎたまふ時、
 菅麻音図の上つ瀬はア段、下つ瀬はイ段ですから、中つ瀬とはオウエの三段ということになります。母音オの宇宙から経験知、ウからは五官感覚に基づく欲望、エからは選択知(実践知)が現出して来ます。物事に対処して社会に生きて行くためには、まずこの三つの性能に頼ることが穏当です。
 そこで伊邪那岐大神はこの母音言霊オウエの三つの生命の川の流れの立場から、禊祓の行為を、心に斎き立てた建御雷之男神という主観的真理に従って進行させたのでした。

成り坐せる神の名は、八十禍津日神。
 さて、人間に与えられた五つの性能のうち、上つ瀬であるア段は人間の感性・感情です。この性能は自らが楽しみ、生命を謳歌して行くには誠に適した性能です。けれどこれで他人に対し、社会に対し、物事に処し、文化を創造して行くには適当でありません。しかしまた、この性能の純粋の発露は愛であり、慈悲です。分け隔てのない心です。この純粋な慈しみの心に立つと、物事の偽りのない真の姿(実相)をよく把握することができます(飽咋之宇斯能神)。
 そこで伊邪那岐大神が自らの精神構造の菅麻音図の中つ瀬オウエの三段の生命活動の瀬に立って、自らの心の中に斎き立てた建御雷之男神の音図をたよりに禊祓の法について検討する時、大神自らの立場の音図の母音の並び「アオウエイ」のうちのア段の働きの意味・内容がはっきり分って来たのでした。それを八十禍津日神と申します・
 八十禍津日神の八十は数字の八十ということです。八十とは何を意味するのでしょうか。少々難解ですが説明しましょう。天津菅麻の音図五十音を上下にとると図が出来上がります。全部で百音図です。この百数から宇宙である五つの母音・半母音の計二十数を引いた八十がこの八十禍津日神の八十なのです。それは現象として現われることのない宇宙を除いたこの世の一切の現象の数を表わします。
 では心の要素の全てを表わす五十音言霊を何故上下百数とするのでしょうか。哲学ではさぞ難しい説明になるのでしょうか、ここでは簡単に触れておく事に致します。この世の中の一切の出来事は、それを心の究極の要素である言霊の立場から見ますと、光明に満ちた、いとも合理的な社会なのです。しかし今の現実はとてもその様には思われません。合理的な事と不合理極まることが入交じって、一つの理論では到底見極めることが出来ない複雑怪奇なものに思われています。何故なのでしょうか。それは世の中を見る人が自ら勉強した経験知によって見て、それが世の中の実際の姿だと思い込んでいるからです。
 禊祓をする人の立場から見ますと、どちらが正しくて、どちらが誤っているか、ではなく、両方の立場を理解しなければ文明創造活動(政治)は実行出来ません。そこで言霊図をもって表わすこととなるわけであります。
 人間に与えられた純粋の言霊アの立場に立ちますと、社会の出来事の真実の姿は以上のように八十の究極の現象としてはっきりと看守することが出来ます。真実の姿を見極めることは、そのそれぞれをコントロールして、文明を創造して行く為には不可欠のことです。けれど「貴方の真実の姿はこれだよ」と相手に突き付けたのでは、コントロールは出来ません。「そんなに酒ばかり呑んでいては、貴方は近い内に死んでしまうよ」と患者に言う先の例の医師の態度がよくそれを示しています。相手は真実を知ることと同時に、その人にどんな言葉をかければ良いか、は別に考えなければなりません。
 禊祓を実行するために、人間天与の五つの性能のうち何に頼るべきか、という事に神関して伊邪那岐大神のア段に立って見ることが出来る八十の現象の実相をそのまま相手に向って表現し伝えることは、相手をきめるだけで適当ではない。それは「八十禍」である。しかし、その八十の実相を禊祓の実行の土台として見定めるならば、「八十禍」は創造の光(日)の言葉の中に渡される(津)事になるであろう。禊祓を行う伊邪那岐大神の心の構造に名付けられた天津菅麻という音図もア段の内容と働きの意義が、かくて八十禍津日神として規定されたのでした。

