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競争をこえて …変化をもたらすためのさまざまな考え方

意図的な競争と構造的な競争の再考

土曜に朝に放送されるテレビの子供向けの番組で、アニメに登場する人物は、足元に地面がなくなってしまてからも走り続ける。落ちていくまでには、少なくとも下を見下ろす余裕がある。それは、まるで無知とはずみとがうまくかみあって走り続けることができるかのようである。競争についても、おなじことがいえる。我々はナンバー・ワンになろうと猛烈に努力し続けるのであり、こうすることが自分にとって一番利益になると信じ続け、自分の子供たちの世代も同じことをするように育て上げていくのである。競争よりも協力のほうが生産性を上げることができるという事実があるにも関わらず、このことを行い続けていくのである。
このような事態を変えていくことが難しいのは、構造的な競争と意図的な競争が互いに補完し合っているためである。競争が望ましいものだという広く行きわたっている信念と、外の人々を打ち負かしたいという気持ちの両方とも相変わらず存在しているかぎり、どのようにしたら現代社会における競争の枠組みをなくすことができるのであろうか。これは、一世代前に公民権運動の活動家たちが直面したのと同じディレンマである。つまり、人種差別主義的な態度が広く行きわたっているために、政府の法令によって差別を終わらせようとしても抵抗されてしまいかねないだろうが、にもかかわらず、差別が存在する社会において、どのようにしたら人種差別主義を打破することができるだろうかというディレンマと同じなのである。
どのようにしたら、この悪循環を断ち切ることができるのだろうか。それは、同時に両方のレベルに立ち向かうことによってである。「もっとも有効なのは、多次元的なアプローチである。それは、公然と行われる行動を変えるだけではなく、また、たんに洞察をふかめていくことにもとどまらない。むしろ、因果関係の連鎖のさまざまな結び目をいちどにゆるめようと試みるものである。…我々の信念と価値観が制度をかたちづくり、我々の制度が信念や価値観を形作るのだから、多方面にわたって努力を行うことが求められるのである」。
意図的な競争は、自尊心を求めるものであるという観点から理解できるとしてきた。つまり自分たちが価値ある人間だということを証明しようと努力しながら、その一方で他人を打ち負かそうとするのである。結局のところ、この戦略は不毛なものに過ぎないことは明らかである。というのは、自分たちの自尊心が満たされるかどうかは勝利するかどうかにかかっているということになり、自尊心はつねに不安定なものになってしまうからである。競争すればするほど、競争を要求されるこのになるのである。
この罠から逃げるのは、自分たちの自尊心を保っていけるようにする方法を見つけ出すことである。つまり、自分たちの優位性を証明し続ける必要などなくなるぐらいに、自分たちに対する無条件の信頼を築き上げることである。これまでの章で指摘してきたように、自分たちを他人と比べてみることが進歩を確認するただ一つの方法というわけではない。自分自身がかつてあげた業績だとか、何らかの絶対的な基準に目を向けることで、自分たちがどれくらいよくやっていけるかの確認をすることができるはずである。
たとえ構造的な競争に参加せざるをえない場合でも、自分の競争意識をなくすように努力することはできる。活動の結果から関心をそれせることによって、わたしが「過程の競争」と呼んできたものに変えていくことができるのである。勝利することの意味を最小限におさえこんでしまうことで、同時に、敗北の衝撃を和らげるのである。競い合いに加わるときはいつも、仲間意識で包み込んでしまうことができる。
様々な状況において自分自身に競争意識があると感じられるとき、それを監視し、さらに、この衝動を抑えようと意識的に努力してみるのも有効である。このようなことをすべて考慮することが、子供たちを育てたり、教育したりすることととくに関連がある。競争がもたらす心理的な損傷や対人関係における損傷は深刻なものであって、そのことをはっきりと子供たちに教えてあげなければならない。
これまで述べてきたことすべてが、意図的な競争、すなわち、他人よりも優位性をたもっていたいという傾向に関するものであり、価値観と自尊心にかかわる問題である。競争を好む人間にならないように努力する際に、価値観と自尊心の両方に注意を払うべきだということには理由がある。それでもなお、競争を好まないように努力する成果のほどは、経済システム、学校教育、余暇活動などの構造に制約されている。このような構造が、ある人が成功するには他人が失敗することが条件となるようにしつらえているとすれば、競争的でない健全な態度というのは、特異なものでしかなく、まったく適応力がないと思われてしまう。いずれにしても、そのような態度を保ち続けるのは難しいだろう。
私が競争を考え始めたとき、構造的な競争と意図的な競争は完全に均衡のとれた状態で互いに関連し合っており、それぞれ同じぐらいに他方を規定する原因になっていると思われたが、時間がたつにつれ、この立場を変更せざるをえなくなり、ついには、構造的なレベルのほうがはるかに重要だと認識するようになった。
ある構造がどのようにして特定の行動を導くことになるのが、スタフォード大学のフィリップ・ジンバルドとその同僚は、看守と囚人の役割を演じる実験を行った。選ばれた被験者は、精神的に安定しており、性格分析の一覧では真ん中位の点数が付けられていた。被験者たちは、ほぼすぐに、それぞれの役割に特有の病理的な性格を示し始めた。看守は、収益者にたいし身勝手な仕事をおしつけ、ばかげた規則を考え出すのに夢中になり、絶対的な服従を要求し、囚人は、受動的で、従順になり、欲求不満を互いにぶつけ合ったり、犠牲者の役割をひきえけたりするおうになった。ジンバルドは危険だと判断し、2週間の予定を6日後に打ち切ってしまったのである。ジンバルドは「行動の変化させるためには、いま行われている望ましくない行動を背後から支えている制度を見つけ出し、こうした環境を変えていくための計画を立てていかなければならないのだ」と結論づけている。
このことは、競争の場合にも当てはまる。われわれは、ナンバー・ワンになりたいと思うようにたえず刺激を与えられている。なぜなら、こうした指向性をもつのは、われわれが属している勝利/敗北の構造にふさわしいものだからである。他人をうちまかすようにしむけるのは、競い合いに参加しなければならないということなのである。したがって、もっと健全な方向へと向けたいと思うならば、変えなければならないのは、競い合いに参加しなければならないということそのものなのである。
同じように、ウイリアム・サドラーは、個人が世の中をどのように見るかは構造によって決定されていると主張している。
我々の心理的な状態と他者との関係のあり方は、意図的な競争意識がどの程度備わっているのかということと互いに関連しているだけでなく、構造的な競争の枠組みによって変化させられているのである。
もう一つの根拠を提供してくれるのがスーザン・シャークの見解であって、協力的な性向をもっていた中国人の学生たちが、競争的な構造をおしつけられたとき、どうして助け合うのをやめてしまったについて述べている。もっと身近な例をあげてみると、都市は公的なものではないが、強力な構造をそなえており、道路を運転するときも競争的な行動が求められるのであり、そのためどんなに礼儀正しく、協力的ドライバーでも、都市に入るとどんなに変身するのかをみるといい。個人の性格パターンは、構造に順応するためすぐさま変身してしまうのである。
協力的な枠組みが行動や態度を変化させていくものであることを示すことによっても、構造的な力がもっとも重要なことが証明される。

