現代スサノウの言霊 

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歴史とは

 唯今から日本と世界の歴史について話を進めることとするが、そもそも歴史とは何なのであろうか。  歴史は過去についての記述である。そうは言っても過去に起ったその日その日の出来事を唯羅列して行けば歴史が出来るというものではない。一人の人物の歴史にしても、唯その人の毎日の行為を羅列しても何の意味もない。行為には意図・目的がある。社会・国家・世界との関わりがある。その歴史の記述には歴史を書く人の判断がある。更に考えみよう。人の見たこと聞いたこと事等々すべての経験は頭脳に記憶として印画される。表面の記憶が忘れ去られると潜在意識に保存される。その人の記憶の総量は血筋として子孫に受け継がれる。かくて現在に生きる一人の人間の頭脳には人類始まって以来の出来事がすべて印画されている事となる。
 又こうも言える。過去は既に過ぎ去ったことで存在してはいない。将来は未だ来ないもので、これも実在するものではない。有るのは唯一瞬一瞬の今だけである。この今を古神道で中今(続日本記)という。人が何かをしようとする場合、この中今の中に観念的な記憶としてあるものの中から行為に必要なものを想起して、それを止揚し参考にし、再編成・再構築して一つの行為を創造して行く。どの記憶を取り出して、どの様に構成して行くかはその人の判断で決まる。歴史を書くにも同様記述者の判断が加わる。歴史が書く人の判断の基礎となる人生観の影響を受けることを否定することは出来ない。そこに問題がある。
 人間の性能には言霊ウオアエイ五段階の次元に発言する。歴史を書く人が上述の五段階のうちの言霊ウ・オ二段階の自覚しか持っていない場合、当然歴史は言霊ウオの次元即ち人間の欲望と経験知の二段階のみの見地より書かれることとなる。そして言霊アエイの三段階即ち芸術・宗教・道徳・言霊そのものという立場は無視されてしまう。一人間を描写するのに欲望と知識の見地からのみして、感情・道徳・意思の判断を無視するならばその人物描写は極めて偏頗なものになってしまうであろう。歴史の記述も同様である。戦前の歴史を又戦後のそれをも極めて偏頗なものたらしめている原因はすべて其処にある。言霊ウ・オ・ア・エ即ち人間の現識も経験知も感情も道徳智もそれぞれすべて人間の全人格即ち言霊イである生命意思に統括されているものとしての現識であり、経験知であり感情であり道徳地である筈である。一つ乃至二つの性能の独走の判断に基づく歴史に真実の歴史ではない。
 言霊五十音による人間生命の全構造が明らかにされた現在、日本のそして世界の真実の歴史を提示することが初めて可能となった。  万葉の時代を理解するためには万葉人の心に帰らなければならぬ。日本と世界の歴史を謝りなく伝えるためには人間の生命構造の全局の見地に立つことが必要である。この意味から人間生命の全体の学である言霊の原理に則った日本と世界の歴史の大略を提示することとしよう。