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競争が人格をかたちづくるのだろうか
…心理学的な考察

心理的な影響の問題は、経験的な研究ではことごとく無視されているが、生産性よりもはるかに深く関わりのある問題である。競争が有効であるという事を疑ったことのない人でも、競争が自分たちの周りの人たちにどのような影響をあたえるということになると、不安を感じるものである。実際に自分が選択しなければならない場面になると、ほとんどの人は、競争の激しい組織や活動を避けようとするだろう。アメリカ流の生活の「死に物狂いの競争」がどれほど心理的な犠牲をともなうものなのかを考えてみなければならない。
本章では、この犠牲について検討していきたい。考察してみればみろほど、競争が人を傷つけやすいものであることがはっきりする。競争の影響は、場合によっては気がつかないうちに浸透していることもあり、目につかないこともあるが、不健全なものなのである。もっとも、競争がもたらす結果について考察するより、原因を探ってみるほうが賢明である。

なぜ競争するのか

他人を失敗させてまで自分が成功しようとする理由は、きわめておおく、いろいろかさなりあっている。社会学者や人類学者は、文化的な規範という観点から説明しようとする。こうした規範が、構造的な競争として固定化されてしまい、硬直したものになってしまうために、競争を伴わない選択の機会が職場や教室や遊び場から消えてしまうこともある。こうした構造化された競争もまた、態度や信念を形作り、意図的な競争を助長していくことになる。それに対し行動心理学者は、規範よりも、競争を好むように訓練する具体的な方法に関心をよせる。競争を好む態度をとることによって報酬を受けたり、また、他人が報酬をうけるのを目の当たりにすることもある。この組み合わせが効果的な学習プログラムを生み出すのである。つまり、競争的な行動をするのは、競争的にふるまうように教育され、まわりの誰もがそうしているからであり、競争をやめようなどと思いもつかないからである。されにアメリカの文化に於いては成功するためには競争することをもとめらているように思えるからである。
精神分析学者は、人間が自分の行動をどのように考えるかについて計り知れないほど貢献してきた。精神分析のおもな貢献のひとつは、無意識のうちに願望や不安を反対のものに置き換えてしまうという考え方である。敵意の感情が受け入れられなければ、その感情は、過剰な関心におきかえられることもある。危険なほどの魅力は、極端な険悪感となってあらわれることもある。こうした倒錯現象を理解してはじめて、深層心理学の遺産を手に入れることができる。つまり2つの相反する行動について、その背後には同じ原動力がひそんでいると考えるのである。
この現象は、自尊心の場合に顕著にあらわれる。Aは、普段は自分の才能や業績の事ばかり話題にするため、うぬぼれが強いと思われる。それに対し、Bは、自分のやろうとすることはなんでもうまくいかないと思いこんでおり、ほとんどなにもできなくなってしまっている。ポスト・フロイト世代なら誰でもそう考えるように、二人ともさほど自尊心がないのである。
自尊心という概念は、人間がなぜそうよう行動をとるのかを理解しようとする際にとても役に立つ概念である。自尊心を強調することは、自分自身に対するゆるぎない尊敬と信頼を示しているのであり、自分自身の価値を永遠に、根底的にうけいれるという表現なのである。理想的なのは、自尊心が強いだけでなく、無条件のものであることである。自尊心が無条件のものであれば、他人に認めてもらう必要もないし、後悔するようなことをしてしまっても自尊心が崩れることもない。自尊心は、生活を築く核となり、土台となるのである。
逆に、精神的な障害のもとになるもので広範にみられるのは、自尊心の欠如である。心理学者のカレン・ホーナイは、あらゆるノイローゼが自分自身にたいする「根本的な信頼」の欠如によるという観点から論じている。
競争を行うのは自分の能力にたいしていだいている根本的な疑いにうちかとうとするためであり、そして、最終的には、自尊心の欠如をうめあわせするためである、という命題を提起しておく。
文化は、みずからがかかえる問題に対処するためのメカニズムを備えている。アメリカの文化においては、人生がゼロ・サム・ゲームであるという前提と強く結びついているため、競争がその主要なメカニズムのひとつとされているのである。競争は、アメリカが選んだ代償充足のメカニズムなのである。すなわち、自尊心が欠けているのは、競争を行うための必要条件ではあるが、十分条件ではないのである。競争を構成する要素には、自分を確証したいという欲求と、他人を犠牲にしてもそうすることを是認するメカニズムとが含まれている。
確かに、勝ちたいとという欲求が、他人より強い人がいるということを軽視してはならない。その人は、自分が耳にする状況や出会いを競争という観点から解釈する傾向があるだろう。他人も自分と同じくらい競争的であり、敵対関係が世の中の習わしであり、自分の地位は常に危機に瀕しているのは当然だと考えるのである。とくに死に物ぐるいであればあるほど、また自尊心がなければないほど、問題は悪化するのである。
最後に、勝ちたいという欲求と負けることへの恐れはともに、ほとんどの競争が人前で行われるということによって油を注がれることに注目すべきである。それは、勝利と言う単純な事実ではなく、自分自身に対する懐疑を克服するために持ち出される、自分の優位性についての思い入れでもない。それは勝利が注目されているのだという事実なのである。もし競争の目的が自分自身について安心をえることなら、そこに辿り着くための手段は、他人からの是認してもらうことである。たんに勝つことだけでなく、勝つことによって他人から受け入れてもらえること、これが競争の魅力なのである。

