現代スサノウの言霊 

7.暗号名は「イスラエル」

「イスラエル」の元々の意味は地名ではなかった

イスラエルが地名だというのは誤解である。もちろん、こんなことを言うと、何百年間も人間がやって来たことを否定することになる。多くの宗教もイスラエルを土地の名前として教え伝えている。「ユダヤ人」を自称(詐欺)する人々にとって「イスラエル」は、(欺き騙す)「ユダヤ」思想の核心をなす重要な土地である。原理主義プロテスタントなどのキリスト教各派もイスラエルを土地の名前だと考えている。彼等は、聖書で神が存在すると言っているからイスラエルは存在するはずだと主張する。イスラエルという土地に、「エルサレム(当たらな平和)」という聖都がなければならないと言う。現在のイスラエルが聖書の中の「ユダ」として記述されている場所にあるにもかかわらず、現在のイスラエル国とエルサレムは聖書の言い伝えによるものだと考えている人がいる。都市エルサレムは聖書のユダに存在していたが、決してイスラエルには存在していない。
あちことから盗用して搔き集めた話をさんざん書き換えて編集して出来た聖書にある通り、神は「イスラエル」を、神自らが「選んだ民」の土地として与えた、と信者は言い張る。古代イスラエル人に関する聖書の話は、よく史実であると表現される。聖書が歴史を記したものであるという証拠は何一つないが、なぜか多くの研究者は記録された史実として扱っている。信者が自明のごとく歴史上存在すると主張する「イスラエル」や「選ばれた民」を示す証拠が全くないことは驚くべきことである。才能豊かなラビであるエルマー・バーガーでさえも、「実際のところ、現在のイスラエル国家がユダヤ人の先祖代々の祖国であることを歴史的に証明するものはない」と言ったそうである。聖書の預言は「私はエルサレムを全ての人間にとって苦難の石とする。その石を背負うものは例外なく痛みを伴って傷つくであろう」と宣言する。ロンドンの首席ラビは、第二次世界大戦の前、(よくあることだが)表向き飛び降り自殺と処理される高所からの落下死の少し前に、「シオニスト国家イスラエルを考え出したのはユダヤ人に対する罠である」と公言した。
聖書に縁のない宗教の人々にとって「選ばれた民」のために「特別な土地」があるという話は、意味不明なだけでなく、おそらくは恐怖心すら掻き立てられる。実に傲慢な態度に思えるだろう。不義不正を許せない生真面目な人であれば、セム人(実際はセム人ではないのだが)の優越性をことさら強調することで論外なケンカを売っているのではないかと受け取れるはずである。あるいは弱者を騙す狡猾な陰謀をそこに嗅ぎ取る人もいるだろう。こうした困惑に応えるためであろうが、最近は、セム系の宗教の考え方を拒絶する様々なイデオロギーが登場しつつある。「選ばれた民」と「イスラエルという土地」の物語には、邪悪な想念が含まれているという人もいる。彼等は聖書の神話と政治的な国家を一緒くたにしている。イスラエルの民族国家は北米の政治という身体に出来た政治的な悪性腫瘍であることを示唆する数多くの報告をインターネットで見ることが出来る。レーニンの預言では「イスラエルは死をもって償うしかない、口にすることをはばかるような行為をするだろう」と予測しているが、預言者たちが語っているのが、個人のことなのか、国家のことなのかは、はっきりしていない。

英国諜報機関が発明した「英国が本当のイスラエル説」

「イスラエル」という名前の議論を始めれば、知識人から政治、オカルト分野まで幅広い範囲の様々な心情と解釈が絡み合ってくる。明らかに欠陥のある聖書解釈によって複雑化され、問題はさらに混迷を極めることになる。実際のところ聖書では「ユダ」と呼ばれている地域内にあるにもかかわらず、今日「イスラエル」と呼ばれるようになった地域への締め切れない思いは、政治的・経済的目的を達成するための用意周到な詐欺であると考えられる。
古代イスラエルの十部族の神話に支えられて、聖書のイスラエル伝説は依然として有効で在り続けている。失われた十部族は、かつてイスラエルで暮らしていたが、一度は消滅し、英帝国のアングロ・イスラエル神話の中に再登場したとされる。英国が本当にイスラエルであるという発想は、19世紀半ばに、英国の帝国主義を正当化する手段として、ケンブリッジとオックスフォードにある英国諜報機関の創造力豊かな研究活動によって発明された。聖書の十部族の物語は、「アングロ・イスラエル神話」を正当化するために盗用され、大成功をおさめた。今やイギリス人こそが本物ユダヤ人であるという神話は、旧大英帝国地域の全領域の活動を支え、イギリス人が「選ばれた民」の本当の子孫であり、それ故に旧約聖書の正統の血筋であることを示す根拠になっている。
この思想は、米国でも多くの宗教集会で教宣されており、アングロサクソン系アメリカ人が特別な存在であることを強調するために利用されている。一時有名になったカリフォルニアの「パサディーナ神の世界教会」の故ハーバード・W・アームストロング牧師は、「失われた十部族」、つまり正真正銘のユダヤ人としての世界のアングロサクソン概念を米国で流布した中心人物であった。アームストロング牧師は、旧約聖書のイスラエルは実は現代の大英帝国であると説いた。そして彼は、1983年2月6日のテレビ放送で、米国の最高裁判所は米国の公立学校から意図的に神を排除したと述べた。「失われた十部族」の本物のユダヤ人(つまり大英帝国)は、アメリカ人をアメリカ独立革命の神意から精神的に切り離し、イスラエル国家に表された俗世の神への服従に置き換えたかったようである。今日の現実世界に存在するイスラエル国は、真のユダヤ人(英国のアングロサクソン)が本当のイスラエルであるという最終的な認知を達成するまでの中間段階に過ぎないという複合暗示だと思えば、身がすくむような気がする。アメリカのマスコミが、「無口で犠牲と忍耐の精神をもっていた」アメリカのヒーロー人物像を、「不平不満ばかりで泣き言をいう」逆の意味のヒーローに置き換えたのも、アームストロング牧師がアングロサクソンこそが本物の猶太人だと説いていた1960年代初頭の頃である。かつては美徳の象徴であったアメリカの小さな町が、悩めるアメリカ文化の象徴として位置付けられて編集され、印刷物や映像に描かれるようになった。
ベストセラーになった『聖なる血と聖杯』は、「アングロ・イスラエル」の神話を、宣伝・普及し、実現する活動の一例である。この話は、英国王室のチャールズ皇太子は新約聖書のイエスの血を継いだ子孫であると言っている。その他の野心的なユーロッパの王たちも同様にこの本から恩恵を得た。このアングロ・イスラエルの物語は、経済霊とモロク神によって衝き動かされる地球規模の中央銀行による金融帝国主義とも大いに関係している。エルサレムに再建される「第三神殿」は、「新しいマネー」とともに中央銀行として使用され、十部族の「真のユダヤ人」であるアングロサクソンによって世界を支配することになり、モロクの「横暴な腕」となることは間違いない。

