現代スサノウの言霊 

5.矛盾とカルト

「よそ者であれば」毒であろうと与えても構わない、と申命記の神

通常あまり意識しないかもしれないが、商業というものは、色々な意味で宗教に深く関り依存しているものなのである。取引は、「嘘をつかない」という最低限の道徳的規範を守らなければ成立しないわけで、この道徳を根底から支える宗教は非常に重要なのである。宗教心に篤い信者たちは、(当たり前と言えば当たり前だが)嘘をついてはいけないと教えられ、祈りや願い事を通じて神に近づく正しい方法を宗教から教えられる。誠実に祈り願い事をすれば、その者の潜在能力が引き出され、望ましい選択にたどり着くことが出来るとされる。神は、信徒のより良き生活に必要不可欠な規則や規範が見に着けように宗教を通じて語りかける。熱心な信徒の集団は、草創期には(秘密結社的なニュアンスで)「カルト」と呼ばれることが多い。
新たな信仰を擁する新興カルトは、しばしば既成宗教の考え方と鋭く対立する。とかく新興カルトは、正邪を峻烈に識別し善悪を厳しく弁別しがちで、彼等を導く新たな知恵(教え)を、神から自分たちが特別に授かったと言い張るものである。神から与えた戒律なるものは、人間が正しく生きられるように、あれこれ間違った行動の戒めを懇切丁寧にも具体的に定めたものである。伝統宗教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同様に、多くのカルトにとっても、十戒は、基本的な規律として認識され採用されている。この個人の日常生活における道徳的な指導は、商業の世界においても守られるべき正しい商行為の規範となっている。
ところが、申命記14章21節を読むと、今述べたような「正しい行為」と矛盾していることが良くわかる。聖書の神は、誰もが持っている誠実の概念を、突き崩そうとしているかのようである。この神は、良き人間関係を築く上で必要不可欠な信頼に基づく営為を露骨に荒々しく拒絶している。聖書の主なる神は、彼のカルト(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)に「特別な指示」を与える。これは「神聖な指示」とされているが、一般的に理解されている道徳的・社会的な行動にあまりにも反しており、「神聖な意志」からなされたというよりは、経済霊と逆神モロクによるものであるとしたほうが、はるかに納得できるものだ。
申命記の神は、彼カルトに、「よそ者であれば」毒物であろうとも与えて構わない(毒餃子事件が想起される)と具体的な指示をしている。そして聖書は、そのように神が人々を「指導」したと伝えている。「お前たちは、主なる神へとつながる聖なる人間なのだから、死んだものを食べてはいけない。町にやって来たよそ者に与えれば食べるだろう。もしくは、外国人に売ってもよい」と神は言った。そのような穢れた食べ物を不正に売買する「神聖な指示」が、慈悲深く、万人に普く恵みを与える神意から出て来るとは到底考えられない。
この申命記の主なる神の形跡を、遺伝子操作した種子と食品を製造して天然の生命を人為的に支配しようとする現代企業に発見できるが、経済霊と逆神モロクのことを考えれば何の不思議もない。