次に大禍津日神。
 八十禍津日神とは、禊祓の実行に当って言霊ア(感情)の受け持つ役割とその制限の確認であるのに対し、大禍津日神は言霊イのそれの確認であります。
 言霊イとは人間の創造意志発現オ宇宙です。意志という性能は人間天与の谷四つの性能、五官感覚による欲望(ウ)、経験知(オ)、感情(ア)、実践知(エ)を刺激し、発動させる原動力となるものですが、それ自体は現象となることはありません。「下つ瀬は背弱し」です。けれど人間の心の究極要素であるアイウエオ五十音言霊が存在する次元でもあるのです。この言霊の法則が存在しない限り、世界文明の創造のための外国文化のコントロールなど出来るわけのものではありません。と同時に、言霊原理の存在とその内容を披瀝し、説明したからと言って、諸文化のコントロールが出来るわけではありません。言霊の原理は禊祓のための大前提・基礎法則ではありますが、直接それを振りかざしてはならぬものです。意志は底に秘めるもので、意志のみの先走りは混乱の基となります。
 そこで言霊イというものの、禊祓に於ける意義・内容の効用と規制の確認が行われます。神名で表わすと大禍津日神という事になります。禊祓の実行のためには、その基礎法則として大いなるもの(大)、しかしそれを前面に押し立ててはいけないもの(禍)、そう規制することによって歴史創造の光となる(津日)働き(神)という意味であります。

以上、禊祓の実践に当り、伊邪那岐大神自身の心の構造に名付けられた天津菅麻音図上の言霊アと言霊イとの意義効用とその規制が確認されたこととなります。言霊アの純粋感情(感性)は、禊祓の対象となるものの真実の姿(実相)を見定める視点となる宇宙ではあるけれど、また言霊イの創造意志の言霊原理は禊祓の実践のための重要な基礎法則ではあるけれど、しかし、双方共その働きを直接禊祓の実行の前面に押し出すことが間違い(禍)であることが確認されたのでありました。

此の二神は、其の穢繁国に到りし時の汚垢に因りて成れる神なり。
文章そのままの意味としては、この八十禍津日神・大禍津日神の二神は、伊邪那岐命が妻伊邪那美命を追って、高天原以外の外国に行き、その発達途上の経験知に基づく学問・文化を体験して、その汚垢によって現われた神である、という意味です。汚垢とは気枯れの意で、真理そのものである言霊の原理が備わっていない、即ち気が枯れている学問・主張・文化ということ。
 では実際にはどうゆうことなのでしょうか。妻神を追いかけて出掛けて行った黄泉国では、伊邪那岐命は外国の色々な学問・文化に接しました。その学問・文化は私達の現在社会に見られますように、経験知によって一つの主張を否定し、それに代って自らの主張を積み上げて行く事によって築いて行く文化社会です。その基盤となる精神土壌は競争です。自らの主張の正当性を示すためには、他人より一歩でも多く歩かなければなりません。伊邪那岐命は黄泉国のこの闘争という処世術が横行する社会の文化を目の当たり見て、驚いて高天原に逃げ帰って来ました。黄泉国の社会は穢き(生田無き)繁き国であったのです。
 でも黄泉国外国は萌す(黄)泉の国でもあります。競争に基づいた完成されない混乱の学問・文化ではありますが、次から次へと湧き出る如く考案されて社会に登場してきます。高天原の精神文明以外の第二の文明である経験知に基づいた物質科学文明を人類のもう一つの文明として、これを摂取し、人類文明に同化して行かなければなりません。ただ「穢い」、「汚垢」とは言ってはいられません。それではどうしたらこれらの萌し現われて来る外国の学問・文化をコントロールして、世界人類の生命の糧として摂取して行くことが出来るか、の方法として、禊祓の法則の確立が必要となるわけであります。
 その禊祓の実践の方法の確立の中で、先ず言霊アと言霊イの意義・効用の確認と、その使用・適応の規制がはっきりと決定しました。外国の学問・文化の処理に当って、その実相を明らかにし、それのみで足れりとしてはならない(八十禍津日神)、またその処理に当り、コントロールのための基本法則となるべき高天原の言霊原理を、外国の学問と並べて論争の具としてはならない(大禍津日神)、という二点の決定です。それによって伊邪那岐大神の音図の上で言霊アと言霊イの意義が確立されます。「此の二神は、其の穢繁国に到りし時の汚垢に因りて成れる神なり」の意味をお分かり願えた事と存じます。