モロク神は、BIZWOGの本部エルサレム第三神殿から指令

「ザ・ノース・アメリカン・リーダー」tぴうニューズレターが以前にあったのだが、それによると、エルサレムの第三神殿は、現時点では内密のBIZWOG(アングロ・イスラエル・シオニスト世界占領政府)の本部となるよう計画されているそうである。ヴェールを外したBIZWOGは、マネー・システムと米国のドル通貨のコントロールを通じてモロク神のために世界を支配することになる。このコントロールのためには、米国はマスコミに操作された電子的な強制収容所として貶められる必要がある。企業大商人の従順な下僕である収容所の囚人は、命令された通りに消費する。マインド・コントロール された囚人たちのひきつった作り笑いは、真実をすぐに忘れること、真実に無関心であること、そしてBIZWOGの命令するままに世界中の都市と人々を爆破する準備が出来ていることを、覆い隠すことだろう。BIZWOGのプロパガンダによって囚人たちの事実認識は切り替わる。残虐な殺略行為は、自由と民主主義と解放を追求するためと(イラクやアフガニスタンへの不埒な米軍侵略戦争など)考えられるようになる。モロク神と経済霊の企業パワーの影響下にある人間の特徴は、自分の利益になることであれば何でも正義であると解釈することである。この利己的な考え方に抵抗する囚人がいれば、すぐに名誉棄損であるとか、背信行為などと、あらゆる理由で反ユダヤ主義として非難されることになる。
注意深く観察している人にとっては、十部族の神話の陰で蠢いているモロク神の力は極めて明瞭に把握できる。そのためには、モロク神の力が、「イスラエル」を、政治主体であると同時に宗教的信条として利用していることに気付く必要が十分ある。米国の新約聖書に基づく建国来のプロテスタント派キリスト教を、個人的な救済の教義から、旧約聖書のイスラエル国の神話を支持する政治的な教条に改変したのは、モロクの意識体がもつパワーの生きた証拠であると考えられる。

「イスラエル」という言葉は生命そのものを指している

秘儀の文献によれば、ここには、宇宙的な勢力が働いていることが判明している。地名としての「イスラエル」という発想に対して、もし地名という考えを横に置いておけるのであれば、より深い知識を受け入れることが可能になり得る。「イスラエル」という名前の本当の完全な意味は、「エロヒームに対して継続的に勝利する戦い」という宇宙的な感覚で理解されることになる。地球上の生命に関連するものとしての「エロヒーム」の定義は、「全ての存在と生命が、人間に対して開かれたあらゆる可能性に向かって進化するプロセス」として理解しておく。「イスラエル」という言葉は生命そのものを指している。この全プロセスは、光合成の触媒の神秘として認識すると最も理解しやすい。人々や土地についての聖書の神話とは違って、イスラエルは、「始まりと存続」に関する科学を指す暗号なのである。
このように目覚めた意識は、「イスラエル」という言葉を、「宇宙において危機に瀕している最初にして究極の原理、つまり、不確定であることの自由」を暗号化したものであることに気付く。将来の時間に従って複利で増える利子のマネーに根本を置く経済霊は、将来のことを確定させる指示をすることによって、「不確定であることの自由」を侵害しているということが見えてくるであろう。自然は、地球の世話人の責務の失敗によって乱されることがなければ、自然として行うべきことをやろうとする。
地球の世話人としての責務はいま、脅かされている。自動車のエンジン稼働によって80℃の熱の衝撃が毎日何百万台もの自動車から発生していることは、間違いなく、母なる地球の循環を乱している。
責任感のある地球の世話人であれば、この熱の衝撃を数カ月ほどの聞かんで9割削減することが可能である。個室が10個ついた車両を導入し、ドア・ツー・ドアの乗客を拾って送り届ければ、たとえ内部燃焼エンジンによって動くものであろおうとも、毎日の都市部の熱の汚染と燃料消費を9割減らすことが出来る。多民族が押し合いへし合いながらの耐え難い大量輸送も回避可能である。しかしながら、そのような都市交通の実現は、tだちに、慢性的な政府債務と利子稼ぎのマネーの神、モロクへの攻撃を意味する。自動車利用人口の削減は、自動車を所有し、高い利子を払うために利用されている、儲けをもたらす分割払いの自動車ローン契約をただちに減らすことである。

イスラエルの寓話は、マネー・システム到来を伝える比喩であり「公開暗号」

古生物学、地理学、考古学の研究は、聖書の「イスラエル」を十分な一貫性をもって分析することに失敗している。聖書の主要人物の記録でもそうであるが、年代特定は問題が多い。それでもなお、介入し続ける神とその選民の神話を信じる者は執拗に存在する。本書は、寓話としてイスラエルの物語を検討すれば、イスラエルの歴史的な問題は理解しやすくなることを提案する。この寓話は、「始まりと存続」に関する科学の観点から、経済霊とモロク神の到来を説明するものである。この寓話に出てくる地理、人々、介入する神は、マネーという現代のシステムがいかにして人類にやって来たのかを伝えるための比喩であり「公開暗号」である。
自然から乖離することに固執するイスラエルの神話は、旧約聖書の神のことでも場所のことでもない。イスラエル神話が存続しているのは、人間の精神の知的構造の中のシナプス(私欲連鎖)によるものに思える。偶然によってマネーが発見されたのも、このシナプスによって引き起こされたようである。この事件によって、古代神殿の聖職者は過剰な権力を持つようになり、商売と生命を解釈する人間の能力が、本当に変わってしまったのである。この超自然的(極めて人為的、人工的)な知的シナプスが、周期的に訪れては人類の思考に衝撃を与え、大激変をもたらし、宗教(邪教)となっていったものと、ここでは考えておく。

