現代スサノウの言霊 

8.善悪二重基準の倫理

律儀な道徳人がいるから、背徳者ケインズ一派は儲けられる

何を善とし、何を悪とするのかの判断基準は人類みな共通と一般的にには捉えられている。国や習慣の違いを超えて、あらゆる人々にとって自明のものとされている。この道徳的な価値観は、それぞれ民族の神から「聖なる導き」として、教えられている。だから道徳に反する行為は神に対する犯罪になる。そして道徳律に反する行為は、教義に照らしてそれぞれ固有な罪名が付けられている。善悪の二重基準という身勝手な発想は、カルトの規範に縛られない外部者に向けて遺憾なく発揮される。カルトは、通例、外部者に対して用心深く無関心を装うが、身内は贔屓をする。
二重基準を応用し、冷徹に合理化した経済思想はごく普通に見られる。現代経済学の父と言われるメナード・ケインズは、「厳密な意味でいえば、私は配信者だ」と堂々と本音を述べている。「グローバル経済」なるものが芽生えつつあった頃、ケインズを取り巻く人々の間では、窮屈な道徳的制約などは無視して当然という空気だった。「一般的な規範によって押し付けられたあらゆる制約を完全に拒絶する。この姿勢に、他者は恐怖を抱き、攻撃であると見なし、それを我々の最も危険な性質と恐れる。我々は因習と旧来の価値観によって押し付けられたあらゆる道徳的な習慣を拒否する。言っておくが、我々は、言葉の厳密な意味において、背徳者である」この意気盛んな草創期の背徳者たちを引き継ぐ現在の背徳者たちが、十戒を否定する風潮の先頭に立っていることは不思議ではない。市場の力の邪魔になるからということで、ますます裁判所が性的な逸脱を保護し、伝統的な道徳を否定する行為が蔓延するのを保護しているが、そんな傾向を先導しているのも彼等である。
私の考えでは、ケインズ派というのは、経済霊の徒党一派として理解すると最も正確に把握しやすい。ケインズ派は、善悪の二重基準なくして成り立たないことは明らかである。なぜならば、彼等の「身内」モロクが動かしている。道徳を逸脱したグローバリズムは、道徳に束縛されているからこそ、契約や合意は、市場で意味をもつのである。ケインズ派の言う背徳とは、彼等御一統がいかに背徳から利益を得ることが出来るかという意味で使われているだけのようであり、彼等が利益を得るためには、その他の人々は道徳の制約に縛られている必要がある。これは、モロク神と経済霊が要求する善悪の二重基準の分かり易い特徴である。

「左から右横書き」「右から左横書き」「縦書き」の異なる世界観

社会秩序にとって必要不可欠な規範や価値観は、それぞれの社会で主要な地位を占める宗教が影響を与えているということに異論はないだろう。古代神殿の書記官は人間のことをよく理解していた。社会というものは、当時も今も、大きく違うものではない。富裕者の成功もあれば貧困者の不安もある。正しいことと間違ったことをわきまえることは、常になされていた。約束は守らなければならないという決まりはいつの時代も同じだ。倫理的価値観の態様は、文化や人種、地域といった外因性の要素に左右されることはあっても、生命に向き合う基本的な態度や、命を損なうことに対する禁止事項や規則に関する処置はいずれもよく似ている。
しかしながら、世界の様々な慣習の類似性を比較すると、地域によって世界観に相当の違いがあることが明らかになる。それはまるで、ノアの3人息子の物語が、実は、人類の価値観の分類をしているかのようである。たとえば、ヨーロッパ人は主に、個人を強調した観点で民族や人種について考える。中東のセム族にとってはカルト(信念体系を同じくする運命共同体)が基本的な観念であり、家族や部族を強調する。東洋では、家族が強調され、それは時系列上の家族=先祖崇拝としてもよく表れている。これらの異なる世界観は、文章を書く時、①左から右へ横書き、②右から左へ横書き、そして③縦書きという3種類の方法に、視覚的な違いとなって表れている。
これら異なる書字方向形態に対応する「読む技能」も、それぞれの文化と宗教の重要な構成要素になっている。異なる文化群の倫理的な文章を比べてみると、何気なく読むと一見同じことをしている。たとえば、(③縦書きの)ハムラビ法典の全てを受容する倫理では、「自分自身にしたであろうことを他人にもせよ」と本来は求めている。だが、後の時代にユダヤ教によって修正された(②右から左へ横書きの)記述では、「自分自身がされて嫌な事は他人にするな」という排他的な倫理に変化している。
商取引は、文化的な背景や有力な宗教の浮き沈みに左右されない堅固な中核的な倫理基準で成り立っている。ビジネスにおける契約や代金回収には、倫理的な価値観が共有されていなければならない。異なる文化を横断的に行き交うマネーによる商業活動のためには、宗教ドグマの違いに影響されない普遍的な倫理が不可欠であると言えるだろう。世界市場を求めて様々な文化に不法侵入している経済霊は、様々な宗教の教えから腹一杯に諸々の倫理に呑み込んだ結果、自分自身が一つの有力な宗教となってしまった。そして、特に「約束を守る」という倫理を基盤としている。