神と共謀、エジプト人から「全ての金銀」を騙取したモーゼ

さらに聖書を読み進んでいけば、もっと矛盾したことに遭遇する。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の基盤となっている聖書のカルトは、エジプト脱出の物語(出エジプト記)に起源がある。選ばれた民は、シナイの砂漠を36年放浪した(40年と主張しているが、モーゼが84歳の時に脱出を始め、120歳で死亡したのであれば36年になる)。彼等の衣服や靴の耐久性は抜群だったのである。この信じ難い出来事は、彼等の神の指揮による、とんでもない詐欺と窃盗行為の末に起きている。その集団を率いたモーゼは、聖書の長々しい神話的人名録中ヒーローの1人であるが、聖書の記述によると、神と共謀して計画し、周到な手順でエジプト人から「全ての金と銀」を騙し取った。この話から創造すると、おそらくモーゼを操った神(反神モロク)は、新たなカルトを組織するに当たって、尋常ならざる巨額資金を必要としていたのではなかろうか。この神は、カルトに所属する女は、返す気が全然なくてもよいから、隣人であるエジプト人から「全ての宝石、金、銀」を借りるようにと指導している。エジプトにいた人々で、カルトの一員でないものは全て、騙し取られる標的になった。こうして騙し取った大量の財宝は子供たちの身に着けさせた。略奪品を抱えて逃走を続ける間に、借りた金銀を盗んだことを隠す目的だったのは明らかである。この大胆不敵な詐欺は、一時は高位の役人をしていたモーゼに関して聖書が記録していることであり、「エジプト人から略奪せよ」という計画的な目的を持つ神の命令によって行われた。エジプト人を確実に破滅させるという目的を除き、盗んだ金の最終的な行先について、物語の内容はいかにも矛盾しており、不明瞭である。
聖書の記述から明らかなのは、詐欺と騙しによる窃盗は、モーゼへの指図に示された、カルトの神の具体的な意思によるものであったことである。そこには、人間の最たる責務である、地球の世話人としての責務のことを考えたり、尊重したりする姿勢は一切ない。人類に入り込んできた新しい神の力は、略奪の標的となったファラオの思考さえも動揺させた。
テレパシーを使った心理操作の力によって、エジプト人は策略の犠牲者として協力させられてしまった。「そして神は、エジプト人に同情を起こさせるようにした。そのため、エジプト人は求められるままに物を貸した。そうしてエジプト人から奪い取った」と聖書にある通りである。エジプト人が人間として幸福に生きることについて、完全なる無関心状態である。この「新しい神」には、新たに組織したカルトが貧乏であってはならないという、あからさまな願望があったことが明確である。「手ぶらで旅立ってはならない」などという神の指示を道義的に正当とするのは、どう考えても蒙昧だろう。

「主なる神」の覆いの陰で経済霊が虎視眈々

この詐欺と窃盗の話が、いかにして真実と慈愛と寛容を信奉する宗教の基盤として解釈され得るのかは、永年の謎である。この道義にあえて矛盾対立するストーリーを記載したのは、何らかの暗示的な意味があると、ここでは考えることにする。その暗示とは、詩ののような象徴的なものであり、聖書の出エジプト記が、聖霊というよりも、経済霊の誕生について語っていることを暗号化して隠しているということである。そうでないとすれば、聖書の神の窃盗精神に頬被りして無視を決めこもうとする聖書の宗教の性向は、腹黒さと、ご都合主義と、反神モロクとの計画的な共謀を意味することになる。しかしながら、依然として、現代の聖書解釈は全般的に出エジプト記の経済的な側面を意図的に見過ごしている事実がある。それはまるで、人類に忍び込む「新しい神」が自然に逆らった性質を持つことを隠そうとする巧妙な謀略でもあるかのようである。おそらく善意の聖書の教えが次第に乗っ取られ、現代は人類にピッタリと張り付いている経済霊とモロク神を隠蔽する暗幕になっているという印象を受ける。
人類の歴史は、既成の宗教と反逆の思想をもつカルトの戦いの連続であるかに思える。思想は常に緊迫した対立関係にあり、論破合戦を繰り返してきた。新興カルトの脅威は絶えず迫っていた。ここで依然として謎なのは、かつて侮蔑され嫌悪されていたカルトから生まれた思想が、いかにして既成宗教に侵入し最高位の座に上り詰めることが出来たのかということである。社会の異端としてのカルトが同居しているという矛盾は、宗教研究における多くの矛盾のほんの一つである。信じる者にとっては、既存の秩序に侵入していたカルトと、根本原理を生み出したカルトの間の矛盾は、皮肉なことにかえって彼等の神の至高さの証拠になる。真っ当な信者というものは、かつて軽蔑の対象であったカルトが公式な宗教へと進展していった矛盾について疑いもしないものである。
宗教の起源について信者が疑問を抱かない理由はいくつかあるだろうが、無視できない理由として、新興カルトは開祖の出身教団の有名人物を巧みに流用するということが挙げられる。たとえば、旧約聖書を基盤とする各宗教諸派では、神は、強奪の繰り返しを通じて出現する性癖があるものと見られている。聖書が作られる以前は、全てのセム人にとって神の総称は「エル」だったが、一説によれば、カナン人の神であったバアル神が旧約聖書の神ヤハウェに変身したそうである。
零細なカルト的観念から始まって主流の堂々たる信仰体系へと、思想は発展を遂げる。たとえば、国際的な共産主義は、卑小なカルトがいかにして短期間で世界的な信仰に発展することが出来るのかを示す好例であると長らく考えられてきた。共産主義のことを口にするだけで、不安に怯えた。ソビエト連邦が消滅した後も共産主義が持続できるのか、それはまだ分からない。しかし、社会秩序の中に諸々の矛盾が存在する事実は、国際共産主義の勃興とともに、大きく浮かび上がった。共産党のドグマは「世界が進歩する中で、それぞれの歴史段階の資質を決定する駆動力が存在する。それぞれの段階での主な駆動力が、人類の経済的関係に根本的な矛盾をもたらす。この矛盾こそが革命による解決を求める」と言う。聖書の物語におけるモロク神の登場は、そのような矛盾の一例に違いあるまい。