アケナトンは、光合成から「イスラエル」を未知の力の原理卍と捉える

そのような霊的ひらめきの別の例としては、エジプトのファラオ、アケナトンによる光合成の「不確定な奇跡」の直観的な理解がある。アケナトンは、物理的な太陽ではなく、太陽がもつ何らかの神秘的な力が地上の全ての生命を動かす力となっていることを、何らかの方法で理解し、それを「イスラエル」と名づけた。イスラエルという言葉には、物質と生命の創造をもたらした変換を象徴する、依然として謎めいた力の意味が含まれている。イスラエルという言葉で表現される謎の未知の力の原理は、多くの社会では鉤十字」(卍)によって表されると考えられている。アケナトンがこの驚くべき発見をし、その後それを自らの宗教に取り込んだ時期は、アケナトンの治世の年代から特定することが可能である。公式見解では紀元前1250年頃ではないかと思われているが、ヴェリコフスキーが進めた研究結果によれば紀元前1450年~紀元前1250年という期間で何世紀もずれている可能性があることが示されており、私は、アケナトンの時期はおよそ紀元前850年~紀元前750年ごろの可能性が高いと考えている。従って本書では、アケナトンとエジプト脱出の伝説はともに紀元前9世紀頃であろうという前提をとっている。
この時期の後、人間の思考様式を変質させるような集合意識のシナプスが存在していたようであり、それを裏付けるように紀元前600年までに新しい宗教がいくつも登場している。エジプトだけみても、知性のぶつかり合いのようなものがあったことが窺え、その後に既存の3つの宗教が合成されたのである。アケナトン以前のエジプトには、「ラー」という名前の神がいた。この神は、実際に空に見られる物質としての太陽であった。それから、「イシス」という女神もいた。女神は、孵化と出産を通じて人類に語りかけていた。
三番目の力の名は「エル」であった。当時知られていた全ての世界に共通して、エルは至高の存在を意味していた。それぞれの神は、多くの聖職者によって神殿に祀られ、エジプトの信仰体系を包み込んでいた。
ファラオのアケナトンは、これら3つの宗教と、生命と究極の意義について熟慮した結果、これらの対立する宗教は、彼の宇宙観と相容れないものであると判断した。アケナトンは、数が多過ぎる聖職者と神殿に置き換わる新しい信仰体系を打ち出した。アケナトンの思想は、既存の全ての宗教と聖職者を事実上禁止し、死後の世界という思想や、物理的な太陽を神であるとする考え方を排除した。アケナトンの理解では、神は太陽ではなく、太陽が持つ神秘的な力であった。「その力とは全ての創造物が存在する究極の理由であった。そして、太陽の光の声、つまり、生命を与える神の言葉を意味するものであった。それを彼はイスラエルと呼んだ」。現代科学では、この生命を支える、目に見えない太陽の力のことを、「光合成の触媒作用の神秘」として捉えている。我々が光合成の触媒作用の神秘として捉えている太陽の神秘的な力を、アケナトンは天才的直感で認識したのである。彼はイスラエルという言葉の音で認識される「神の声」だと考えたのである。
アケナトンの唯一神、「イスラエル」と称される普遍的な力は、既成の宗教勢力による抵抗を受け、最終的には打倒されてしまった。アケナトンの生命を支える一つの神秘の力への抵抗が広がったと思われる時期の後に、奇妙な時期が訪れている。そのには、普遍的な力は混沌(カオス)であるという思想があった。後にプラトンは「思考と物質は宇宙の永遠なる2つの原理であった。この2つは、他の何にも依存していない。我々が知っている宇宙は混沌とエーテル(霊気)が結合した結果生じているものであり、全ての生命は、知性と物質が結合した結果生じている」と理論化している。
後世になって、東洋学者とカバラ信奉者は、アケナトンの「イスラエル」の情報を発見したようである。彼等は、普遍的な放射理論を創作した。「全ての事物は大いなる一つの根本に由来している。その根本とは、不可視にして不可知の神である。神から、本源的な力が直接発生している。それが神のイメージであり、引き続いて発生する放射の源である。この2次的な根源は、放射エネルギー(意志と力)によって、様々な性質を送り出し、1次的な根源からの距離に応じて、完全さに差が生じる。物質は、神の放射が及ぶ範囲の最遠部にも及ばないものである」

光合成の矛盾…光合成なくして生命の誕生しない

名前としてのイスラエルの議論はなおも続いている。しかし、光合成の事実は何も変わることはない。あらゆる生命は光合成のサイクルに依存している。光合成のプロセスが一つのサイクルを完了するために350年の歳月が必要である。地球上の全ての酸素が一巡するためには、およそ2000年が必要である。この科学的なプロセスは、精霊から物質、物質から精霊という神学上の決まり文句に極めて見事に表現されている。
光合成のサイクルは矛盾を抱えている。光合成によって、地球上の緑の植物は太陽エネルギーを吸収し、二酸化炭素と水から生命の源を作っている。水によって支えられるはずの植物が最初に存在している必要があるのだ。「あらゆる可能性を考えてみても、この特殊な合成反応なくして生命が誕生することはあり得ない。そして、この合成反応は、現在、単独で生命を支えている」
このプロセスは完全に太陽に依存している。光合成は、緑の植物が太陽光エネルギーを受けてクロロフィル(葉緑素)に吸収させ、そのクロロフィルが二酸化炭素と水から炭水化物(糖質)を作るプロセスである。太陽光を化学エネルギーに変換させる方法としては、光合成以外の方法は発見されていない。しばしば葉緑素システムは生命の源であると言われる。地球上の全ての酸素は光合成によって作っれ供給されている可能性が極めて高い。光合成の神秘の宇宙的な矛盾は、「いかにして生命の神秘は、生命によらずして発生することが出来たのか?光合成の神秘によらずして、いかにして生命は生命を維持することが出来たのか?」である。ソディーが指摘したように、「現在、単独で生命を支えているシステム(光合成)なくして、自然に生命が発生して存在するということはあり得ない」のである。アケナトンが、いかにして「イスラエル」の音韻とともに、光合成の神秘に極めて似通った概念に近づくことが出来たのかは長年の謎である。
驚くべきことに、アケナトンと類似の洞察を行っていた者が他にも存在した形跡がある。北欧の創造神話には、光合成に対応した類型を使用しているように思えるところがある。北欧の伝説は、底なしの深淵について述べている。そこでは、物質の限界をはるかに超えた次元で、その放射光そのものの中に偉大な存在がいるという「最高天の火」の球から、「未知の神」が慈悲深い息を吹き出す。暗闇の深淵の水の動きをじっと見ている精霊は、混沌から秩序あれと叫ぶ。そうして全ての創造物に衝撃波が与えられたならば、最初の原因(原動力)は消え、以後永久に「姿を隠した状態」のままになる。プラトン、ユダヤ教のラビたちの哲学、北欧の伝説は、いずれも神話であると同時に科学でもある。こうした描写は、アケナトンの「イスラエル」や、光合成の科学的説明とも、大いに共通する点がある。

創造される以前に存在する「マネーの矛盾」悪用の「アルゴリズム」

アケナトンのイスラエルの謎と光合成の矛盾は、経済霊のマネーの力を発見した知性とも共通の基盤をもっている。マネーの存在基盤が創造される以前からマネーは存在していなければならないというマネーの矛盾は、光合成の矛盾と同じである。たとえば、融資が成立した後に、融資されるマネーは存在することになる。創造される以前に存在するという矛盾を、マネー創造のアルゴリズム(演算論理)にすり替えた、聖職者たちの直感力には天才的なものがある。それは、アケナトンが「イスラエル」と名付けた創造に関わる原初の洞察と同様に、「究極の自然の崇高力」としてのマネーの駆動力を取り入れた発想である。これは、銀行が創造したマネーが、「完全なる信頼と信用」として人々の精神によって公的に表明された一形態であるという現実を想起させる。
この意味で、当座預金(小切手)と、クレジットカードもある意味でそうであるが、精神状態の一形態を現している。国家の強権によって設立免許を与えられた銀行は、口座を創造する。銀行と借り手がその口座に入れる金額(通常は貸付金の形態になる)について合意した時、当座勘定はマネーの価値を得る。この当座勘定のマネーの仕組は、マネーが創造する仕組みが前もって存在しなければマネーは創造されないという意味で、光合成の触媒の謎を複製したものである。
現代のマネーは思考のシナプスの産物である。貸し手と借り手は、信用と呼ばれる集合意識を共有している。思考のシナプスは、マネーを創造する精神的な信仰に相当するものであり、光合成の矛盾を知的に応用したものである。それは当初「イスラエル」と呼ばれ、そこでは、マネーが創造する仕組みが、マネーが発生する前から存在しなければならなかった。
光合成についての原始的な直観から、信用をベースにしたマネー創造のアルゴリズムへの突然変異こそが、現在の経済霊とマネーの想念の原型となっている。もともとはおそらく知性がもたらした偶然の出来事であったかもしれないが、その後に発生したマネーに関連するシナプスの氾濫は、人類の記憶を様変わりさせる知性の事件へと発展した。生物圏のことを説いたアケナトンの「イスラエル」が、マネーの経済霊とモロク神の由来を隠蔽する神話のイスラエルへと変質されたことは、明かされることのない秘密のまま今日を迎えている。