「釣り鐘曲線(正規曲線)」と「パレード曲線」をどう使うか?

商売を業とする経済霊の倫理の最も重要な物差しは、「正規曲線」もしくは「釣鐘型曲線」と言われる統計手法である。この曲線に関する古代の知識を、聖書の中に見出すことが出来る。市場の母集団の属性や傾向は、この曲線上の位置に従って予測することができる。正規曲線もしくは釣鐘型曲線は、原初以来の、あらゆる商業的、社会的生活、そして自然の生命に共通のパターンを示している。生命(生活)の中のあらゆる出来事と事実は、この宇宙の不思議によって表される。この物差しは、臭覚高を季節的に検証している。
自然および生命の活動の物差しとしての正規曲線に加えて、人間の企業活動にはもう一つの観察すべき属性がある。それは発見者の名前にちなんで「パレード曲線」と呼ばれる。これは経済活動に関わるものごとを測定する時に徳に役立つ曲線である。しばしば8対2の法則と呼ばれるが、パレード曲線は、約8割の企業活動は、約2割の商品によっていることを示している。利益についてもこの法則は当てはまり、利益の8割は、売上の2割によってもたらされる。古代の聖職者や書記官も、共同体社会の中で倫理的に公正な商品の分配を行うために苦心していたはずであり、この現代統計学的手法について少なくとも直観的に体得していたに違いない。
「釣鐘曲線(つまり正規分布)」に表された物差しは、現代の商業と社会のあらゆる局面に存在している。この曲線では、どんな母集団でも6つの集団に分離して捉える。それぞれの集団は、対象となる母集団のおよそ16%を含んでいる。展着した手法としては、平均値(つまり中間グループ)は母集団の63%で構成され、曲線の中央をはさんでそれぞれ2つの集団を合わせたものである。この中位グループを構成する4つの集団に属する個体が、母集団の平均を示すと考えられている。だが、この事実にもかかわらず、自分の社会的な地位を質問された時、母集団の約9割の人々は自分が中流階級に属していると思っているのが通常である。
社会統計の意味と感覚が一般に共有されていないのか、あるいは、一般民衆の思考に及ぼすモロク神の力になせる業なのか、どおちらかである。一般的に数字で表現すれば、母集団の半分は、数学的にちょっうど平均となる値よりも上であり、半分は下である。
中間クラスにいる約63%の人々が平均的であると思っているとすれば、残りの部分である約3分の1の人口は平均よりも上か下かに分割されることになる。残りの人口は均等に分割され、約16%は平均より上に、同じく約16%は平均より下になる。聖書の知恵は、およそ7人に1人は総人口に依存する状態にあることを知っており、こうした測量手法を認識済みであることを明示している。聖書は、収穫の7分の1(約14%)が貧困な人々のために畑に残しておくべきだと言っている。
聖書は、この農村的な時代においては、老齢、病気・ケガ、能力等の理由で、およそ7人に一人は虚弱な人がおり、その他の人々が生活の必需品を与えてやる必要があることを寓話的な表現で伝えている。公式に計測されたわけではないが、この統計は、おそらく現代経済にも該当するものではないかと思われる。経済霊の経済システムでは、社会的弱者として無収入層も追加しておいたほうがよいだろう。平均以上の集団の中には、際立って平均を超えている約16%と、特にマネーという観点で注目すべき並々ならぬ能力をもった2~3%が存在する。