ここで一言復習をしておきたい事があります。それは伊邪那岐大神の天津菅麻音図と斎き立てた建御雷之男神と呼ばれる音図との関係です。禊祓の章以降は、この二つの音図の立場が織り交じって出て来ますので、更めてその意味を確かめておこうと思います。
 伊邪那岐大神は竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原即ち伊邪那岐大神自身の精神構造を示す天津菅麻音図の立場に立って禊祓を開始しました。そして自らの心の中に、先に自らの心の内に自証されている建御雷之男神という音図を斎き立てました。建御雷之男神とは、伊邪那岐命の所産である心の一切の要素、アイウエオ五十音言霊をどう整理構成して行ったら人間最高の精神構造を得られるか、を自らの心の内に追求して、自証的にではあるけれど結論として得られた音図です。
 そこで伊邪那岐大神は、自らの心の構造である天津菅麻音図の立場をふまえながら、その上に物事一切の整理のための音図である建御雷之男神の音図を斎き掲げて、その建御雷之男神という音図が、実際に黄泉国の学問・文化を整理することが出来るのか、どうかの確認の作業、即ち禊祓の実践に入ったわけです。
 伊邪那岐大神の菅麻音図とは、人間が授かった大自然そのままの心の音図です。その五つの母音は人間天与の五つの性能を示します。この五つの性能は、人間が生きて行く上で何が大切で、どれが大切でないかということはありません。すべて平等です。けれど外国文化の整理という事に関してはどうでしょうか。伊邪那岐大神は自らの心である菅麻音図についてア段の感情を振り返って、「上つ瀬は瀬速し」とその自由奔放な働きを思い、この感情作用で禊祓をしたら果たしてどうであろうか、と斎き立てた建御雷之男神の音図上で検討し、感情という性能は外国の学問・文化を整理する上で、基礎となる働きはあるけれど、それ直接では適当でない、という事を確認し、ア段の働きに八十禍津日神という名を付けたのでした。同様、人間の創造意志イの禊祓に於ける働きに大禍津日神として効用と適用制限を確認したのです。
 八十禍津日神も大禍津日神も、五十音言霊の整理の途上で生れた心的現象でありますから、言霊の神である伊邪那岐大神の子の中に入ることは当然であります。天津菅麻音図の観点に立ち建御雷之男神の音図を検討する禊祓とは以上のようなものであります。

次に其の禍を直さむと為て、成れる神の名は、神直毘神。次に大直毘神。次に伊豆能売神。

次に其の禍を直さむと為て、成れる神の名は、
 伊邪那岐大神は人間天与の五つの性能のうち、言霊アの感情と言霊イの創造意志の能力によって禊祓をしたらどうであろうか、を検討し、これら二つの性能が禊祓を実行するのに適当でない事を確認しました。そこで、それなら残された人間性能である言霊オ(経験知)、言霊ウ(五官感覚に基づく欲望)と言霊エ(実践英智)の三つの性能によってでは禊祓の実行はどうか、を建御雷之男神の音図上で検討し、これら三つの性能の働きならばいけるぞ、という確認を得たのでした。この三つの性能は伊邪那岐大神の音図、天津菅麻音図の中段「中つ瀬」にあります。