聖書「殺人の奨励」は、商業の象徴

神と宗教を頑なにかつ公然と拒絶して出現した共産主義とは異なり、経済霊は、「主なる神」と呼ばれる宗教的イメージの覆いの背後に隠れている。聖書が、カルトを急激に発展させようと残虐行為を叱咤激励するのは、モーゼ率いる新興カルトの神のしじとしては珍しいことではない。聖書には「イスラエルの主なる神は言った。門から門へ出没し、全ての兄弟を、全ての友人を、全ての近隣者を撃ち殺せ」とある。この文章の「門」とは、市場が開かれ商売が行われていた城壁都市の場所を指している。この一説が象徴的に意味するものは、現在、市場の力として認識されているものを裏付けていると考えられる。殺人の奨励は、商業を象徴するものとして特殊ではない。現代の市場の慣習として、競争相手を「殺す」ことができるのを心待ちにしているのが分かる。
出エジプト記の中に隠匿された経済霊のカルトの到来は、経済的な利益の獲得が人類の駆動力となる時代が始まったことを示している。「経済霊が育むものは、意識的であれ無意識的であれ、商売において特段の決まりきった行動様式を取らせる複雑な精神思想」であり、主にマネーの計算が駆動力となっている。
人々の心の中に棲みついている経済霊は、商売と市場にだけ存在するものではない。政府機関も同様に感染している。たとえば1980年の会議で、アメリカの内国歳入庁は、国際租税条約のことを宗教に喩えて話した。租税条約の交渉を行う過程で、アメリカの役人は租税の観念を二種類に分けた。「第一に神学理論上の問題があり、次に教義としてどう適用するかの問題がある」と彼は言った。この宗教を使った喩え話は、協議が終わるまで続いた。「税金の異端」という議論も出たし、「税金の十戒」という表現もあった。その後で、「所得税の原則の神学理論」について対話がもたれた。最終的には「米国の税制、米国の租税条約規則と、外国の総合企業の株主税制の相互作用」として、(モロク神の)税制宗教を述べる所まで延々とプレゼンテーションは続いた。経済霊とその神モロクの圧倒的な支配は、特に米国ではそうであるが、現代の生活の全領域において顕著である。

