現代スサノウの言霊 

4.偶然が生んだ「マネー」

「信用」=「借金」=「貸付金」=「マネー」という性の悪い「二重思考」

聖書に書かれている言葉は暗号文のようなものであると、大方の意見は一致している。聖書の文字には、創造主である神から人間に向けた宇宙的なメッセージが含まれていると主張する学派もある。それによると、古代の書記官は、さも予め宇宙的なスケールで計画されたものがあるかのように、また何らかの形で時が満ちれば「特定の」真実が表に出るように聖書を記述したそうである。
ベレーズ・パスカルは、聖書に記されている符合的表現は二重の意味を持っている可能性があると言っている。二重の意味といえば、「二重思考」という形を取って現れるものを思い浮かべよう。マネー創造の本当の秘密を理解するためには、そのようなひねくれた思考形式が必須である。つまり、現代の銀行マネーは全て、借り手に借金できる資格があるかどうかという「信用」として生まれ、同時に、その「借金」は、「マネー」を生む「貸付金」だということである。
現代のマネーに内在する二重思考は、極めて重要なオーウェル的特徴を備えている。ジョージ・オーウェルはその著『一九八四年』で二重思考を次のように露悪的に定義した。「完全に誠実でありながら、目的も明確に保持しつつ、意識的な嘘をつくこと。その内容を本気で信じながら、手の込んだ嘘をつくこと」
この種の嘘の一例が、銀行のローン(貸付金)は、預金から作り出されるという嘘である。同時に間違って信じられているのが、マネーには、金や銀が必要であるということである。古代の遺物から推論すれば、金や銀はもともと神々に対する畏敬を示すものとして保存されていたものが、最終的に富の象徴として見られるようになったのである。
事実は、銀行の預金にあるマネーは例外なくローンから発生している。このことは、この惑星のあらゆる金融学の学校で、入門コースであろうと応用コースであろうと、ごく普通に教えられていることである。しかるにこの事実を、我々が揃いも揃って否定し、無視していることが、都合よく「カルト273」に巨大な力を与えているのであり、モロク神の存在を許しているのである。このように経済霊にとって不都合な事実については、二重思考によって、「忘れられ、しかる後に、もし必要になったら、必要な期間だけ忘却の中から引っ張り出される。経済霊の威光は、都合の悪い事実が存在することを否定できる能力にあり、同時に、その否定した事実のことを常に利用し続ける能力にある」
マネーについて二重思考は、信用は借金であり、借金は貸付金であり、貸付金はマネーであるという終わりのなき同時発生の反復現象である。この無限アルゴリズムから生み出された富のことを実物を反映した通貨と混同してはならない。ここで言う資産とは、いわゆる銀行が資産と呼ぶもの全てである。さらに需要なことであるが、マネーは実物ではないことを認識すべきである。「マネーは流通している信用である」。マネーが実物であると思い込む癖を、精神的に断ち切らなければ、信用は借金であり、借金は貸付金であり、貸付金はマネーであるというシステムを理解することは出来ない。マネーは信用を土台とした富の無限増殖処理手順であり、それに対し、貨幣や硬貨は、取引を成立させるための交換手段としての通貨に過ぎない。