神直毘神。
 言霊オウエの三つのうち、言霊オの宇宙より現出する人間の経験知の働きが建御雷之男神の音図の上で、禊祓の実行に如何に役立つか、が確かめられた働きを神直毘神と呼びます。
 言霊オから現出して来る人間の経験知からは精神的・物質的な学問・科学が発達してきます。黄泉国から種々雑多な論説・主張が産出されて来ますが、それらの主張・主義・学問・文化を全て人類の知的財産として合理的に整理・整頓して行く働きが神直毘神なのです。

次に大直毘神。
 言霊オウエのうちの言霊ウから現出する人間の性能である五官感覚による現職、それに基づく欲望性能が禊祓の際に如何なる効用を果すか、が確認された事に対して大直毘神と名付けられました。
 人間の五官感覚に基づく欲望は果てしがありません。その欲望が組織化されて社会の巨大な産業・経済にまで発展して行きます。大直毘神とは、それら多岐にわたる人間の欲望活動の全体を合理的にコントロールして行く働きがあることを確認した事であります。

次に伊豆能売神。
 伊邪那岐大神の精神音図である天津菅麻音図の中つ瀬である言霊ウオエのうち、最後の言霊エより現出する人間性能、選択実践知が禊祓に於いて如何なる働きが出来るか、の確認を伊豆能売神と呼びます。
 伊豆能売神とは御稜威の眼の意味。御稜威とは大いなる人間創造生命活用の威力、といった意味であります。言霊エの実践英智に、外国の学問・文化を整理・コントロールして、人間生命の合目的性に添わせる働きがあることが確認され、それが斎き立てられた建御雷之男神の音図上ではっきり決定される時、この書の中で述べられます言霊布斗麻邇の原理の総結論となりますが天津太祝詞(音図)即ち人類文明創造の規範(鏡)である八咫の鏡と呼ばれる精神構造図が初めて完成されることとなります。その前提として、この禊祓に於ける言霊エ(実践知)の効用の確認を伊豆能売、御稜威の眼(芽)と呼ぶのであります。
 伊邪那岐大神の音図を形成します人間生命の五つの瀬(川)について、そのそれぞれが禊祓を実行する上で、適当か否か、の検討・確認が以上によって終りました。上つ瀬の言霊アが八十禍津日神として、下つ瀬の言霊イが大禍津日神として両方共不適当であり、中つ瀬を形成する言霊オウエがそれぞれ神直毘神・大直毘神・伊豆能売神として適格であることが決定しました。
 次に合格となったこれら三神が、禊祓の実践に於いてどんな内容の働きをするかの詳細が音図上で決定されます。この仕事を通じて、一気に言霊布斗麻邇の原理の総結論に突入することとなります。

古事記本文に戻ります。

 次に水の底に滌ぐ時に、成れる神の名は、底津綿津身神。次に底筒之男命。中に滌ぐ時に、成れる神の名は、中津綿津身神。次に中筒之男命。水の上に滌ぐ時に、成れる神の名は、上津綿津身神。次に上筒之男命。