聖書に基づく宗教に共通する倫理観の廃棄

法律制定を支配する経済霊のモロク的パワーの典型例は、米国の金融法制の中に見ることが出来る。アメリカの政治神話が」あくまで政治神話である所以は、合衆国憲法の法的建前としては政府が金融機関をコントロールし、公正な競争と人々の安心を確保するよう規制することになっていることだ。真実は全く逆である。米国の銀行が政策を思いのままにしているだけでなく、合衆国憲法に反する現行法制においては、米国に支店をもつ外国の銀行は、連邦政府の銀行法から完全に適応除外になっている。この矛盾にはびっくりさせられる。米国の銀行が、自らの深謀遠慮で外国の銀行に適応除外にしておきながら、外国との競争について文句を言うのはどういうことか?
自分たちの利益のためにロビイストを使って議会に圧力をかけ法律を作らせていながら、外国の銀行によって不公正な状況に置かれていると自ら言えるのは何故か?旧約聖書が奨励している詐欺の実例が、ある最有力な銀行家に見せかけの「不平不満」の中に現れている。彼は、外国の銀行の役員たちが困って泣いているという嘘をでっち上げた。彼が提案した法律案の狙いは、いわゆる外国優遇を撤廃することではなく、大恐慌の時以来、大商人の銀行家たちによる悪用を禁じる安全装置…全米に施行されていた、金利の上限と銀行業務範囲の制限…を撤廃することをこっそりと法案に盛り込むことだった。
これは重大なことだが、経済霊とマネーが聖書に登場するや、人間と神との関係に極めて大きな変化が起きた。ジュリアン・ジェインズ教授は、彼の『二分脳の故障が意識を生んだ』という著書の中で、「マネーを発明する以前は、神々の声を聴くことが可能であった」と我々に教えてくれている。現在我が物顔に大手を振るに至っているマネーと経済霊(マネーを強迫神経症的に信奉する想念)の到来(聖書の時代)と時を同じくして、人類が神々の声を聴く能力を失ったらしいとは、何とも衝撃的な事件であるまいか。神々の声を聴くことが出来ない人間集団には、もはや経済霊が吹き込む邪悪な思考に対抗するのはとても不可能であったろう。
経済霊が旧約聖書の神(モロク)に由来する駆動力であることに宗教指導者たちが気付かないままでいるのは、モロクのオカルト・パワーによる目くらましかもしれない。旧約聖書の神が、自ら「選んだ人々」と接触を始めたのは経済的な関心によるものであった事実を忘れてはならない。詐欺による財産獲得を後方支援する存在として、経済霊との関わりが始まったことは特筆すべき特徴である。この倫理観の廃棄は、聖書の諸宗教に共通して述べられているこの詐欺の性癖こそが、逆神モロクとそのカルトであるマネーの経済霊が人類に入り込んできた証拠である。経済霊とモロク神が、聖霊の宗教のヴェールをかぶって何百年も活動してきたことは、数々の証拠によって裏付けている。現代の伝統宗教が、新興カルト(むろん、このカルトも後述するナチスは別格として大半は新興マネーを信奉しているが)に対して熾烈に抵抗しているのは、同様に新興カルトを敵とするモロクとの相互連携の証拠であると捉えることが出来るだろう。

経済的矛盾をてこに十二人起業家と「使徒」がキリスト教を創始

経済霊がもたらしてきた道徳的矛盾を超克するという大義名分を掲げて、周期的にカルト的性質の新たな観念が現れ出てくる可能性は十分あり得る。共産主義が歴史的な矛盾を原動力として形成されたという考え方はその一例である。共産主義運動においては、世界の進化の原動力は経済的な矛盾から来ているというのが基本的なドグマである。
キリスト教の勃興の原動力として経済的矛盾が存在したことは極めて明確に知ることが出来る。経済霊の最初の世界帝国であるローマの経済事情は、かつて中流階級であった人々がマネー本来の稼働力によって次々に社会の周縁に追いやられる状態だった。経済機会が縮小し、もはやローマ帝国に中流階級を支えることが出来なくなっていた状況に直面した人々が、12人の起業家と「使途」と呼ばれる専門職の指導のもとに生き残りをかけて組織したのが最初のキリスト教会であったという明らかな例がある。
帝国が日の出の勢いであった頃、拡大する富を目前にしながら経済的に周縁に追いやられるという矛盾に陥った中流階級出身の人々は、生き残りのために共同体的なカルトを結成した。全般的に公民権が存在しなかったことと、希望のない大きな絶望感を抱えていたことについては、奴隷たちであろうと、ますます周縁に追いやられる中流階級であろうと、ローマ人であれば共通するものであった。
罪を社会共通の分母として認識するキリスト教カルトは、階級に関係なく全ての人に救済を与えた。これによってもたらされた社会意識の水平化は、帝国の上流階級の多くの女性に受け入れられ、彼女たちはカルトを支援する資金や資産を提供した。このキリスト教カルトが発展してキリスト教会となり、最終的には帝国全体の官僚組織を呑み込んでいくのであるから、驚くべき話である。
キリスト教初期のカルトにチャンスを与えた環境と、国際共産主義に発展したカルトを取り巻いていた環境の類似性も特筆すべきである。双方とも、人々の経済認識や経済状況が「変革」へと大きな原動力となっていた。共産主義のカルトは、外交官であり政治学者であるかの有名なヘンリー・キッシンジャーが「一つの宗教」であると呼ぶに至った地球規模の信仰体系へと発展していった。既成の秩序と新興カルトの戦いが20世紀の歴史そのものであるかのようである。ドイツの民族主義とイタリアのファシズムは二つのカルトじみた勢力であったが、両者とも利子稼ぎのマネーの経済霊とモロク神にとって直接的な脅威となった。