シャマシュ直伝、イエスの強烈な反モロク黄金律「債務を赦せ!」

人類と人間活動における「釣鐘曲線」の統計的現実が不変であるこ、とは支配層が倫理の原型をつくる際に着想を与えたであろう。聖書に記録される前の時代に、太陽神シャマシュ(紀元前1700年頃)は、シュメールのハムラビに統治者としての特別な指導を与えたと伝えられている。シャマシュは統治の目的は、「正しいことが勝利することを推し進め、強者が弱者を不当に打ち負かすことを防ぎ、国民を強化し、全ての人々の生活を改善する」ことであると言った。この崇高な言葉の意味は、何百年もの時を経てイエスなる人物によって「山上の垂訓」の中の摂り込まれた。使途マタイとルカは、これらの思想を要約し、黄金律に組み入れた。「自分が他者にしてほしいことを、他者にせよ」この規律はキリスト教独自のものと考える人もいるが、同じ規律は、遠く離れたインカ文明を含む多くの社会に存在する。
新しい信者向けに教義の中心テーマを説明するという難しい課題に直面した使途は、新しいキリスト教徒に教えるための要約文をイエスに依頼した。この聖書マタイによる福音書6章12節「主の祈り」の1節には、直観的に(対モロク)「オカルト・パワー」があることが窺える。そこには、イエスなる人物の決意として、「我々が債務者を赦すように、我々の債務も赦してください」と述べられている。かくしてイエスから使途に発せられた究極の指導の中に、かつて投げかけられた言葉を見出すのである。モロクは債務なくして存在し続けることができない。この一節をオカルト的に解釈すると、モロク神を聖書の文言の中に隠す暗号の痕跡であろう。このマタイによる福音書6章12節には、経済霊のマネー「72の法則」のパワーが込められていることが察知できる。オカルト数秘術で理解すれば、6と12を乗じた数はモロクの「72の法則」になる。
モロクの欲望の根本は、利子付きで貸した金額が2倍になるのにどれだけの期間がかかるのかを知ることにある。元金が2倍になるために必要な期間は、72を利率で割ることで計算することが出来る。6%で貸し付けられた千ドルは、12年で二千ドルになる。あるいは、12%で貸し付ければ6年で2倍になるといった感じである。この72という数字には、金融魔術がある。マネー計算の基本的なルールは、誰にでも見ることの出来る形で聖書の一節に暗号となって隠されている。このルールが隠されているのが、まさにそのルールが依存している債務の返済拒否を求めている文言の中にあるというのは、痛烈な皮肉である。「主の祈り」の中に表現された債務免除の要求は、当時(今日でもそうであるが)、最も革命的な宣言であった。