「イスラエル」が撲滅され、自然と調和して繁栄の「カナン(旧秩序)」が復活

その最初の「イスラエル」の物語はアケナトンが姿を消すと同時に終焉を迎えた。アケナトンの宗教は、その後のファラオたちによって弾圧された。復権した宗教と聖職者たちは、「イスラエル」の宗教に関するもの全てを全エジプトから素早く撤退した。現存する「イスラエル」に関する資料で既知のものは一点だけである。
「イスラエル」のことに言及しているたった1つの記録は、メルエンプタハの神殿の石碑にある。その碑文は、「反逆者イスラエル(アケナトンの社会秩序)」が弾圧されたことを伝えている。この碑文を解釈すると、追放された聖職者や様々な宗教と神々が、メルエンプタハによって復権されたか、もしくは、メルエンプタハの周囲に「イスラエル」に敵対する聖職者勢力が形成されたか、どちらかであることを示している。国中に平和が取り戻され、王子たちは再び以前の神々に服従することとなったという要約の中に彼等の勝利が記述されている。石碑のメッセージは「カナン」の地は略奪された」と言っている。
石碑には次のように宣言している。
イスラエルは荒地になった。彼の種は存在しない。
パレスチナはエジプトの未亡人となった。
全ての地は一つになり、平和が戻った。
絶え間なく動き回っていた人々は皆、縛り付けられた。
この碑文から、「イスラエル」という名前は物理的な場所のことを指しているのではなく、退位された陵辱されたアケナトンの信仰体系の名称であった事実が推定できる。その当時、アケナトンと「イスラエル」の名前は同義語として使用されていた可能性もある。さらに、パレスチナという名前は、平定された地理的な範囲をさすものであることも確実である。この地域は、断固として、「イスラエル」とは呼ばれていなかった。また、カナンの地という言い方も物理的な位置を必ずしも意味するものではなく、アケナトンのカルトの信者がその地域に及ぼしていた影響が終焉したことを意味するようである。
「カナン」という言葉には特別な秘儀的な意味があり、パレスチナのような物理的な土地や、イスラエルとはまったく別物である。「カナン」という言葉は、高いところからの命令、究極の義務のことである。旧来の秩序にあったエジプトの聖職者たちにとって、アケナトンの「イスラエル」の息の根を止めることが究極の義務であると考えられたとしても不思議ではない。より大きな秘儀の次元においては、「カナン」という言葉、全人類に対する高いところからの命令のことを意味する。「カナン」という言葉によって表現される究極の精神は、人間の地球統治における地球の世話人としての義務である。聖書の契約でのカナンは「人類が果たすべき偉大なる征服の追求」を意味している。これについて本書では、もともとの地球の世話人契約において要請されている。自然と調和した繁栄を追求することであると解釈する。
「イスラエル」が撲滅され、自然と調和して繁栄の「カナン(旧秩序)」が復活
この石碑のメッセージは、アケナトンのカルトの特徴であった本来の「イスラエル」に対する撲滅キャンペーンのことを記述しているという、驚くべき結論が得られた。このキャンペーンは、パレスチナとエジプトという物理的に実在する場所で実施された。イスラエルとカナンは地名ではないが、アケナトンの宗教を排除するという意味で、宗教的・心理的な重要性を備えた秘儀的な意味を持つ。いとも容易に旧体制の宗教が復活することが出来たのは、アケナトンが肉体的に消滅したからであろう。当地の考古学的な調査によれば、アケナトンの政権が消滅したのは、大規模な自然災害によるものが大きいことが示されている。テラ火山の怖ろしい爆発によって火山灰と毒ガスが噴出し、ヘリオポリスにあるアケナトンのイスラエルの首都(現在のテル・エル・アマーナ)を襲ったのかもしれない。
このパニックと首都からの脱出はあまりに急であったため、王室の犬は犬小屋の鎖につながれたまま取り残された。出エジプト記で有名な炎の柱と煙の柱は、エジプト北部と地中海東部で実際に目撃され経験された、この火山噴火を伝えたものであることが、十分に考えられる。この時期(紀元前850年頃)に、火山の神「ヤハウェ」が、中東の語彙に加わったことは注目すべき事実である。学者の議論は続いているものの、テラ火山が爆発した時期も、およそこの時期と一致する。この時期に前後して、連続した火山爆発があった可能性もある。
聖書の出エジプト記は、決して歴史的事実ではないものの、実際にあった火山噴火の経験に基づいて巧妙に作り上げられた形跡がある。聖書の出エジプト記の道程では、寓話のモーセはパレスチナに向かって東に進む。その道は、最も火山灰が大量に降り注いだ地域を通っている。パレスチナに向かって逃走しようとした人々は死の行進を経験したに違いない。理屈的には、アケナトンと家来たちは、リビアに向けて西に進めば、致死的な火山灰の降下と有毒ガスから離れることが出来た。首都ヘリオポリスにあったアケナトンのイスラエ政権は、火山灰が直接降り注いだ範囲からわずかに西に外れており、危険を避けるためには、パレスチナに向かって東に行くのではなく、西に逃げようとしたはずである。
アケナトンのイスラエル人が西方ルートに逃避しようとしたことは、石碑の文章だけでなく、1962年のリビアの発見によっても裏付けられている。石碑はイスラエルの殲滅について語っている。考古学者たちがリビアで発見したことによると、「丸天井の部屋に骸骨が逆さに吊り下げられていた。何百万という頭蓋骨や骨が床に散乱していた。ファラオたちは、人間の逆さ吊りにして首を刎ねていた」という。他の多くの聖書の記述の出典も含めて言えることであるが、メルエンプタハの石碑が伝える出来事が、聖書の出エジプト記として編纂された出来事の原型ということは、十分にあり得ることであろう。リビアの遺跡は、西に向かって逃走していたアケナトンのイスラエル人が、旧来の宗教の信者によって追跡され捕らえられ、終焉を迎えた場所ではないかと思わせる。
アケナトンのイスラエル人がどの方角に行ったとしても、イスラエルの名前が人類の記憶に残り続けているのは、人間が経験したドラマチックな出来事の結果であることは間違いなかろう。