邪神モロクに敢然と挑んだヒトラー民族社会主義カルト

ドイツの民族社会主義をカルトであると考えた人は少なからず存在する。実際に党幹部の中には、指導者アドルフ・ヒトラーを救世主として考えたいた者もいた。ヨーゼフ・ゲッペルスは、ヒトラーの演説を聞き、党の集会でヒットラーに会った後で、「この男は何者なのか?半分人間であり、半分は神である!真のキリストか、それともヨハネに過ぎないのか?」と感想を述べている。ヒトラーは自身を救世主であるという考えは拒絶し、ただの洗礼者ヨハネに過ぎないと認めている。「私は救世主ではない」とヒトラーは宣言した。「救世主は私の後にやって来る。私はただ本当に民族共同体を築きたいという意志を持っている。それは、神学的でもあり経済的でもある包括的なものであるが、基本的には政治的な任務である」
ジャーナリストのドニ・ド・ルージュモンは1935年3月11日にドイツのある町でヒトラーの演説集会に参加した経験から、民族社会主義の中にカルト的な性質があることに気付いたと報道している。ドニは友人とドイツの政治情勢について話をしていた。集団的な魂や精神というものがあるのか?それは民族社会主義のような大衆運動の熱気に惑わされ酔ってしまうような人々を相手に、個人の魂などないと説得する弁論術的な常套句に過ぎないのか?と、ドニが質問すると、友人は数ブロック先のホールで開催されるヒトラーの演説を一緒に聞きに行こう強く勧めた。
その時は午後3時であった。ホールの入り口は5時まで開かなかった。演説が始まったのは9時だった。友人は、6時間も後に予定されていた演説を聞くために、午後3時の段階ですぐに出かけようと言い張ったのである。総統は午前11時にホールのバルコニーに一瞬だけ顔を出していたという。SA(突撃隊)とSS(親衛隊)はすでに広場に微動もせず整列し、雰囲気を醸成していた。ドニと友人は、何とか2時間を過ごした後、午後5時を少し過ぎてホールに入場することが出来た。
ドニ・ド・ルージュモンは帰国してからしばし熟考し、このように結論付けている。「キリスト教徒よ、地下墓地に帰れ。キリスト教は敗北した。控え目な儀式に、小規模な集会、哀れな聖歌、どれも全部葬り去られた。残っているのは、あなたの信仰だけだ。しかし、それこそが本当の戦いが始まる場所である」政治的な観念と、聖書の宗教のヴェールに隠れたモロク神との間の戦いに、大きな社会の公益が巻き込まれるかもしれないという可能性を前にして、思考は凍り付いてしまう。
ドイツの大衆運動の他にも、第二次大戦中の日本も、既存の経済秩序を脅かす一種のカルト観念のようなものとして考えられていたと言えるかもしれない。第二次大戦の政治的な事例からは、ヒトラー崇拝のドイツと、天皇崇拝の日本は、地球上で特別なカルトであったことと、神の概念において独特であったという意味で、旧約聖書の預言者たちによく似た状態であったと言える。