三地点の禊

今までにお話ししましたように、禊祓の作業も最終段階に入って来ました。古神道言霊学でいう禊祓の意味を更に深く掘り下げて考えて見たいと思います。古事記神代巻が謎々の形で示す禊祓とは、現代の神社神道が行っている水浴びや滝に打たれて魂を浄化する個人救済の業ではなく、高天原日本の保有されている言霊布斗麻邇の原理による外国の思想・文化の整理の作業であることを先に説明しました。今は更にその整理作業がどんな立場から成され、どんな心の持ち様によって行われるか、を考えてみましょう。
 伊邪那岐大神の詔りたまひく「吾は伊那志許米志許米岐穢き国に到りて在り祁理。故、吾は御身の禊為む。」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に坐して、禊ぎ祓ひたまひき。
 古事記の禊祓の文章は上の様に始まっています。この時、古事記の文章の中の伊邪那岐大神という名前が初めて出て来る事は先にお話しました。伊邪那岐大神とは伊邪那岐神の単なる尊称の意味ではなく、主体的世界の創造神である伊邪那岐神が、客体的世界の主宰神である伊邪那美神をも包含した宇宙身、世界身の立場を示すために大の字を使ったのでした。この主体が客体をも含んだ姿を御身と申します。
 哲学的で少々難しい表現になりますので、具体的に説明しましょう。
 伊邪那岐命は妻神伊邪那美命との間に生れた五十音図言霊を、自らの心の内で整理して、主観的真理として建御雷之男神と呼ばれる音図を完成・確認しました。その後、妻伊邪那美命は黄泉国の客観世界の文化を建設しようと高天原を出て行きます。夫神はこれを追いかけて行き、黄泉国外国の調和のない雑多な文化を見て、驚いて高天原に逃げ帰ります。それを追いかけて来た妻伊邪那美命と道引の石をはさんで「言戸の度し」即ち夫婦離婚が宣言されました。伊邪那美命は黄泉大神として、外国の客観世界の文化建設の総責任者となって高天原から決別します。
 以上の経過の後、伊邪那岐命は伊邪那岐大神と変身し、禊祓をすることとなります。伊邪那岐大神とは、主観的真理の体得者である伊邪那岐命と、妻神の仕事になった客観世界の学問・文化の現実の体験者との両方を一身の中に併せ持った神、人間ということになります。
 伊邪那岐大神とは、五十音言霊で構成されている主観世界も我が身、次々と人間の経験知によって考案される物質的科学の客観世界も我が身、という主観・客観をひっくるめた宇宙世界唯一の文化創造者の立場ということであります。
 禊祓とは伊邪那岐命が主観的真理である五十音言霊の原理をもって、伊邪那美命の世界の客観的学問・文化を単に審判し、整理する、ということではなく、高天原に確立保存されている五十音言霊の原理も、次々に考案され提出されて来る外国文化も、人類文明創造上の自らの中に起って来たもの、自らの責任として、処理して行く事であります。この事がご理解頂けますと、伊邪那岐大神が禊祓の開始に当り、「吾は御身の禊為む」と宣言した事の意味が明らかになって来るでありましょう。
 自らの中に主観的真理を以て、自らの体験としての客観的学問を整理し、しかも如何なる場合にもその正当性が確立している文明の創造法則、それが現在進行中の禊祓の行法の中で確立されようとしているのです。

さて、古事記の文章の解釈を進めることにしましょう。

次に水の底に滌ぐ時に、成れる神の名は、
 外国の学問・文化を摂取して、これを人類文明創造の目的に添うようコントロールする、即ち禊祓をするには、人間天与の五つの性能のうち、オウエの三つの性能が適格であることが確かめられました。次に伊邪那岐大神のする仕事は、その適格であることを自らの天津菅麻という音図上で、言霊の動きとして、原理・原則を確立することであります。そのためには、外国の学問・文化を体験して来た自らの御身を、建御雷之男神の音図を鏡として禊祓することです。
 この時伊邪那岐大神は、水底・水の中・水の上の三地点で禊祓をします。言霊オウエの的確性の検討をするのですから、上つ瀬・中つ瀬・下つ瀬のうち、中つ瀬の水底・水中・水上ということになります。