「七十二の支配」を明確に拒絶したナチ党経済要綱

72の数字に連動した力をさらに知ることが出来る事例として、1924年6月24日にベルリンで起きたドイツの外務大臣ヴァルター・ラーテナウの政治的暗殺がある。暗殺現場の車の中で息が絶えるまでの間、彼は「72が世界を支配する」と繰り返し最後の言葉を発した。ベルサイユ条約による弾圧を緩和させようとした交渉は、彼の死によって断絶した。彼の暗殺に引き続いて起きた一連の出来事が、第二次世界大戦を不可能にしたと言ってもよいだろう。民族社会主義の経済要綱は、ドイツにおける「72の支配」から利益を得ていた政治的・経済的集団を無力化することを目的にしていたという事実からも、このことは明らかである。
ナチ党の経済要綱は、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」によって索引される経済的グローバリズムにとって必要不可欠な要素の大半を、明確に拒絶していた。「72の法則」といった社会秩序のコントロールの中に存在する秘密の知識が現実にあることは記録された事実である。モーセ自身が加わる。モロクは反対勢力のことに気付いていないか、無関心である。有史以前のエジプトにおいてすらも、社会的抑圧に対抗する最初の大規模な民衆決起の主な原因は、秘密の知識によって生命をコントロールされていることに対する憤りであった。ファラオ自身の上流階級の区域に下層階級の者が侵入して秘密の知識を獲得したことによって、エジプト上流階級の名誉は傷つけられた。
太陽神シャマシュによってハムラビ王に示され、後にキリスト教の黄金律として再発見された基本倫理が「受容」の精神であるのと異なり、善悪の二重基準の倫理は「排斤」である。人と人を分離し、人を排斤し、人を騙す。これが善悪の二重基準というものの常套手段で、全体にとっては何一つ良いことはせず、全体を犠牲にしながら自らのカルトだけの利益を資する。このように経済霊がカルトの生活に支配的に介入すると、善悪の二重基準が必然的に現出する。善悪の二重基準を率いる経済霊の正体とは、「我欲のために人間を予め決められた形式である行動に走らせる、内面における複合的な顕在意識あるいは潜在意識」と言ってもよい。
社会がマネーと言う尺度で動いている時、経済霊は最も存在感を輝かす。ある社会において経済霊の力がどれほどのものかは、金持ちがより金持ちになり、恵まれないものがより貧しくなり周辺部に追いやられていく、この落差の度合いによって窺い知ることができる。「釣鐘曲線」を見れば分かるように、共同体の一定割合を排斤しようとする力は常に発生する。古代の聖職者は、この排斤しようとする力を打ち消すことが自分達の役割であることを自覚していたはずだ。
ハムラビ王の聖職者としての倫理が、どのように変貌していったかは、モロク神と経済霊が介入してからの経緯を見れば分かる。経済霊がやって来る以前は、商業では価格と価値は別々のものであった。価格には道徳的規準というものがあって、人々の需要に応じて理性ある聖職者の判断によってその価格は適切に設定され、決定されていた。経済霊の権力の下では、例の「善悪の二重基準」が顔を出し、むき出しの利欲で付けられた価格が冷酷に割り当てられる。人々の需要は無視される。見られる通り、現代社会では聖職者の判断に関係なく、中央銀行と呼ばれる組織で働いている「モロクの司祭たち」が経済霊の影響下にある政治的プロセスに沿って、値付けをするのみである。全ての政策は、物質的な判断と現世的な価値観によって索引される。
現在のところ、往々にして社会の日陰にいるような芸術家や一部知識人の、ごく僅かな人々だけが、意図せぬもモロク神に挑戦する思想や批判を投げかけ、何かしら公共の善に貢献しようとしている。残念ながら彼等は率直に社会が抱える懸念を表明しているが、社会・文化を支配しているのが隠れたモロク神と経済霊であるということの本当の意味を理解していないし、しようともしない。彼等は時代の真相を見逃している。それどころか彼等の思考は、まっるでモロク神そのものに乗っ取られたかのように、そちらの方向に向けて開かれている。覚醒への入り口で足止めを食らっているようだ。「聖霊はこの世界から撤退した。もはや自然の中に現れることはない」という彼等の世界認識は間違いである。