殺戮・強姦の残虐を指示するも「慈悲深き」神信心がモロク神を手助け

第二次世界大戦の残虐行為に現れた暴虐性っは、聖書の歴史という文脈の中を見れば、それほど珍しいことではない。読者の中にも、慣習として道徳的とされる行為と、人々が望んでいることや罪のない者に対して聖書の神が無関心であることとの矛盾に、信じ難いものを感じる人がいるだろう。この無関心が人々に伝わり、聖書の神はいったい何者なのかという懐疑論の根拠となり、聖書信仰者への批判となる。アメリカの作家マーク・トウェインは、残虐な処罰を求める聖書の祈りと、特に「殺してはならない」と聖書が言っていながら、多くの罪のない人々が犠牲になっていることに矛盾を感じ、煩悶した一人であった。
トウェインは、聖書を読解していく中で、神から自らの民に対して「私が相続として与えった都市を奪う」ことを命令しているのを発見する。「そして、剣の刃で全ての男を殴りつけろ。それから、全ての男の子供を殺し、男と寝て男を知っている女も全部殺すことも必要だ」。この聖書の一節は、神が強姦乱交と大量虐殺を命令しているとしか理解しようがない。
神は冷淡に怒りをぶつける存在なのかもしれないことを知ったトウェインは、何か不作法なことをしでかせば神を怒らせ、士師記7章16節でミディアン人に起きたような破滅が国全体に降りかかってくるのではないかと心配した。城壁を汚した都市は全員殺戮しなければ神を満足させることが出来なかった。木に小便しても、ズボンに小便を漏らしても罪にならないが、城壁に小便をすることは許されない。城壁に小便をした者が男性器を切り取られるだけでなく、一族と友人も含めて全て根絶やしにされた。
トウェインは、、男と女と寝ながら女を殺した可能性について、如才なく沈黙しつつも、聖書の記述に従って正確に伝えている。常軌を逸した神の命令であっても、信奉者の信仰心は揺らぐことはないようだ。
トウェインは、民数記31章18節で聖書の神によって幼児嗜好的な虐待が命令されたことを意図的に無視している。この一節で神は「しかし、全ての女子供は、つまり男と寝ておらず男を知らない女子と乳幼児は、お前たち用に生かしておけ」と言っている。もう一つの恐怖のエピソードでは、「さあ行け、殴り殺せ、やつらの所有するもの全てを破壊しろ。容赦せず、男も女も、幼児も乳児も、牛も羊も、ラクダもロバも殴り殺せ」という指示が神からなされている。ラクダが出てくるということは、この指示がなされた時期は有史前の神話ではなく、紀元前600年以降の古代のいつかに再配置しなければならないことになる。この暴虐の数々から顔をそむけつつ、なお、聖書の神を慈悲深いものであると解釈するための独特の専門知識があるのだと、聖書の宗教は言い張っている。本書では、こうした暴力と殺戮行為は、モロク神と経済霊の系列にある逆神が存在する証拠であると考える。

マネーの「二重思考」を示すテンプル騎士団崇拝のバフォメット

さらに、救世主とイスラエル神殿に関する話で、ユダヤ教とキリスト教の間にバカバカしい矛盾があることに、我々は驚いてはならないだろう。ユダヤ人が待ち望んでいた救世主は、非ユダヤ人の神殿を厳粛する役割を期待されており、それによってユダヤ人の宗教と商売にとって安全な世界を実現することになっている。一方でキリスト教の救世主は、キリスト教徒とともに神殿を占拠し、ひいてはユダヤ人をキリスト教に改宗させることで一掃する使命をもってやって来ることになっている。聖書の信奉者にこの聖書の矛盾を解決する気がないことは、経済霊のようにこれらの宗教から利益を得ている何か別の勢力がおそらく存在する証拠であることをほのめかしている。聖書は、人々が「別の神々に向かう」時が来るであろうと予測し、この矛盾によってモロクが繁栄する可能性に言及している。
神殿や暴虐行為のことなど言語道断な矛盾があることに加え、様々な聖書の文章はそれぞれの時代の影響によって解釈が変わっている。たとえば、「航海を渡る人々」という有名な物語は、現代的(合理的)解釈では人々は「葦の海」(スエズ運河の紅海でなく、葦の生えた湿地帯)を進んで行ったと教えられている。神話上の動物ビヒモスの棲処とされる植物の葦は、聖書の物語では秘儀的な重要性を与えられている。この野獣は、より大きなオカルト的意味では、悪魔、もしくは、黙示録に記された終末の野獣を象徴していると考える人もいる。されなる秘儀の進化にともなって、ビヒモスは、テンプル騎士団が崇拝した偶像バフォメットになった。ここでも、裏側にもう一つの顔を持つバフォメットの偶像は、マネーのルールを会得する上で重要な意味をもつ(経済霊とモロク神の)「二重思考」を示している。
出エジプトの事件に関する意見は依然として分かれている。36年間(一般には40年間と伝えられている)の砂漠放浪期間に、選ばれた民がどのルートを通ったのか論争がある。この秘儀的な意味で変化してきたことや、聖書について多くの参考文献に歴史的正確さが欠如していることから、聖書の記述は、すぐれて喩え話あるいは暗号であることが窺える。