底津綿津身神。
 伊邪那岐大神は人間天与の性能のうち、オウエの三性能が禊祓をする上で、適格であることを知りました。次にこの適格であることを自身の天津菅麻の音図上で確認する仕事に入ります。中つ瀬の底と言えば、エ段です。実践知です。この実践智が禊祓に於いてどう動くか、の確認が仕事です。言いかえますと、禊祓に於いて重要な働きをするだろうと期待される伊豆能売という人間性能を言霊音図上で確認することであります。
 底津綿津身神の底津とは、伊邪那岐命の音図の横の生命の川も中のオウエの三段の底であるエ段の流れは禊祓の時には何処から流れ出ているか、母音宇宙エから流れ出るのだ、ということです。底の津(港)の意。綿津身の綿は渡すの意、津身は流れ出で現われるの意。そこで底津綿津身神の全部で、水底であるエ段実践智の働きは、禊祓に於いて言霊母音エ(外国の学問・文化の真実の姿)より始まり、結論ヱ(それら学問・文化のあるべき処)に渡し働きがあることを確認した、ということであります。外国の学問・文化の整理コントロールに於いて、実践智エが提出された主張を確実に摂取して、その人類文明史上のあるべき処に収め得る力のあることがエ次元の流れの中で確認されたことです。

次に底筒之男命。
 底津綿津身神がエよりヱに渡す働きがあることの音図上の確認であるならば、エよりヱに渡すためには如何なる経過を辿ることになるのか確認、それが底筒之男命であります。現時点エより結果ヱまで音図上一本の筒またはチャンネルの形で導かれています。その筒は実際にどうなっているのでしょうか。建御雷之男神(天津太祝詞)の音図を御覧下さい。出発点エより終着点ヱの間に現象子音テケヘレネエセの八音が筒のように一筋に並んでいます。この八つの現象の経過を通って出発から結果に導かれます。この経過の全貌を底筒之男命と呼びます。
  普通、出発点から終着点にいたる経過を示す時量師神であるイ段のチイキミシリヒニの八つの父韻を使います。父韻とは人間が物事を創造する元となる原律であり、現象となる以前の働きです。ところが、禊祓に於いて言霊エの実践智が外国の学問・文化を一定の所あらしめる働きの経過は底筒之男命にみられますように、エ段のテケメヘレネエセの現象子音の八音で示されています。子音とは明らかに人間に意識出来る後天現象の最小要素のことです。
 古事記にはこの底筒之男命の他に、中筒之男命、上筒之男命と筒之男の命が三神出て来ますが、以上の事を理解しますと、禊祓に於ける行法の中のこの三筒の男の命の個所は、言霊の学問を学ぶ上で最も重要な段階の一つであることが自覚されて来ます。では何か。それは後天現象の最小単位である三十二の子音を知る、という課題であります。
 以前にもお話しましたが、人間の心を構成する言霊五十音のうち、アイウエオの五母音については概念的ではありますが中国やインドの哲学で五行・五大と呼ばれて説明がされています。また八つの父韻についても、易経で八卦と言い、その太正道とか、ドイツ古代哲学で、Funke(火花)等と呼ばれ、その存在が示されています。またその消息を遠くを見るようにではありますが、窺い知ることが出来ます。けれど後天現象の最小要素であります三十二個の子音については、今取り上げています古事記(日本書記)以外には古今東西如何なる宗教書、哲学書にもその実相に触れたものは全くないのであります。三十二個の言霊子音を知る、ということは人間の心の学問の中で最も深奥の、とっておきの奥義というべきものです。三筒之男命の段階はこの奥義の自覚の段階なのであります。
 先に古事記は「子生み」の章で、子音創生を大事忍男神・言霊タより 大宜都比売神・言霊コまでの三十二神名として謎の形で説いております。それは人間の思い(一念)が言葉として一瞬の内に精神宇宙を駆け廻り、発想より始まってその了解に至るまでの順序を三十二の子音言霊で以て示したものでした。その三十二子音を指し示したのは三十二の神名であり、神名はいわば概念であり、謎であり、指月の指に当るものでありました。その神名をいくら考えても、それが指し示す子音実相に近づくことは出来てもそれそのものに辿り着く事は不可能なのです。
 日本語は心と言葉の最小単位である言霊の組合せによって出来ています。私達が日常日本語を話す瞬間、またはその日本語を耳にする瞬間、その言葉はそれを構成している五十音言霊のそれぞれによって真の姿(実相)が指し示され、裏付けられています。けれど私達は普通その酔うな言霊の存在も、またその言霊が示す実相も意識し理解することがなく過ごしています。その普段には知ることのなく、理解することもない三十二の実相子音言霊を、禊祓の立場に立って、人類文明創造の行為を実行する時、その人の発する言葉を裏付けている実相子音が、実行者の心の内に、まさに心に焼き付く如く明らかに自覚・了解されるのです。現在お話申し上げている底筒之男である言霊エの実践智の活用に当っては、その実行者の側に、テケメヘレネエセの八つの子音の真の姿がはっきりと印画される如く汲取れる事となるのです。
 そしてまた、禊祓の実行者の発する言葉が、以上のように物事の実相を構成している実相子音に裏付けられているからこそ、その言葉は整理コントロールされる外国の学問・文化にとって主観・客観両面に共に真実であり、誤ることのない至上命令となる事が出来ます。
 三柱の筒之男命の段階では、子生みの章で神名として謎の形で示された三十二の実相子音が、初めて生きた人間の生きた心の要素として人間に意識・自覚される心の行法の過程という事が出来ましょう。筒之男命が神でなく命と表現されているのは、この子音の自覚が観念や概念としてではなく、実相として生きた人間の自覚としてのみ可能であるからであります。
 伊邪那岐・美二神の子生みによって生れた言霊五十音を、主観である伊邪那岐が整理して出来た理想の音図に建御雷之男神と名付けました。建御雷之神でなく、建御雷之男神と男の字が付けられた理由は、その神名によって示される理想の音図の真理性が、飽くまで主観の中でのみ確認されたものであることを示したものでした。底筒之男命の男も同様であります。一瞬の内に現われては消える光(霊駆り)である現象子音は、主観であると同時に客観である事実そのものでありますが、その実相は飽くまで主観の側に於いてのみ知り得る事でありますので、筒之男と男の字が付けられいるわけであります。この場合男は主観、女は客観を表わします。
 以上、禊祓における筒之男命の意味について、言霊子音の自覚という観点からお話をして参りました。私達が日常の社会生活を営む上で、物事の真実の姿、実相を見ることの大切さと同時に、その実相そのままの言葉を持つ事の仕合せを心の底から知ることが出来るのがこの三筒之男命の段階であります。