マネー以前の商取引は、神の心を会得した聖職者が仕切っていた

後のマネーとなった二重思考のアルゴリズムが発見されたのは、どうも偶然の産物であったようである。マネーが登場する以前の時代では、あらゆる取引は、神の心を会得した聖職者が仕切っていたようである。全ての取引は、神殿の職員によって認証を受け、記録される必要があった。商取引の双方の当事者にとって何が公平なのかを聖職者が判断し、その判断に従って、誰が誰に対して何を負っているのかを記録した文書を保管するのが神殿であった。社会の秩序と経済的な公正さは、神殿の経営とスタッフの見識に委ねられていた。
記録が残っている範囲で最古の時代の古代エジプトは。まだマネーが存在していない時代であったが、穀物が交易の交換手段として使用されていた。価値を定め、支払いを済ませるために、一連の物理的な計算がなされた。記録に残っている昔の複雑な社会の様子からは、こうした計量を行うにあたって、広範な知識と精巧な技術による判断が必要であったことが窺える。
ファラオ(王)たちの商売に使用された大量の錘は、通常は、単純な形状をしており、硬い石で出来ていた。錘のほとんどには印がついていなかったが、こうした錘を使って実際に重さを量っていたということは、尺度がバラバラであったことを示している。どのような単位や尺度に用いるものかを識別する印がついていることは稀であった。別の尺度で表すといくらになるのかという換算をするための印もなかった。やがて、最も標準的な公称重量として、長石(地殻中に普遍的に存在する鉱物)から作られた錘が標準となった。
多様な錘と計量単位は、マネーの仕組と相容れるものではなく、聖書でも非難されているものであるが、マネー登場以前の時代の価格設定としては最も納得できる方法であったようである。マネーのない状況で、需要を満たし、報酬を与えるためには、実用的かつ迅速に生産物を配分できる方策が必要だった。多様な錘と計量単位が使用されたことは、取引の判断を行う神殿のスタッフに特別な技能が備わっていたことを物語っている。
この本質的にオカルト的な知識は、恐らく一般人には知らされることなく、経済的な事項に関する聖職者の日常的な業務として行われていたのだろう。神殿のオカルト秘儀への参入には、公平で慎重な商品の配分を確保するための、多種多様な錘と計量単位の使い方を学習することが含まれていたことは間違いない。様々な商品の価格や、功績に応じた賃金を設定し、管理する仕事は、聖職者の生活の重要な部分であったはずである。物資が欠乏した時に、商品の価格と配分、購買力を調整することは、社会がうまく機能するために不可欠であったはずである。
マネー出現前の古代エジプトの知恵は、南北アメリカ大陸の市場のルールにも通じるものがあったようである。コルテス(1485~1547)は、メキシコに到着した時(1519年)、アステカ族がマネーを使用していないことを発見した。これら失われた文明が言外に語る重要な現実は、マネーに頼らない計算システムに基づき、自然と調和しながら繁栄する公平な社会を懸命に追求しようとする社会の在り方である。価格決定と分配、種まきと収穫は、神殿に勤務する高位の知者によって調整されていたと結論づけることが出来る。多様な錘と計算単位こそが、社会管理の合意形成を可能にしたと言えるかもしれない。
農民たちが、聖職者を通じて神の指示に従い協力したのは、経済的な期待に基づくものであったことは疑問の余地がない。その経済的な期待とは、お決まりの内容であるが、「神殿の精鋭たちは、我々の中で最も貧しい者を、どれほど良くしてくれるのか?」という要望に対する応答である。いつも教会に行っている人は、この理念はキリスト教にとっても重要なものであることが、すぐに分かるだろう。

マネーの使用が有害な社会権力を発生させた

市場にマネーが登場した時、人々の思考に決定的な突然変異が発生した。マネーがやって来るまでは、芸術的とも言える技能で多様な錘と計量法を使用し、種子を取引の手段として利用していた。マネーが入ってきたために、これら多様な錘と計量法は、不法なものになってしまった。聖書によると、神はこう言った。「様々な錘に、様々な計量、いずれも神に醜悪をさらすようなものである」。この禁止は、明らかに、マネー社会の要請に通じるものである。マネーの計算に基づいて動いている現在のマネー経済にとって、多様な物質によって計算するシステムなどというものは、事実上、考えることすら出来ないものである。
一般的な解釈としては、公平な取引を実現するために、多様な錘と計量法を禁止するのだという見解をとる。この見解は、マネーが登場する以前の、市場の慣習の実態を見過ごしており、マネーを使用することによって発生する可能性のある有害な社会権力のことを隠している。有害な社会権力の操るマネーは共同体の圧倒的多数にとっては実に不利益なことなのだ。マネーが使用されるようになれば、それまで慣れ親しんでいた、見て触れて分かる具体的なものの代わりに、抽象的な概念が導入されることとなり、それによって商取引の判断を行うのに必要な能力が変質することになる。マネーが導入されることによって、ものの考え方が全面的に変わってしまうのである。マネーの到来は、利子のつかない交換手段を使っていた市場にとって神の恵みであるはずだったが、実際には、マネーはモロク神の呪いとなり、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」の高利パワーとなって社会全体を呑み込んでしまったのである。
モロク神とマネーの発見以前の古代社会において、共同体の一部の人々が、その他一般と比較して、明らかに傑出した商売活動を行っていることが神殿の書記官には分かっていたはずである。記録を見れば、誰が最も活発に商売しているかが分かるし、その結果、誰がいくらの負債を抱え、誰に何を未払いであるのかも分かったことであろう。おそらく釣鐘状の曲線となっていて、常に共同体の半分は、聖職者の決断によって、他の裕福な半分から守られいることが示されたことであろう。さらに、共同体の商取引の八割は、人口のたった二割によってなされていることが、神殿の書記官には明らかだったはずである。活発な商取引を行う者の中には、取引をする度にいつも債権を生み出すような、才能豊かな者がいることも明らかであったろう。