パスカルも認めた「暗号としての聖書」は、言葉に象形文字

前出のブレーズ・パスカルは、聖書の文章には比喩と象徴があることに気付いた。パスカルは、聖書で神がなした行為と、慣習的に正義と愛の神として考えられているものの間の矛盾を、暗号の証拠であると見なした。パスカルの分析によると、聖書には暗号で記述されているだけでなく、「一つの暗号には二つの意味がある。預言者は、その意味は理解されることなくヴェールに包まれていると明言している。隠されているために、我々は理解することなく読むことになる。文字通りの記述に明らかな矛盾を見つけたならば、それは二重の意味をもつ暗号であると思わなければいけない」ことを認識することが重要である。聖書は、つじつまが合っていると同時に会っていない。全てを語っていながらも、何も語っていない。必要なものは全て文字として記述されているが、同時に、文字通りの文章は意味不明である。聖書は、時の経過とともに意味が明らかになっていくという意味で、トーテム(精霊のシンボル)である。
聖書は、我々が知っているような暦に従って、時系列に出来事を記述したものではないことは確かである。聖書の宗教が、信じる者に対して、比喩や寓話を使い、何かを伝える暗号文のようなものとして、歴史の中を進んでいることは明らかである。聖書の最初の5章分は暗号で記述されており、普通の言葉として翻訳することは不可能であるとカバラ(悪魔学)で言っているのは、そのことを知っているからである。この暗号は、宇宙を浮遊する精霊である。暗号のテキストは、実は我々自身の中に投影されるよう意図されたものであり、そのために啓示として機能する。「暗号としての聖書は書き記されたシンボルである。特に説教の中で大きな声で読まれた時に威力を発揮する、いわば言葉の象形文字であり、その中に暗号化された意味が隠されている」このような啓示が起きるはずなのに、聖書の教えは反対に、人類と自然との間に介入する「新たな力」が出現したことを隠そうとしているようだ。この商売と市場の中に現れた「新たな力」は、地球規模の市場力をもつ大商人を動かす経済霊として簡単に見出すことが出来る。「この算術で表現される力がマネーとなって現れる時、無限の価値を得て、人類に終末をもたらすのに十分な規模の甚大な害悪を及ぼす力を持つことになる」
経済霊のマネー的側面は、聖書に登場する多くのヒーローや預言者たちの寓話を通じて窺い知ることが出来る。これらヒーローや預言者たちのおかげで、地球の歴史を通じて、経済霊の暗号が公開テクストとして確実に伝達される。暗号が解読されないままのほうがモロク神の利益になるようだ。そうしなければモロクのカルトは、有害なマネー計算の影響を及ぼし地球に荒廃をもたらす。モロクのカルトは、こんな最後の醜態を見せるのに十分な力を発揮するだろう。マネーの副作用である自然汚染によって地球の時代が終わるという予測は、様々な分野で明白になっている。