中に滌ぐ時に、成れる神の名は、中津綿津身神。
「中に滌ぐ時に」の中とは、中つ瀬であるオウエの内の中、即ち言霊ウの五官感覚の原識、それに基づいた欲望のことであります。この天与の性能が禊祓に於いて如何なる働きが出来るか、が岐の命の天津菅麻音図上で検討が始められ、出発点のウから終着点のウまで、物事の整理コントロールが着実に実行されることが確証されました。この確証を中津綿津身神と呼びます。
 中津綿津身神とは、中であるウ段の始めのウという港から(中津)、それを終着のウなる港に渡して(綿津)、結果を現わす(見)働き、という意味であります。それは先に説明しました大直毘神の働きの岐の命の天津菅麻音図上での確認ということが出来ます。

次に中筒之男命。
 中津綿津身神が、人間の欲望性能言霊ウが禊祓の際に果す役割を音図上に確認した事であるのに対して、次の中筒之男命はその働きが出発点ウから終着点ウに向って、一本の筒の如く、一つのチャンネルのような経過を経ることの確認です。その経過はウ・ツクムフルヌユス・ウの八つの現象子音で表わされます。
 また禊祓の実行の上で、この欲望性能の生産活動をコントロールする言葉を発する時、その実行者の心に内に、現象子音である八つのそれぞれの実相がはっきりと印画される如く了解されます。子音ツクムフルヌユスが自覚されます。