勝利、敗北、自尊心

競争的であることは、心理学的にみて建設的な力をひめているのだろうか。競争という行為は、その行為のもとになる不安定な自尊心を強化することになるだろうか。
自分の属している文化の規範に基づいて行動すれば報酬が得られるという単純な理由のおかげで、規範にそって生活するという効果が生じるのかもしれない。われわれは、自分が期待されていることを行うとき、気分がいいと感じるのである。アメリカ社会において期待されているのは、競争することなのである。競争することが規範になっていないところでは、このような効果は生じないであろう。不幸なことに、競争の力学は、自尊心を支えてくれるというよりも、蝕んでしまうのであり、まったく逆の結果をもたらしてしまうのである。
協力は、明らかに自尊心をたかめるのに役立つが、競争は、それとはまったく逆の効果をもたらすことが多い。理由は強力には、能力を共有することが含まれるのだから、より生産的な仕組みになっているのである。第二に、協力し合えば、互いに相手に対する魅力を感じるようになる。自分の成功と他人の成功にプラスの関係があるならば、人々は、自分には価値があるのであり、尊重されると感じるのである。
自尊心があるかどうかにかかわりなく、どんな人でも負ければ動揺するということである。競争が、ある程度は常に人の心を傷付けるものなのだと考えられる理由もここにある。
第一競争によって得られた成功は客観的に見て究極のものなどありえないのである。
第二に、勝利することによって特殊な能力があることを誇示することができたとそても、限界があるということである。
わくわくする勝利感などというものははかないものでしかない。しばらくのあいだは喜びでいっぱいで目もくらむような思いがするかもしれないが、まもなく夢からさめて現実に戻っていく。実際、定期的に競争を行う立場にある人々は、勝利のよろこびのおおきさも、持続する時間も、時がたつと急激に減少してしまうと報告している。
この高揚感は麻薬中毒ととても良く似ているものがここで作用しているのである。