どのようにして社会の変化を阻止するのか

現代の社会を競争的でなくしていけるかどうかは、最終的には、構造的な競争をなくしていけるかどうかにかかっている。どうのような構造的な変化をもたらす場合でも、ものすごい抵抗が予想されるわけであり、それをのりこうていくことが求められる。どのようにしたら変化をおしすすめていくことができるのかということよりも、どうしたら変化を阻止できるのかということについて述べる方が容易である。そこで、そのような気持ちをもっている人々のために、現状を永続させていくための方法を5つあげてみよう。
1.視野を限定してしまう事…アメリカでは、これまで長年にわたって、社会問題と個人の問題がかかえる構造的な原因が無視されてきたことについて触れてきた。
2.順応すること…現状をそのまま維持していく最良の方法は、一人一人の人間が現状のもとめる要求に確実に応じるようにすることである。
3.自分自身について考えること…「ほしいものをあたえること」によって成功をうながしていくべきだということばは、自分自身の幸福だけをかんがえればいいのだということを暗に示唆している。自分のことだけに関心をもつように限定してしまえばしまうほど、ますますよりおおきなシステムを維持していくのに手をかすことになる。
4.「現実的」であること…よりおおきなシステムを擁護する必要はなにもない。逆に、システムを非難する人に共感を示しながら同意することもできるのである。しかし、システムを非難する人に同意する場合にも、同時に、肩をすくめてみせることが決定的に重要である。おおきな状況の流れに対しどうしようもないのだということを強調するためには、「好むと好まざるとにかかわらず」とか、「それがまさに現実なのだ」という言葉をどんどん使うべきなのである。
ときには、現状に甘んじてしたがうことを拒んだり、変化をおこすことには無力であることをみとめたがらない批判者がいるものである。そのような人間には、ただちに「理想主義者」というレッテルをはってやるべきである。理想主義とは「世の中をあるがままに」理解しない人のことだと考えてかなわないだろう。
現実主義にうったえるならば、批判者の立場をもちあわせている(したがって、現状をもちあわせている)価値観をめぐる厄介な議論を避けることができるという利点がある。
現実主義にうったえていけば、社会の変化を助長してしまいかねないような制度を、現状を反映するだけのものに確実にとどめて置ける。
5.合理化すること…現行制度を擁護し、そのことによって利益をえている人々があからさまに社会変化に反対しているときには、批判者がその現行制度に反対するのは比較的たやすい。こうした批判者に反抗を難しくさせ、同時に、自分自身の良心を慰めるためには、自分がいまこのようにふるまっている本当の理由は「内部からシステムを変化させていく」ためなのだと主張すればいいのである。ふてぶてしさを備えていれば、システムの一員としてくわわることこそ、そのシステムを変化させていくもっとも有効なやり方なのだといって合理化することもできる。交友論法を受け入れ、その例にならう人々多ければ多いほど、そのシステムは安定する事になるのである。