無から有を創造する「金融の神殿」誕生の経緯

商取引に成功した者の請求総額として神殿の権威が認証した額は、その取引者の「信用」となる。経済霊のマネー経済においては、このような顧客に対する請求額を累積させたものが、売掛金となる。この額こそが、最終的に現在のマネーとなり、銀行預金残高に転換するものの初期形態である。粘土板に取引を記録する担当をしていた書記官は、誰が最も利益を上げている商人であるかを熟知していたであろう。天才的な商人たちは、複雑多岐にわたる取引を行っていたはずであり、共同体の多くの人々を相手先とする債権を抱えていたに違いない。ここで、あなたが、毎日の商取引の商取引の詳細を粘土板に注意深く記入する事を毎日の仕事にする聖職者や書記官であると想像してもらいたい。取引の上手な商人を担当している聖職者は、新しい取引を記録しては支払があると古い取引を締めるという仕事を、途切れることなく繰り返していいだろう。
聖職者は、活発な商人と顧客の間に立って、品質や分量に関する事項を採決するために、いつも大忙しであっただろう。誰に対して何が支払われる予定であるのかを示す記録を持つ神殿は社会の中心的存在であった。将来の支払いに関する調節については、色々な知恵を出すことが求められたであろうし、その方法は、身分と特権の中で内部化され、より複雑になっていったに違いない。高潔な聖職者たちは、こうした諸問題を、多様な錘と多様な計算法を駆使して解決したに違いないのである。
才能ある商人は自らの家族や近親者が生産した以上のものを手に入れることが出来ることが、神殿の記録者には明らかだった。交換する技能がない人々はそれなりの生活しかできなかった。交換の技能を磨くことは、良い生活を得るための登竜門として幼少期から教育されていたに違いない。交換の慣習は、マネー経済が到来しても変わらなかったことは特筆すべきである。交換は、商取引へとつながる駆け引きである。交換は、今でも車を買う時など、色々な買い物をする時に一般的な行為である。そして、今日も当時も、誰か(何か)が交換を認証しない限り、取引は成立しない。今日ではマネーの金額が認証機能を持つが、マネーのない当時では、より大きな価値を手放した人に支払われるべき残高を記録されており、書記官とも顔馴染みであっただろう。商人が保有していた債権の規模は、その商人の信用力を証明するものであった。そして、ある日、革新的な(または、恐らく手間がかかることが嫌いな)書記官が人類の歴史を変えてしまう。若干の銀(混合物)に神殿の判を押したものが、ある商人の売掛の全部を意味することにしてしまったのである。公式な「トークン」(代用通貨、券)によるものなのか、非公式なトークンなのかわからないが、神殿の記録の中に信用が存在することを示したこの事件が、経済霊のマネーの始まりである。マネーの起源は、物々交換の不便さの解消にあったわけではないのは明らかであり、何は全く別の、心理的な、あるいは管理上の出来事から発生ことなのである。
現在学校で教えられているようにマネーは物々交換の不便さから生み出されたものではなく、神殿で粘土板に同じようなことを繰り返し記入する煩雑さこそがマネー誕生の理由である。
この長らく忘れられていた事件によって、「信用」は神殿の聖職者の管理下から逃げ出し、経済霊となって出没することになったのである。かくして商人たちは、わざわざ神殿に出向いて取引を認証してもらわなくてもよくなった。1枚の「トークン」は、神殿に記録されている信用の量に要約して示していた。このトークンが後に硬貨となるわけだが、売手と買手双方にとって、神殿まで旅をして勤務時間内に書記官の聖職者に取引を記録して認証してもらう代わりとなった。売り手の商人は、硬貨を受け取ることによって、計量や品質の問題について神殿の権威から実質的に自由になったことを即座に把握しただろう。売り手と買い手は、互いに合意した範囲内で、実質的に神殿の権威に頼ることなく、取引を締結できるようになった。「買ってしまったものは買い手の責任」という市場の慣習は、この時に商売の用語集に追加されたに違いない。
現在我々が想像するマネーとは違って、おそらく最初の硬貨は特定の価値を示すものではなかった。それは売り手にとっては、トークンを提示する買い手が、口約束で決めた交換対象となる量を、売掛と信用として神殿に持っていくことを示す証拠に過ぎなかった。硬貨の創造という単純な行為によって解き放たれた力は、伝説の神々の力に匹敵する。
一つまみの銀に印をつけただけで、経済霊の力は解き放たれ、地球上を徘徊し、他の全ての宗教を呑み込んでしまうまでになった。最初の一つまみの銀が使われから、それほど時間が経つこともなく、これは記録されたものとは無関係に発行できるのだとひらめく。経済霊が解き放たれただけでなく、聖職者たちも同様に重荷から解放された。聖職者たちは、粘土板の記録にある信用とは関係なく硬貨を発行することが出来た。聖職者たちは、本当に神々のようになったのである。何もないところから創造することが出来るのだ。モロク神は、経済霊とマネーを通じて、音も立てずに人類の中に入り込む。
このようにして、現代の金融となった経済霊は、信用は借金であり、借金は貸付金であり、貸付金はマネーであるという二重思考の頭の体操を通じた世界支配への第一歩を踏み出した。あらゆる現代のマネーは、銀行が信用力を審査・判断した結果行う貸付金の形態で生まれる。そして貸付金は、誰かの負債となるのである。
一部の部族、人種、人々がマネーに関して卓越した能力を持つのは、ある共通の信念、つまり、約束した通りに払うという共通の信頼感を持っているからである。この信頼が、金融の神殿(今では一般的に中央銀行と呼ばれている)が仕組んだ負債としての貸付金マネーや未払債務の姿となって現れたものが、現代のあらゆるマネーの基盤である。この架空エンジンを動かす根源の力が、モロク神の命令に従い地球に敵対する「宇宙的存在」である可能性については、一顧だにされない。