心の傷を不定すること

競争が避けられないものであり、能力を発揮する機会をたかめてくれるのだと経験的に主張されても、われわれにはあまり関係ない。そうした議論は、まったく知的レベルでおこなうことができるだけなのである。しかし、競争が心理的に有効であるという主張は、たいていの人々がいだいていると思われる直観的な認識とはあいいれないのである。ここで述べているような分析はもちろんのこと、競争が自分にどんな影響をおよぼすのかということについてはっきりと自覚できるにもかかわらず、競争がもたらす影響は建設的なものだと執拗なほど主張している人々もいる。何か恐ろしいことに身をさらして、心が蝕まれてしまうような性格の特性を内面化してしまっているという恐ろしい認識から逃れるためには、どんなに自分の信念をごまかしてしまうのかをはっきりと示す例もある。
競争は自尊心を傷つけることもあるかもしれないが、いつもこうした影響をあたえるわけではないとして、もっと穏健な見解を取る人たちもいる。哲学者のリチャード・W・エッガーマンは、この点にかんして3つの論点を提出している。
第一に、競争は、子供たちだけに有害なのかもしれないと主張されている。子供たちにとって有害なものにしている自尊心の力学は、成長していくにつれて脱却できるような性質のものではない。そして、協力の長所はさぐる
研究は、「学生たちと同じように、大人にとっても説得力のあるものなのである」
第二に、エッガーマンは、精神不安だとか、あるいはノイローゼの競争者に対してだけ競争が心に傷を負わせるのだと強調する。いいかえれば、問題は、競争そのものあるわけではなく、一人一人の人間の側にあるということになる。
互いに排他的なかたちでしか目標達成することができないという構造そのものに問題があるという事を認めなければならない。
第三に、敗北は失敗として経験されてもいいのだというものである。彼によれば、こう言えるのは、何よりも「自分が勝つとそれなりに予想することができる場合にだけ、負けることが、失敗を意味する」のだからなのである。勝利することを期待しないで参加する競技もあるのは確かである。しかしそうした競技がどれくらい必要なのかということである。ほとんどの人は、勝利する可能性がはっきりと予測でき、そのことがはっきりしている分だけ、負けてしまうと傷ついてしまうような競技に参加するのである。
敗北が問題ではないと自分にいいきかせ、また子供たちにいいきかせてきたところで、せいぜい自己欺瞞の訓練ぐらいにしかならない。
学校は、建前としては協力を『促し』、…うらでは競争を『大目に見る』というディレンマに直面することになるのである」七〇年代には、さらに別の社会科学者たちが、「協力的な行動を奨励するのは、道徳的な格言にどどめられ、…アメリカ社会において学校や他の教育機関が競争的な行動を行っていくことに焦点をあわせている」という状況がひきおこしている「ひどい精神分裂状況」を描きだしている。
いつでも成功できるわけではないということを認識するのは、確かに価値がある。だれでも内面的な障害や、外的な障害に突き当たるわけであり、人生においてはこのことが真実なのだということをはっきりと自覚することが大切である。自分が全能であるといった幻想など、幼児期にほうむりさられるにこしたことはない。しかし、人によっては、行き過ぎてしまい、自分がもっと耐えられるのだと思えるようにするために、失敗をロマンチックにとりつくろってしまうこともある。この傾向は、苦痛が有益なものだと勝手に納得しようとするのと同じ欲求を意味している。
失敗を経験することがすこしは有益だと認めるにしても、肝心なのは、この失敗を経験することには競争におけて敗北することが含まれる必要はないという事である。競争によってもたらされる損失は、とくに不健全な失敗であり、自分が他人よりもおとっているというメッセージを含んでいる。さらに、あきらかにほかの人々の判断に自らをさらし、恥辱をうけなければならないような失敗なのである。