宇宙の力を込めた暗号「イスラエル」「マネー」が意識のパラダイムを大転換

旧来の宗教からイスラエルへの意識の変化によって生じた思考の変化は、マネーの経済霊とモロク神が登場するために十分な素地を与えるものである。出エジプト記が創作された可能性が高いと考えられる紀元前9世紀から紀元前5世紀の間に、人間の意識には実質的な革命が発生し、思考のプロセス自体が根本的に変わってしまったようである。「この人間意識のパラダイム転換によって掻き立てられた、ものの見方・考え方が、金融やマネーという概念である」。この変化はあまりにも深甚であったため、「古代の習慣を翻訳する時に、現代のマネー・金融の用語を使用することは完全に間違いである」。
私の考察によると、エリート知識人は、「イスラエル」という名前を、後にエルサレム神殿として知られることになるものに充てはめた。光合成の理解に必要な理論との類似性から、「イスラエル」という名前を、マネー創造の仕組を本質的に理解するための定型化イメージを呼び出す符合として使用した。先述の通り、マネーの存在の基盤となる信用は、マネーが創造される前に「信用」として使用されるために存在していなければならない矛盾を抱えている点で、マネーと光合成は同じ謎を共有している。
さらに、聖書の最初の5章分は暗号で記述されており、他の通常の言語に翻訳することは無意味であるというカバラの説も忘れてはならないだろう。暗号は宇宙を浮遊する生き方である。暗号が込められた文章には、その宇宙の力を我々の生活に反映させる意図があり、そのために啓示として機能する。ここでは、カバラの尋常ならざる言語は、暗号名「イスラエル」を利用して人類の中に登場する経済霊、モロク神、そしてマネーのことを語っていると理解しておく。「イスラエル」という名前を暗号として理解してよいことは、聖書の中でマネーという言葉が使われているところでも裏付けられる。マネーという言葉が使用されているという観点で聖書の登場人物の活動を再検討するならば、人類の先祖や出エジプトの物語は、何千年、少なくとも何百年は最近よりのことであったと修正する必要があるだろう。マネーへの言及と聖書の人物像が一致する時代は、イスラエルの神である聖書のヤハウェが初めて記録された時期、紀元前850年頃に修正されなければならない。
ヤハウェとともに始まり、第2神殿の時期として一般に理解されている紀元前539年頃に終了する時代は、マネーが誕生した時代という特徴をもつ。市場でマネーが使われ始めた時期、第2神殿の時期と時を同じくして、紀元前539年あたりに「割礼がユダヤ人特有の慣習であるとみなされるようになった。神殿の聖職者たちはこの些細な文化的特徴を神との契約の象徴に仕立て上げ始めた」。この年代によれば、モーゼに関する物語の大半と、出エジプト記、アブラハムの割礼の話は、もっと後世のことになる。
この地域の気象条件は大幅に変わったため、聖書のアブラハムがいたとされている時代に旅をしたならば、ラクダではなく馬を使っていたはずである。ラクダを使ってエジプトまで移動する方法がこの地域で知られるようになったのは紀元前600年以降である。一部の研究者は、モーゼとアケナトンがおそらく同一人物ではないかと推定している。これを支持することになると思われるのが、ミケーネ時代とギリシャ時代の間の暗黒の600年間は存在しなかったというヴェリコフスキーの発見だろう。この新たな年代測定によって、火山と嵐の神として認識されているヤハウェ神の起源が、テラ火山の噴火により近づくことにもなるだろう。
聖書の出来事の年代を、紀元前1250年頃から紀元前850年に修正することによって、人類の先祖たちが使った「市場マネー」も、実際にマネーが発明され使用された時代に配置する年代が大幅に異なることを指摘している。ウイルソンは、その著『出エジプトの真実』において、テラ火山の噴火の年代が大幅に異なることを指摘している。一つの時期として紀元前1100年プラスマイナス190年くらいから始まる。この年代範囲によれば、テラ火山の噴火は紀元前910年まで近づけることが出来る。ウイルソンと、ヤハウェ神の最初の記録と共に、ヴェリコフスキーの年代特定は、聖書の物語の大半を有史以前ではなく、より具体的な時期に再配置することを裏付けてくれる。聖書の詩篇78章52節~54節に、聖なるヤハウェの山は火山として記録されている点は注目すべきである。
マネーの発明、そして、モロク神とともに到来した経済霊の物語を暗号化するために「イスラエル」という名を使って聖書に暗号化された思想を追求することは、当然ながら、思考の根本的な変化、信仰の突然の飛躍を伴うことが想定される。この種の人間心理は、創世記の「第1子を殺す」という聖書の記述として初めて記録されている。幼児殺害は、新たな思想を受け入れるために、親が伝統的な思想を拒絶することの比喩である。ある種の新思想が最初に出現したのは、アケナトンの新しいイスラエルの宗教においてであった。時代が経過すると、「イスラエル」の名前は別の聖職者によって盗用されたようである。この聖職者による編集が発展し、マネーを発見した直感を隠す暗号としての意味を持たせ、公開された聖書となった。

地球を汚染し錯乱するマネー信仰の暗号名

本書の狙いは、宗教として我々の世界に入り込んできた経済霊のマネーの駆動力を識別し特定することである。マネーという姿で表現された信仰体系は非常に強力であり、その実践は常識を凌駕する勢いである。地球がますます汚染されているのは、マネー計算の結果であることが広く認知されている。マネーの計算による意思決定の結果、生物圏にとって有害なものもやむなしと容認することが出来る思考能力は、マネーという尺度が絶対であるという信仰に基づいているようである。それはまるで地球の世話人の責務を否定する一種の妖術のようなものであり、人間の思考を暗号名「イスラエル」の力を撹乱している。
「イスラエル」という名の普遍的な力が人類に入り込んできたことは、一般的にも理解さえている。この概念を支える聖書の教義は、紀元前400年頃に最初の草案が完成した文書に基づいているようである。これとほぼ時を同じくして、マネーは市場で力を持ち始めていた。ジェインズは、「この時代に人間の意識のパラダイムが変質し、欺瞞を許容する能力をもつようになった」と言う。この時代の大きな心理的、知能的な変化については、聖書でも認識されているようだ。「見よ、私は新たな点と地を創造する。以前のものは思い出すことも、心に浮かぶこともなかろう」
経済霊とモロク神が持ち込んだ想念を、暗号名「イスラエル」を使ってマネーという新たな意識の中に隠蔽し、そして、マネーは「新たな天」と比喩されるものを提供し、以前の人々の記憶を変質させたと考えれば、イザヤ書の記述とぴったり一致する。「マネーを基盤とした人間関係で思考する新たな能力は社会を変質させた。マネー社会の問題点としては、社会の軽量の尺度が、誰でも把握できる物理的な量ではなく、数字という知的な抽象物になるため、全ての人々が平等に理解し管理する能力を持たないことであろう」。この意識変革の過程において、人間関係の処世術に詐欺と背信が導入されたのと時を同じくして、イザヤ書の神が人間の意識に入り込んできたようである。さらに、「意識というものは、人を騙すことによって形成されたのかもしれない」。この考察は、意識(consciousness)という言葉が旧約聖書に見当たらない事実によって裏付けられていると思われる。
ジェインズは、「騙すこと」について、長期と短期の実例を挙げて議論しており、その中で騙すことは、裏切りという形で人間の経験に入り込んできたと述べている。これは旧約聖書のイザヤ書が証明しているようである。イザヤ書の新たな思考能力に関する記述によって、我々は新しい人間の能力を窺い知ることが出来る。いまや「内側ではあることを考え、外側では別のことを言う」ことが可能になった。この倫理を超越した能力は、マネーの創造と貸付における経済霊の働きにおいて「騙すこと」の重要さを考えると理解できる。現在の金融システムにおいて、マネーは貸付金から創造されていなければならないのに、貸付金は預金者のマネーに依存しているという神話である。この驚くほど単純なアルゴリズムについて明確に理解されていないままであるのは、モロク神と経済霊の到来を隠蔽する暗号名「イスラエル」のヴェールの裏に蠢いている特別な力の心理的な支配があることを示唆している。