カトリックのドグマを大掛かりに変更した「宇宙からの存在」

経済霊とモロク神が到来した話を隠匿する比喩や寓話、暗号に加え、詔書を信じる者にとっては、まだ他にも矛盾がある。逆神モロクが金融カルトとして人類の中に存在するという可能性だけでなく、それとは別に、ときおり地球に出現する「宇宙からの存在」があることを示す証拠がある。NASAの月面着陸計画の時に、奇妙な出来事があった。「いまだに話してはいけないことがある」。アポロとジェミニの全飛行は、UFOたちに追跡されていたようである。これらのUFOは、地球以外から来ている。宇宙飛行士たちがUFOのことを報告すると、いつも口外してはならないと命令された。宇宙飛行士にとって極めて深遠な体験であり、中には信心深い人間に変わってしまった人もいる。人格が変わった人もいる。精神障害になった人もいる。人類の月面での第一歩を観察しているUFOたちの写真が「モダン・ピープル」誌1975年6月号で出版された。地球上で活動する宇宙の存在があるという事実は、少し考えれば分かることだが、聖書の神性・霊性の物語に対する空前の矛盾になりかねなかった。
無理からぬことであるが、多くの人にとって宇宙船の総菜はあまりにも信仰と矛盾したものであり、必然的に宗教の教義やドグマを拒絶せざるを得ないものだった。そのような宗教拒絶は、前もって想定されていなかった。宗教教義や組織は、何百年もの間、変化を吸収する包容力を見せつけてきた。宗教船の旅人たちによって突き付けられた変化への「対応力」は、ローマ教会によって概に示されている。ヨハネ23世はいつもらしくなく緊急対応をし、1960年から1963年の第二次バチカン公会議を招集した。
この会議の結果、長きにわたって堅持されてきたいくつかのカトリックの真実は覆された。第二バチカン公会議の結果、救済はカトリック教会だけの特別な領域ではないという決定がなされた。異端者の定義を変更したこの決定の衝撃は、いまだに多くの研究者たちをはぐらかしている。
第二バチカン公会議は急遽開催し、長年堅持してきたカトリック教会のドグマを大掛かりに変更した背景には、「宇宙からの存在」と遭遇したという人々の根拠のある報告と直接に関係しているようだ。オルフェオ・アルゼンチのような献身的なカトリック信者が、数々の地球外生命体の来訪と誘拐について伝えた。UFOを見たり、UFOに出会ったりして取り乱した教区民たちが多くの神父に詰め寄ったという事実は、バチカンの深い秘密になっているはずだ。
アルゼンチンの報告は、おそらく聖書の列王記下2章1節~17節にある空飛ぶ存在の記録以来、最も目覚ましいUFO報告である。聖書では、エリアが「引き上げる」時、「打ち上げ」が失敗に終わったかもしれないので、エリアが落下したであろう地域をくまなく3日間探すようにエリシャに依頼する。その地域の面積は、フロリダ州ケイプケネディにあるNASAのスペースシャトル回収予定地とほぼ同じである。1954年に出版した預言者的な警告書の中で、生物圏を世話すべき人類がとっている行動に対し、「宇宙からの存在」が我々に警告しているとアルゼンチは言っている。その存在は、極めて具体的に、自然環境の悲劇的な破滅が、未来の特定の日付けで起きることを警告した。その地球生命体は、「ソ連人の手によって甚大な事故が発生する」と予言した。聖書の40年という数字の秘密は、この宇宙人との接触によって明らかになった。1955年に出版されたものの、アルゼンチの誘拐は1940年代後半に始まっていた。この警告はチェルノブイリ原発事故として1986年4月26日として発生した。
アルゼンチや、彼に続いたUFOに誘拐された人々の報告によれば「宇宙からの存在」は、人間の経済活動の影響によって生物圏がダメージを受けることを心配しており、その経済活動は悪魔によって動かされていると考えている。生物圏への配慮が道徳の尺度であるならば、経済霊のカルトとモロク神が悪魔を手助けする勢力であることは明らかである。宇宙人たちは、人類に対し、自然環境を守るように、警告し、要請し、哀願している。
このためには明らかに、モロク神の経済霊の力を退けることが求められる。もともと国家が権威を与えたマネーなのに、その主権国家が中央銀行(FRBなど)から利子付きでマネーを借りなければならないという奇妙なカルトじみた思い込みを捨て去ることが急務である。中央銀行を設立した当の国家が、政策を実現するために、その同じ中央銀行にどういうわけか依存している。永続的な債務、不当な利子稼ぎのマネー、株式取引による詐欺に縛られることを、もういい加減に容認するのはやめにすべきだ。そして、本来の地球の世話に邁進する「新しいカルト」を構築し、支持しなければならない。