競争の不安感

競争の自尊心にたいする影響はおおきいけれども、それだけで、競争が心理的にもたらす結果がどのようなものなのかについていいつくされるわけではない。この説では、自信のなさと不安感の問題を考察し、次節では、さらにほかの問題について論じてみたい。
多くの心理学者は、人間がもっとも望ましい状態で生活を送るには、自分が生きている世界について安心感をいだいていること、すなわち、この世の中で安全なところであり、自分の欲求が満たされるだろうという信頼感をいだいていることが前提となると強調している。「外的な世界」に対する信頼は、自分自身にたいする信頼と密接に結びついている。
競争をしていく過程で安心感がもてなくなってしまうことがあることは、競争をした経験のある人ならだれにとっても明らかである。
競争が生産的であることをさまたげる理由の一つは、競争することが不愉快であるというだけでなく、おおきな不安感を抱くきっかけになるということが、ある研究によって明らかになった。
競争のおかげで、自信のない、不安な状態にさらされてしまうという理由を三つあげることができる。第一は、負けるのではないかという不安にとらわれてしまうことである。
不安感をいだく第二の理由は、勝利することができるのではないかと思う気持ちにかかわるものである。有能な競争者が、まさに勝利をえる寸前で、自分のミスで失敗することも珍しいことではない。これは競争者が、ほかの人々を敗北させてしまうことに罪悪感を抱くことであり、過去において他人を打ち負かしてしまったことにたいし自分を罰するか、あるいは、現在において他人を打ち負かしてしまうのを避けるための処置をとるのである。
また勝利者は、自分がうちやぶる人々にたいして敵意をいだくようになるのを恐れることもあるという事である
不安感を引き出すのは、競争の力学そのものなのである。そして、この点において、敗北するかもしれないという恐れや勝利することに対する恐れとならんで、他人との関係がうまくいかないことからの生じる不安感が、競争が不安を生み出す三つ目の理由なのである。
精神分析家のロロ・メイの評価は、競争が不安を生み出す理由は、ノイローゼの人々の特殊な精神的な病理にあるのではなく、むしろ競争的な個人主義が持つ本質そのものにあるのである。そうした個人主義は、アメリカ社会をはっきりと特徴づけるもののひとつだと考えられると言っている。この競争の哲学は、「共同体で生活した経験があるということが不利に作用するのであり、共同体が失われてしまったことが、現代において不安が生じるおもな要因なのである」。人々が互いにライバルなのだと定義づけられるとすれば、共同体の全体をおおいつくすような感覚をつくりあげたり、他人との間に一定の誠実な関係を形作ることができなくなってしまう。
さらに、メイは、この過程について別の角度からも論じている。競争に関する例外のおおくの側面とおなじように、不安感も悪循環をなして作用するというのである。
要するに、安心感は、健全な人間の発達にとってきわめて重要なものであるが、競争が禁じるのはまさにこのことなのである。われわれは、敗北することに不安をいだき、勝利することによって心を乱され、他人との関係に競争がおよぼす影響、すなわち敵意、妬み、非難の気持ちを含むような影響を及ぼすことにかんして恐れをいだくのである。
過剰な競争社会においては、競争することにごく自然に抵抗するのは、弱さの表現であると特徴づけられる。戦争を行うことに夢中になっている国家においては、相手国の人々を殺すことを嫌がっているようにみえる兵士は、同じように、正常にもどれる心理療法をうける候補者だということになる。この例は、こじつけではない。なぜなら、他人への思いやりもまた、競争的な状況において経験されるものならば、弱さとして解釈することができるからである。
肝心なのは、もっと効率よく他人に勝利することができるように、自分の感受性を麻痺させるようなことに手を染めるのをやめて、不安感についてよく考え、どんな価値が含まれているのかを慎重に吟味してみることである。