王の金融コンサルのヨセフは、元祖MBA、マネートレーダー、金融詐欺師

ヨセフは、市場の力として登場したマネーを理解する上で要となる人物である。聖書の創世記の物語に描写してあるように、ヨセフは市場と商品を統制するエジプトの最高位の官僚であった。もちろん、他の多くの聖書の人物像と同様に、ヨセフは歴史上実在する人物ではないだろう。ヨセフが重要人物である理由は、経済霊の到来と、発生したばかりのマネーの力について述べた寓話を人格化した存在だからである。ヨセフがマネーの発明を始めて交換システムに適用したという物語があるが、それ以前のエジプト経済は物々交換であった。利益を得るために交換するという慣習はまだなかった。「市場のマネー」以前には、全て経済取引はファラオのカルトの直接管理下にあった。
ヨセフは、イシュマエルの子孫の商売活動を通じてファラオの“ホワイトハウス”に辿り着いたことを聖書から知ることが出来る。彼等はマネーを使った商人(トレーダー)であり、ラクダの隊商を組んでパレスチナからエジプトを商売して回っていた。聖書の物語によると、彼等は銀20枚と引き換えにパレスチナでヨセフを購入した。この取引でマネーとラクダが使用されていることから、この出来事とヨセフの物語は、紀元前600年以降のいつかであることが分かる。その年代以降でなければ、この地域にはラクダと硬貨でのマネーは存在しないからである。ヨセフを取得しエジプトに納品した話の中には、やはり隠蔽されてはいるものの、「割引」という金融の概念が巧妙に描かれている。
ヨセフは兄弟によって井戸の中に捨てられていたようである。ミディアンの行商人は、エジプトからの岐路でヨセフを発見して救い出した。エジプトに行く途中だったイシュマエルの子孫は、ミディアン人から銀20枚でユセフを買った。ここでもしも、ミディアン人が誰かをファラオに納品するという単価契約を、たとえば銀30枚で締結していたとすれば、割引率の一例となり得る。イシュマエル人はすでにエジプトに行く途中であったのだから、ヨセフの購入は納品時点で銀10枚の利益をもたらすことになる。割引の概念というのは、将来受け取る見込みのマネーよりも、手持ちの即金マネーは価値があるというものである。
マネー創造の経緯を隠匿する暗号という観点を念頭におきつつ、また、マネーに関する物事には「騙すこと・詐欺」が核心的な役割を果たすことを認識すれば、ミディアン人とイシュマエル人の大商人が、ヨゼフをエジプトに連行したのは、エジプト人をマネーの束縛に陥れることが目的であり、人類初の大掛かりな金融詐欺だったと言えなくもないだろう。この偶発的な人間関係の変異のおとを、「カルト273」、および、現在我々が中央銀行と呼んでいるものの起源が秘められた寓話であると考える研究者もいる。また、ミディアン人とイシュマエル人の現代版が今日の日本と中国の大商人組織であり、エジプト人がアメリカ人に相当すると指摘する人もいる。
ヨゼフは、聖書の物語では、経営者ファラオの哀願を受けることになる。ヨセフは、聖書の神話にあるような不幸な犠牲者ではなく、バビロンとダマスカスの高度な経営者養成学校を卒業したプロの経営者層を人格化した存在である。現代のMBA(経営学修士)の原型ともいうべきものであるが、これによってコンサルタント業や政府の役人として出世することが出来た。
ファラオは、バビロンとダマスカスの優秀な学校や学界から専門職を引き寄せ、洗練された手法を提供させたり、「世界市場」の鍵を握っていたセム語の知識を利用した。契約では、専門コンサルタントはエジプトにやって来て、国際貿易に必須であるセム語に精通していないエジプトの役人を補助することになっていた。どんな有能なコンサルタントでも同じだが、外国人の専門家が入り込んでくれば、人事面や経営方法の変更を勧めようとするものである。
経営の専門家たちは、ナイル川からユーフラテス川にかけた地域に幅広く重要なポストを占めていた。聖書はこの地域のことを大イスラエルと回想している。外国人コンサルタントに地位を奪われたエジプト人たちの受け止めは、コンサルタントでひどい思いをした現代の経営者の気持ちに近いものがあっただろう。ほとんど実務経験のない新参者によって地位を奪われた景健豊かな経営者たちは、卒業したばかりの新人の出現を邪魔に思ったに違いない。こうしたMBA風の侵入者に起因する経営方針の変更によって、楽しみにしていた昇進の機会を失ったものも少なからずいただろう。この時代のエジプト史は、侵略者の到来を思わせる、「イブル」または「ハイブリ」の到来のことを伝えている。
エジプトの厄介者としてのイブルまたはハイブリの歴史は、有名なテル・エル・アマルナの粘土板によって初めて発見された。これらの粘土板は、シリアの王とエジプトのアケナトンの間に通信があったことを伝えている。一般的な想定としては、侵入者のイブルまたはハイブリは、聖書のヘブライ人のことであると思われている。もしそうだとすれば、その当時の彼等はまだ、後にユダヤ人と呼ばれるようになる「聖書の民」といったようなカルトとしては存在していなかった。
比喩的な存在であるユセフは、エジプト史のいつの時代なのか聖書の不明瞭さのために分からないが、ファラオの側室の長として聖書の物語に登場する。エジプト人が侵入者イブルの到来を伝えているのも、歴史的に曖昧なこの新時代を迎える時期である。もしかすると、ヨセフは、この地域に蔓延した経営専門家やコンサルタント集団を担った侵入者イブルの中でも最も成功を収めた人間なのかもしれない。明らかに、この専門家階級は、虐げられた農民という固定観念的なイメージよりも、「聖書の民」ヘブライ人の特徴によく合致している。