無競争社会にむけて

意図的に導入されたものかどうかはべつにして、変化を頓挫させてしまうようなメカニズムは、こてまで極めて有効なものだった。このような点について再検討してきたのは、そのような巧妙な策略をすぐに予想し、いつでも対処できるようにするためである。
実際に競争が無益なものであり、破壊的なものであるとするなら、また、我々の態度と個人的な目標が勝利と敗北の構造によって形作られるのだとするなら、屋内で行われるゲームから地政学的な紛争迄、互いに対立する枠組みを取り除くという手ごわい課題に取り掛かる必要があるのである。現存する構造をとりこわす作業を行いながらも、あらたな競争の機会を生み出さないよう注意しなければならない。
ナンバー・ワンになるということの本当の代替物は、ナンバー・ツーになることではなく、タンク付けをなくすことなのである。競争を当然のものとみなす代わりに、勝者と敗者を生み出さなくても済むような構造をもたらすには、よりおおきな仕組みのどこを変えたらいいのかを問題にすべきである。ときには、こうしたおおきな仕組みがどこにあるのかを探しているうちに、アメリカの経済システムや政治システムの基盤そのものにいきつくこともあるだろう。このときは、問題を放棄し、競争に甘んじて従うべきだということにはならない。どんな問題につきあたろうと、どんなにおおきな賭けをすることになろうと、問題に立ち向かっていけるわけであり、内実を転換していけるということなのである。
構造的な競争をなくしていく方法について考え始めるにあたって、有益な研究を行ってくれた思想家たちがたくさんいる。テリー・オーリックは、レクリエーションという概念を組み替えていく方法として、非競争的なゲームを提案している。デビッド・ジョンソンとロジャー・ジョンソンは、教育を改善する方法として授業のやり方を非競争的なものに変えていくように提案している。
いずれの場合にも、競争にたいして反対する見解は、それにかわる展望を肯定することと結びつけられている。それと代わる物を提案しないまま一連の構造をとりこわすのはほとんで不可能なのだから、こうすることが実際に必要なのである。しかし、競争にかわるものがどんなものなのかということが、まずもって競争に反対する理由そのものを表しているのである。競争することが問題だということは、何よりも人間関係を尊重するからである。競争に反対する動機と競争に代わる仕組みは、実は同じものなのである。それが、協力である。
だが、競争社会に留まっているかぎり、生存競争をしていかなければならないのだと主張することもできるだろう。こうした議論は、ほとんどの場合、じつは競争をやめようという気がない人々の口から聞かされるものなのであり、バートランド・ラッセルが指摘しているように、ほんとうは他人を打ち負かしたいという願望を正当化するために「生存」という呼びかけの言葉が持ち出されることが多いのである。しかし、このような反対意見は、合理化のために提出されたのではなく、自分の価値観をアメリカの文化が求める競争と調和させることができないことによって生じるほんとうの不満をあらわすものとして提出されたのだと仮定してみよう。
これは、簡単に答えの出せるようなものではない。まず、競争がもつ欠点をならべたてるカタログを再検討することから始めてみるべきである。多くの点で競争が有害なものだということをふまえたうえで、レースに参加するかを判断すべきなのである。あきらかに競争する必要があるというのは、もう一つの自己実現的な予言なのである。それぞれの人間が、いつも他より一歩先を行かなければならないという思いは、隣の人もまた、同じことを思っているのである。
このような見通しがつくならば、アメリカにおいて慣習となっている個人主義的な準拠枠組みを超えてしまうことになる。競争のために払う代償をとりあえず脇に置いたうえでではあるが、競争が妥当なもののように思えたとしても、競争を続けていくことが集団の利益にかなうものかどうかを考えてみる必要がある。集団の利益にかなわないものならば、集団として考え直す必要があるだけでなく、行動する必要もあるのである。構造的な競争を協力に置き換えるためには、集団で行動することが必要になり、集団で行動するためには教育と組織とが必要となる。
社会の性質を変えるためには、集団による努力と長期にわたる働きかけが必要になる。その過程で、それぞれの人間が一連の選択を行わなければならない。なぜ競争を避けるべきなのかが、いったん明らかになったあとで、現行の支配的な倫理に譲歩しようとする心構えがあるとすれば、それがどの程度なのかを判断するために、自分自身の生活をふたたび検討しなければならない。それにともなう個人的な代償と社会的な代償をともに理解したうえで、こうした譲歩がなされなければならない。同時に、譲歩するにしても、競争にかわる健全で、生産的で、協力的な代替物を作り出そうとする決意を強めていくものでなければならないのである。