そのほかに競争がもたらすもの

結果志向 遊びは、それ自体を目的とする活動である。それは、「過程志向」、すなわち本来的な価値をもとめてあることを行うという傾向を反映したものである。しかし、こうした行動は、アメリカの社会の大人たちのあいだではまれにしかみられない。アメリカの大人たちは、結果志向になってしまっているのである。仕事は、「最終結果」を求めるものであり、わずらわしいけれども、生活していくうえで必要なものだと理由づけられることがおおい。学校ですごす時間も、将来の就職に役立つかぎいりにおいてのみ価値があるとうけとられるにすぎず、市場が求める技術の需要を大学が満たすようになっているという口実としてもちだされるのである。結果がどうあれ、余暇の活動すら、仕事とおなじようなものになっているのである。
生活のおおくの側面で過程が結果にとってかわられてしまっているために、人生そのものについての考え方についても、おなじとうな転換が遅かれ早かれおこるにちがいない。自分がどんな人間であり、どれだけの価値があるのかは、実際になにを作り出してきたか、何を行ってきたか、自分の業績を示すどんな具体的な証拠を提出できるか、自分の努力の成果として何を示せるかといった点から評価されるようになってきている。もちろん、ちょっと考えれば、こうした考えがばかげていることは、はっきりしている。生活していく過程において得られるもの以外に、自分の人生についての全体的な総括であるとか、首尾一貫した統一性などもとめようがないのだから、結果を追い求めるのは、結局はむなしいのである。
競争は、結果指向をもたらす唯一の原因なのではなく、そうした考えをもたらす強力な要因のひとつにすぎないのである。定義のうえでは、競争の目標は勝つことである。競争においては、活動そのものを楽しむなどということは問題外にされてしまう。
目標志向にはもともと柔軟性の欠如がつきものだが、それが個人からも柔軟性を奪ってしまうというのは、とくにおどろくことではない。ある人間が競争的であればあるほど、自発的ではなくなってしまい、びっくりするようなことにたいしても鈍感になり、認知過程における柔軟性が失われてしまうといえるだろう。
あれかこれかという考え方 ある状況に、二つしの選択肢しかないように考えてしまうのがあたりまえになっている。二分法的な思考様式は、論理のあやまりをふくんでいるというというだけではすまない。この思考様式は、現実生活志向なのであって、他人とどうかかわりあうのかということと密接に関係している。そして、個人の精神病理学以上のものが含まれているのである。すなわち、われわれの相互行為をかたちづくる社会構造もまた、選ぶことができる選択肢があるかどうかを考慮する際に影響を及ぼすのである。
二分法的な思考様式が、競争をいざなうものであり、さらに、競争の結果もたらされたものでもあるということははっきりとしている。
二分法的な世界観は、感情の思い入れという意味合いが強い考え方なのである。選択できるものが二つしかない場合には、片方が良いもので、もう一方が悪いものだとみなされることになる。そのような単純な二項対立に還元できる世界があるとすれば、それは、解決困難な道徳の問題にとりくむように求めることもなく、快適な世界であろう。しかしこの快適さを手に入れるために支払われる対価は法外なものである。
まず第一に、それは現実をゆがめてしまった考え方であり、三次元の立体を二次元の平面におしつぶしてしまったようなものである。第二に、二分法的な思考様式が競争から生み出されたものである場合には、ほとんど脅迫的といえるくらいに最善のものがなんなのかに関心をよせる傾向がある。
最後に、この種の価値づけを区別してかかるとき、自分をいいほうの側に位置付け、悪いほうにたいしていいほうの側が勝利を得てもらいたいと思うのがふつうである。こうして「われわれ」と「彼ら」との間に断絶が生じることになり、まさにこの亀裂が攻撃を引き起こすことになる。
体制順応 アメリカは、あまりにも競争的な社会であり、また、きわめて個人主義的な社会でもある。また、アメリカにおける競争は、個人のレベルにおいて行われるのがふつうであり、そのため、競争が個人主義を促がしていくのだと考えられることがおおいのである。
個人主義という言葉は、じつは極めて異なった二つの哲学的運動と結びついていると考えられる。一方では、エマーソンやソーローのように19世紀のアメリカ人に擁護され、20世紀の実存主義のある種の系譜につながっていく個人主義がある。それは、自己自足、良心、自立、さらに体制への不順応につながっていくものだった。こうした意味での個人主義において関心の対象とされているのは、自分でものを考え、行動する自由、心の奥底でいだいている価値への献身、他人から非難されたり、もっと悪いものを浴びせかけられる危険を冒す勇気などである。
それに対して、この哲学的な運動を卑俗なほどパロディー化したものが存在するわけだが、現代の大衆心理学や、人間の潜在意識な可能性を開発する運動の一部にみられるものである。
競争と両立することができるのは、後者のような個人主義である。したがって、自分の利益を少なめに考えれば、他人をうちまかすのに役立つのである。
しかし、競争はより価値のある本物の個人主義を促していくことはない。それどころか、競争は、極端な体制順応を助長してしまうのである。ジョージ・レオナードは、「標準化され、専門化され、予測可能な人間の構成要素をつくりだすことにささげられた文化においては、生活のありとあらゆる側面を競争の問題にすりかえてしまう以外に、そのような人間をつくりだしていく方法はなくなるだ。ろうこの点で、『勝利を得る』というのは、粗野な個人主義者を生み出すことではない。それは、体制に順応するロボットを作り出していくことなのである」と述べている。
アメリカ社会における体制順応の原因が、すべて競争にあるといっているわけではない。本書では究明されていないが、そのほかにも社会的、経済的、心理的な力が影響を与えている。しかし競争がこうした規格化の過程をささえ、強化していくのも確かなのである。
競争は、反抗というプロメテウスの火をけしてしまうように作用するのである。
危険を犯そうとする気持ちは、ほかの点でも、競争によって押さえつけられてしまう。
テレビのネットワークが、視聴率をあげるためにしゃにむに争わなければならない場合には、「新しいものを試みるのではなく、模倣をしがちになる。なぜなら、新しいものを試みるには危険を冒すことが要求されるからであり、危険を冒すことは、短期間で勝利をおさめることとは逆だからである」
人生を競う合いの連続にしてしまうと、慎重ではあるけども、従順な人間にしてしまうのである。競争において、一人一人の人間がかがやき、集団的な行動を喜んで受け入れることなどないのである。