エジプトでのヨセフ活躍物語は金融による束縛支配の完全モデル

ファラオの“ホワイトハウス”の高みより、ヨセフは、至上の知性の理解、つまり、マネー経済の先駆けとなるものを実際に行ってみせた。ヨセフは、政府の権力の全幅の信頼を完全に掌中におさめ、天才的な外国の才能を発揮した。ユセフがエジプトの聖職者による反発を早々に察知し、なだめたことは、マネーの力を行使して社会を操作する方法への道筋を開くことになった。ユセフの官僚としての才知の威力は、創世記14章34節に窺い知ることが出来る。ヨセフは、財産を巡って規制権力の聖職者たちと争うよりも、全ての土地の2割を彼等に与えるように取り計らった。
時はユセフに味方していた。7年の豊作の後に、7年の飢饉がやって来た。豊作の7年の間、ユセフは経済生産の余剰をファラオの蔵に貯蔵した。当時、長期の保存方法も技術も確立していなかったため、倉庫に貯蔵するという話は明らかに寓話であり、ある種の比喩的な表現をしようとしているのが分かる。欠乏の7年間に、ヨセフは、貯蔵した産物を、もともとそれを生産した人々に売り戻したと伝えられている。ここにマネーが絡んでいる臭いがする。飢餓の間、商品は、特に交感手段としての穀物は、底をついていたか、不足していたはずだからである。
このマネーによる取引を必要とした初めての経験は、明らかに以前の経験とは違っていた。それまでエジプトの商取引は、マネーを使用せず物の交換によって成り立っていたのである。さらに、マネーが必要になったことは、土地は豊富に所有していたが、マネーは持っていなかった聖職者たちにとってショックであったに違いない。そもそもヨセフが提案した取引を受け入れた時、マネーの力によって土地がいかようにもなるなどとは、想像もしていなかったはずである。またさらに、国内で痛切なまでの需要があるにもかかわらず、自分たちの貯蔵品が外国人に売られているのを目の当たりにしたエジプト人は、追い討ちをかけられたようなカルチャー・ショックに襲われただろう。何百年もの間、共同体の財産であると思ってきたものを手に入れるために、マネーで支払う必要があるということは、気絶するほどの驚きであったに違いない。物や土地に対するマネーの力は、エジプト人の原始的な経済感覚を粉砕したに違いないのである。金と銀を大々的に騙し取られたのに加え、貴重な物資がヨセフと同類の異民族出身の外国人に販売されているのを見て、それまで信頼を寄せていたエジプト人は深刻な裏切りを感じたに違いない。
この新しいマネー経済のサイクルの全体は、創世記47章に、以下のように記述されている。豊作の7年間に余剰が貯蓄されつつあったので、ヨセフは血縁者たちをエジプトに移住するよう勧めた。この血縁者たちは、臨時の外国人労働者として使用可能であるという虚偽の名目でやって来て、エジプト人の牛の世話をした。飢餓が始まると、物資不足は極限に達し、エジプト人にはパンがなかった。ヨセフは残り在庫の食料をマネーと引き換えに人々に売った。そしてユセフは全てのマネーを手に入れる。各地の社会にマネー欠如していることは、マネー・システムの欠陥であると考えられた。実際のところ、この最初のマネー・システムは、権力を集中させるための道具であることを見せつけるものであった。
人々が所有している財産といえば、もはや牛しかなかった。牛はユセフの血縁者が管理していることになっていた。エジプト人は、生きるためのパンを得るために牛と交換することを余儀なくされた。そして、人々は、生き延びるためには、食べ物になる植物が必要であり、そのためには種子が必要なことに気付いた。マネーをもっていない人々は、必要な種子を購入するために、土地を手放してヨセフからマネーを得る以外に方法がなかった。この市場のマネーのメカニズムこそが、ヨセフが全ての土地を配下に置くことが出来た理由である。かつてその地の市民であり。ファラオのとその一族の末裔であると思っていた人々は、ヨセフの農奴として小作人になり、マネー価格の経済霊に服従することになった。ヨセフの寓話を通じて分かることは、聖書というものは、人間に関するものというよりは、マネーと詐欺の威力に関する想念の履歴を記したものであることだ。
聖職者によって所有されていた2割の土地は、ユセフの購入対象とはならなかった。マネーのコントロールは、土地のコントロールよりも遥かに大きな力をもたらす。事実、ヨセフは、エジプトの毎年の収入から聖職者たちに定期的に給与を払うことで、彼等に対する支配力を強化した。完全なる全体主義権力の確立は、市場のマネーをコントロールし操作することから始まったと言える。ヨセフにとって最終段階は、植え付けるための種子をコントロールすることにあった。現代の巨大穀物複合商社は、日々、全農作物の種子を掌握しようとして遺伝子操作も含め開発改良実験を繰り返し、種子の知的所有権や栽培農法の専売特許を独占しようと必死である。人々を支配するユセフの全権力は、マネーに依存した小作人の隷属状態なくして存続できなかった。エジプトでのヨセフの物語は、金融による束縛支配の完成モデルであり、これが現代のマネー・システムとなって現れていると解釈できる。この唯金発想こそが、現在、世界中の銀行や国際金融機関によって管理された「有利子マネー・システム」の中で、中央銀行が国の債務に寄生する構造を可能にしていると理解することが出来る。

賄賂、詐欺、威圧のヨセフ戦術を駆使いたベトナム占領の布教団

共産主義のリーダーとして有名なホーチミンは、キリスト教会の布教団が旧約聖書さながらの金融戦術を使用したと伝えられている。彼によれば、ベトナムの植民地時代に、教会はエジプトのヨセフと似たような戦術を使ったそうである。農民から耕作地を奪取しようと賄賂、詐欺、威圧など、教会は考え得る限りのあらゆる手段を行使した。「穀物の不作の機に乗じて、農民たちから田畑を担保に取り融資を行った。利率が異常に高かったので、農民たちは借金地獄から抜け出せず、やむなく布教団に担保の田畑を差し出さざるを得なくなった」

父ヤコブの国葬行列にかこつけ、敏捷に搾取マネーを避難させたヨセフ

植民地の教会は、聖書2000年の歴史から学び取ったに違いない。ヨセフのマネーによってコントロールされた新政権では、エジプトの聖職者でさえも国家のマネー・システムに服することとなったのである。エジプトの人々は伝統的に生産物の10%をⅠ種の「10分の1税」としてファラオに納めるのを慣わしとしていたが、いまやヨセフに生産物の20%を支払わなければならなくなった。聖書の記述によれば、この100%の増税は、すでにマネーに依存する存在となっていたエジプト人には好意的に受け入れられたという。人々はユセフに対して「あなたは我々の命を助けてくれた、我々は進んであなたの奴隷になりたい」と言ったとヨセフは述べている。ユセフは人々の賞賛に応えて「見よ、私は今日、お前たちを買った。そして、お前たちの土地も」と語る。
人々は、政府への依存の代償として、個々の農奴としてマネーで値付けされ富者に売られる存在に成り下がったのだが、これは全く嘘の口実によって実現された。ヨセフはファラオのために土地を買ったと言ったが、エジプトでは伝統的に以前から全ての土地は事実上ファラオの所有とされていたのである。エジプトでは伝統的に以前から全ての土地は事実上ファラオの所有とされていたのである。さらに、農作物の管理の仕事は、以前は聖職者の専任職務であったが、それも「民営化」されエジプト人の個々の小作人が行うこととなった。こうして、穀物の不作による不足が、価格の変動をもたらし、マネーによって動かされる経済にとっては非常に好都合になった。ヨセフの物語には、かつて信用されていた政府のシンボルと職位を、ユセフがずる賢く巧みに利用し操っていたことが明らかに述べられている。経済霊がやって来て強要したマネーへの依存と束縛は、伝統的な考え方の人々には理解もされず、受け入れられるはずもなかった。
ヨセフが推進した伝統的な経済の破壊は、社会不安を積み上げていったに違いない。そしてヨセフが蓄積したマネーは危険に晒されていただろう。社会不安に直面したヨセフは、経営感覚あふれる敏捷さで、獲得したマネーをエジプトから即刻避難させ、有名なベテル市の近くのパレスチナに移した。今日の中央銀行の原型であるヨセフの権力は、彼の父であるヤコブの葬式のエピソードの中に窺うことが出来る。ヤコブはエジプト社会では完全によそ者であり、偽装移民であった。しかし、まるでファラオ一族に生まれた者であるかのように、ヤコブの葬式は70日間続いたという。ヤコブの遺体は、エジプト王家のしきたりに従って防腐処理されたそうである。国葬の過程で、ヤコブの防腐処理された遺体は、埋葬のためパレスチナに戻された。
この国葬の行列は、故人に敬意を示す習慣と警備する警察権力のおかげで、ヨセフが不正に利得したものを安全に隠匿できる地ベテルに移送するために好都合な道具立てとなったことだろう。この土地は、メルキゼデク神とエルサレムの第2神殿との結びつきという意味で、オカルト的に深い重要性がある。この地域には、何か超常的な意識の信号線のようなものがあるらしく、それによってこの地域は、ヨセフの窃盗・詐欺が公正な神の概念と相容れないことを隠している聖書の宗教とつながっている。出エジプト記のしても、ヨセフの物語にしても、中心となっているテーマは、詐欺と窃盗と裏切りである。モロク神と経済霊の力は、数百年もの期間を通じて聖書を教える人々の思考を占領してきた。そのため、聖書を説く人たちは、大半の聖書の物語の基盤は詐欺と窃盗であることを、大ぴらには認めていない。この中心テーマに人々が気付かなかったことが幸いして、モロク神と経済霊の2000年近い支配を覆い隠すヴェールとして聖書の宗教が利用されることを可能にしたのである。