水の上に滌ぐ時に、成れる神の名は、上津綿津身神。
 水底の言霊エ、水の中の言霊ウが出ましたので、残るのは水の上の言霊オの働きの禊祓上の確認です。岐の命の天津菅麻音図上で、言霊オより発現する人間の経験知という性能が、外国の学問・文化を摂取して、これを人類文明を創造して行く上で、如何なる地位を与えればよいか、を決定する働きが可能である、ということを確認した事であります。外国の学問・文化の実相を出発点オとし、それが摂取されておさまる終着点をヲとする時、オよりヲにもたらす働きが備わっていることを確認したのでした。言霊オの出発点が上津であり、それを終着点言霊ヲに渡して(綿津)成立させる(見)働き(神)という意味です。

次に上筒之男命。
 禊祓を実行・可能にする言葉は、出発点オより終着点ヲまで、一定の筒のような、チャンネルのような一種の現象の経過を通る形を備えています。その一連の経過の確定が上筒之男命と呼ばれます。実際には、オ・トコモホノヨソ・ヲの現象を経ることになります。
 そして禊祓実行の言葉を発する時、その実行者の心底に八つの子音、トコモロノヨソの実相がはっきりと自覚されます。
 以上、底筒之男・中筒之男・上筒之男の三筒の男之命の確認によって、言霊子音、テケメヘレエセ、ツクムフルヌユス、トコモロノヨソの三次元の子音の自覚が可能になりました。この時、読者の中には、言霊子音は三十二個であるから、ア段のタカマハラナヤサの八音の自覚はどうなるのか、と訝る方もいらっしゃるかも知れません。その事について説明しておきましょう。
 禊祓とは、純主観の伊邪那岐命と純客観の伊邪那美命が一体となった伊邪那岐大神の仕事であることは前に説明しました。主観と客観が一つになったただ一つの宇宙身、伊邪那岐大神の御身の中に主観的精神原理によって、矢張り御身の中に建設途上の外国の学問・文化を、伊邪那岐大神が自らの体(宇宙身)を清めるという形で整理コントロールすることです。この時、次々と湧き出て来る外国の学問・文化を自らの内に起きる事実として、全てを受け入れ、慈しみと感謝の心を以てそれぞれの処を得しめるよう努力すること、これが禊祓です。「これは良い、これは悪い」の単なる批判ではなく、全てを生かそうとする心です。
 禊祓の実行の時、外国の学問・文化に対する土台となる心、そこに言霊ア段のアよりワに渡す八つの子音、タカマハラナヤサの認識・自覚が得られるのであります。

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此の三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神と以ち伊都久神なり。故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり。其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神なり。

此の三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神と以ち伊都久神なり。
 綿津見とは出発点より終着点に渡して現われる(見)という意味。阿曇とは明らかに続いて現われるの意で、綿津見は、阿曇は此処では略同義の言葉です。この古事記の一節から、阿曇連の一族は後世、外国の学問・文化の受入れとそれによって輸入される言葉を、言霊の原理に即って実相を表わす大和言葉に直す役目についていた人達であることが推測されます。太古に於いては、人または一族の名前とは、それが従事していた官職・使命を表わしていました。

故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり。
 底津・中津・上津の三綿津見神とは、それぞれ言霊エ・ウ・オの三性能が禊祓に於いて、外国の文化を処あらしめる創造の言葉の働きを確認することです。ですから、その神の子とは単なる神様の子というのではなく、その働きの応用・適応と言った意味です。宇都志日金拆命の宇都志は現、即ち現実の、の意。日は言霊、金拆の金は神名、折は咲かせるの意。宇都志日金拆命の全部で現実に言霊によって大和言葉を作り、世の中に流布する役目の人、ということになります。それ故、その人達の子孫である阿曇連の官職名が推測される事にもなります。

其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神なり。
 墨江の墨は統見・総見・澄見等の意。江は知恵のこと。三前とは、言霊学の、言い換えると古事記の総結論である三貴子が誕生する為の前提となる、の意。
 底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三神は、言霊学の総結論、人類知性の最高の規範(鏡)であります三貴子(天照大神・月読命。建速須佐男命)が誕生する前提となる神である、ということです。