自然に敵対する「宇宙的存在」が硬貨を生んだ証拠

硬貨の誕生とともに、超自然的な、というよりも自然に敵対する力が、地球船にやって来たのではないかという疑問を裏付ける事実がある。人類の太古の先祖の時代より、この惑星上で共通して使用されてきた基本的な計測単位は、正確な地球の寸法に基づいた比率に由来している。どのようにして地球の寸法を正確に導き出すことが出来たのか、解明されていない。
初期の硬貨は全て重さの単位も兼ねており、重さは容積の単位に由来している事実がある。これらの尺度は、地球の物理的なサイズを正確に割り算したり、掛け算したものである。古代に使用された体積の尺度は、硬貨の切りのよい数を表していたことが発見されている。
多くの場合、硬貨の重量はきっちりと割り算され、それぞれの国の歴史上、マネーが使用された時代に応じて、当該地域の重量の単位となった。
硬貨の歴史からは、さらにいくつかの驚くべき事実が明らかになる。地理的に何千マイルも離れた場所で、年代的にも何千年も違う文化で、ぴったり同じ重量の硬貨が発見されている。不思議にも金(ゴールド)を特別扱いしたこと、そして、金と銀の交換比率も、世界的に共通認識のようだ。ティアワナコ(ボルビア)のインカ人の金の重量は、地中海沿岸全域で何千年も使用された1タレントの金と、ぴったりと同じ重量であった。インカのもう一つの金の単位は、地中海の2タレントの金とぴったりと等しいものだった。こうした類似性は偶然では片付けられない。
神々が空からやって来て神殿を建築したという伝説は世界的に共通している。空から降りて来た存在が、硬貨鋳造によって世界全体に交換価値の尺度を設定したのかもしれないと思えば、大いに想像を掻き立てられる。神殿における聖職者の役割はどの文化においても記録に関しており、「天空の存在」との接触も神話や伝承の中に共通している。度量衡の尺度が地球の物理的な寸法に由来し、その尺度の割合としての硬貨に均一性があるということは、我々が現在マネーと呼ぶものが発明された時に、何か目的をもった大きな力が現れ、介入したことを示唆している。
マネーによって可能になった利子の支配が生み出した経済の力。この経済力が、地球の世話人としての責務を脅かしているように思える今日、興味深い伝説のことが頭をよぎった。最初に、創世記1章26節で、創造主の神が天使に対して人間を創るように指示した時、天使は断った。賢明なる天使は、人間はどうも地球の完成に役立たないようだという意見を持っていた。だが、神はしつこくこだわった。
さらに神は、全て存在するものは神の言葉から出来ている、天使も例外ではないと、忠告した。そしてさらに、神が創るように命じたものは神だけが破壊することが出来ると、天使に警告した。
こうして天使たちは、命令された通りに人間を作った。天使たちは知恵を働かせ、マネーの力を誤って用いることにより、神を冒涜する行為をする能力を人間に与えた。人間たちが利子に夢中になり、生物圏をないがしろにするのを見て、神は、自ら創造した人間に失望するだろうと計算したのである。このため、人間のマネーの習慣は、神が創造した地球への攻撃となり、神は、自ら創造を命じた人間を破壊せざるを得ないことになる。
言うまでもないことであるが、生物圏を傷つける行為を矯正するため、そして、地球の世話人に復帰するためには、マネーに関する様々な思い込みを捨て去ることが求められる。生物圏を元に戻し保全するために必要なコストを賄うためには、「人々の信頼」を動力とした、負債や利子とは無縁のマネーを創造しなければならない。株式資本は、株主ではなく、公共の利益に奉仕するように、直ちに改められなければならない。
「人々の信頼」は、もはやモロク神に捧げる高利を稼ぐための、政府債務と呼ばれるものに代表されるような私有財産であり続けてはならない。「人々の信頼」は、我々の存続のためにこそ必要なのであって、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー。資本利益率」と一緒に中央銀行という経済霊の保護預り所に任せておくわけにはいかないのである。