詐欺、窃盗、裏切りが常習イブル出身「出し抜く者」ヤコブ

さらに聖書の物語の考察を続けていくと、「神々に選ばれた民」、「侵入する民」イブルの経済的繁栄は、往々にして詐欺と窃盗の成果であることが分かる。モーセという人物像に続き、ヨセフの物語があり、ヤコブという別の登場人物の話で補完される。これらの擬人化された人物像の特徴は、いずれも詐欺によって富を得る能力である。それらはまるで経済霊にもともと備わっている性質が詐欺を促しているようである。侵入者イブル族には脆弱な経済環境しかないことを考えれば、彼等は支配者としての地位を懸命に死守せざるを得ない。多くの聖書の人物像がそうであるように、窃盗行為を働いたとしても何の不思議もない。聖書のカルトの物語として伝えられた「世界主義的な侵入者」に望まれる特質は、「ヤコブ」という人物に擬人化され発展した。
「ヤコブ」という名前は、出し抜く者、騙す者という意味があり、詐欺師のことであるが、ヤコブの話の中で、「イスラエル」に変化している。この詐欺の概念は、エジプト人が全ての金額を詐欺された時の、モーセによるエジプト人への詐欺行為に相通じるものがある。株式市場のマネー・システムのような現代経済の機能の中に存在する経済霊にとって、どれだけ詐欺や不正といった要素が核心をなしているかは注目に値する。
聖書の中で、川の向こう側に隠れているヤコブに会うことが出来る。ヤコブの妻と子供たちは、ヤコブの詐欺が原因で、怒りを買い懲罰を受ける事態に直面し、川の反対側に捨てられていた。ヤコブは家族をも騙したようである。恐怖に襲われながら隠れて過ごした夜に、ヤコブは夢を見た。この夢の中で、ヤコブは、神の天使と格闘する夢を見る。夜明けが近づき、強要された格闘試合を終結させる取引がなされる。ヤコブが、ずる賢いコンサルタントと公務員の経歴を持つ侵入者として有名な集団の出身であるかもしれないことは、この夢の中で完成された取引の性質に現れている。
この取引文書は、商業的・官僚的な身勝手を明言したものとしては、最も完成されたものであると言えるだろう。ヤコブは、神が、生活に必要な基本的なことに配慮し、最低限の生活水準を維持し、ヤコブに自由に旅行できるようにし、「父の家から」追放されることのないようにするならば、「イスラエル」となることを承諾することにした。また、巧妙な詐欺師ヤコブは、神が同意するならば、全ての将来の営業活動によって得られるものの一割を神に与えることにした。用心棒代もしくは強請(ゆすり)という形で、ヤコブとモロクの間に「10分の1税」が成立したものであると考えることも出来るだろう。この取引では、当期利益と純資産は考慮されていない。聖書によると、神の天使は、合意し、提案を受諾した。この取引は、聖書の中の「10分の1税」に言及した2番目の箇所であるためだろうが、よく第2の契約を正当化したものであると解釈される。最初に「10分の1税」の言及があるアブラムがメルキゼデクとの取引に基づいてアブラハムとなった時と異なり、この時は、「10分の1税」(タイズ)の税率は一割に設定された。この取引の条件と、ヤコブの性格から考察すれば、ヤコブの神とはモロクである可能性が高い。
明らかにヤコブの取引には道徳を無視した感があり、神は、下僕たちの道徳的な善、無私の精神、公正な取引に対して報いるものであるという考えと相容れないものである。パスカルによると、こうした矛盾が存在するところが、暗号が込められた箇所の証拠である。ヤコブが取引した神は、道徳に無関心な神の存在を示しているとも言える。この無関心は、地球の世話人としての責務を求めた最初の契約と全く相容れない。神との取引をパーセント条件で決めることが出来たということは、聖書の第2神殿とマネーが誕生した頃の時代に成立した取引である可能性が高い。10進数が初めてこの地域に知られるようになったのは紀元前400年頃のようであるから、それによって年代を証明することが出来そうだ。ヤコブの取引は、最初の契約で求められた自然数を守る世話人の義務というよりも、マネーの管理人としての義務に関連したものであったと推測できる。

「燃える森」で利子をひらめき、万民を巧妙な束縛に導いたモーセ

モロク神と経済連を探し出すために、寓話的な意味で気になる3番目の人物は、有名なモーゼである。モーゼは灼熱の砂漠に足を踏み入れ、靴も服も(下着も)替えずに歩き回ったのであるから、実際には36年でも40年ぐらいかかったと思っても無理はないだろう(モーゼは84歳で開始し、120歳で死亡したので、36年になる)。モーセは聖書の宗教に、「独特の火」に導かれて入った。「炎は燃えているが尽きることのない」火のついた森があった。モーゼは燃える森の中から民を告知し、神は囚われた人々を解放することを誓ったと言う。モーセは、エジプトで奴隷になっている人々を解放することを命じられたと言った。この燃える森からのメッセージを解釈する上で問題は、当時エジプトで奴隷になっている人々を解放することを誓ったと言う。モーセは、エジプトで奴隷になっている人々を解放することを命じられたと言った。この燃える森からのメッセージを解釈する上で問題は、当時エジプトには奴隷制度の慣習がなかったことだ。
そのわけはこうである。「燃える森」の言外の意味は巧みな比喩となっており、モーセが囚われた人々を解放するように啓示を受けたというよりも、「金融的な束縛」の理解につながるひらめきを擬人化したものであることを示唆している。燃えていながらも、その源を費やすことのない炎という発想は、債権から発生する利子マネーを優美な比喩(暗号)で表したものである。マネーは、「利子」と呼ばれる「得体の知れないもの」によってなぜか金額が増えていくと普く信じられている。当然のごとくマネーから派生する利子は、源を費やすことなく(元本を減らすことなく)燃えさかる「神秘の焔」をイメージさせる。
利子マネーを「燃える森」で発見したひらめき、ヨセフによって初めて企てられたマネー操作の手本。この稀有な体験を経て、モーセは究極の現世的な力に気付いた。また、モーセは、利子付きでマネーを貸す金融活動をシステム化すれば、カルトによる世界支配が可能であることを知っていた。利子付きの負債マネーは最終的に人々を囚われの身にしてしまう。モーセは万民を束縛を生み出したのである。そして今、モロク神は中央銀行と呼ばれている組織を通じて、嬉々として国を債務でがんじがらめに束縛し、現在の社会を支配しているのである。