隠匿を促している聖書は「善悪の二重基準」の教則本

善悪の二重基準は、法律や規則を通じて詐欺や2枚舌を使う欺瞞のパワーである。モロク神の善悪の二重基準は、早い段階から聖書の中に侵入している。聖書のカルトは、聖書の規律を選択的に適用する方法を教えられて、それに習熟することで、経済的な利益を得ている。法律は、一般的に理解されているような普遍的な政治のための道具でも、平等のための尺度にもなっておらず、単に利益を獲得するための道具になり下がってしまっている。
その生々しい実例をカティ・オブライエンは『アメリカの変貌』(オブライエン&フィリップス、1995年)で取り上げている。性奴隷を雇う秘密交渉、麻薬、ワシントンとメキシコの高級官僚に対する現金の賄賂などにからみ、聖書のモロクの暗号が、いかに現代の国際法に悪影響を与えているかを示している。つまり法は、正義の番人として機能していないのが、この著作を読むと痛いほど分かるのだ。
慎重に工作された法的手段であるNAFTA条約は、現代の「カルト273」(国際金融資本家)に気前の良い贈り物と秘密の利益をもたらした。よそ者を詐欺で騙して経済的な不利益を被らせておきながら、仲間内にはしこたま利益が入り込むように仕組んでいる。色々な意味で、聖書は「隠匿を促している」ようである。モロク神の介入を巧妙にごまかして隠していることが分かる。聖書は、普遍的な正義を高らかに宣言しながらも、正反対の結果が生じることを許容している。聖書の文言は公式には「お前たちの国のための法律と、異邦人に対する法律は、同じものを適用しなければならない」と述べている。
さらに「異邦人を怒らせてはいけない」とカルトに対して注意を喚起している。明らかにこれらは異邦人との商売によって利益がもたらされることを意味している。そこで矛盾するのは、異邦人はカルトにとっての正義から除外されていることである。借金しても利子を支払うことのないカルトのメンバーとは異なり、「異邦人は利子のない貸付金から利益を得てはならない」と指令している。聖書の規則は具体的に、カルトの内部では高利を取ることを禁止し、異邦人との取引においてのみ高利を貸すことを許可している。債務の免除はカルトの身内では定期的に行われ、永久に債務は帳消しにされているが、異邦人に対しては利子付きの債務を新たに負わせる。
ここに明らかに、聖書の文言の中には、善悪の二重基準という正反対の観念があることが証明される。これらの諸説は、偏見のない正義の精霊ではなく、経済霊の方式によって読むと別の精霊のことを伝えっていることに気付く。ここに発見された別の精霊は、聖書の中に存在するモロクの概念につながっているようである。この別の精霊は、ヘブライの指導者カレブが赴くところで土地を与え、カレブの種がその土地を所有した」とある。交換手段として機能するという点で、種子と言う語が、経済的にはマネーと同等の意味をもつ。
善悪の二重基準の倫理は、明らかにハムラビ王、そして後にイエスという人物像によって説かれた社会正義の中核をなす倫理を拒否するものである。それは、自然と調和しながら繁栄するというのは、「排斥」ではなく黄金律にある「受容の倫理」の全面的な適用に依存していることを示唆している。これはもちろん、高利によってカルトに利益をもたらし、異邦人に不利益を被らせることを勧める「反逆の掟」への挑戦を意味する。モロク神と経済霊が、異邦人から利益を得るという聖書の発想を伴って社会にやって来たことは明らかである。利益がカルトの身内だけに差別的に蓄積されることが熱望された。この利益は、カルトの形態が、宗教団体であろうと、国や企業であろうと関係なくこの不当な利益を得ることが可能である。

「知的転移」でYHWHの「完全に見通す力」を反転、中央銀行を廃止する

本書では、この力はモロク神に属する力と考えているが、この力の概念を支持する思想が聖書の教義の中にある。それはギリシャのテトラグラマン(神聖4文字)、聖書の神の名エホバを表すYHWHである。最も驚くべき新発見であるが、カバラによると「YHWHという名前の文字は、この世界の王子である悪魔(デーモン)と同義である。置換法を知っていれば、他の言葉からある言葉を抜き出すことが出来る」。変形されたYHWHは「神聖な人物は、恵みをもたらすと同時に、危険の源でもある。その魔術的な効能は、極めて厳密な意味で移ろいやすい」という。
YHWHに投影された「完全に見通す力」というものがあると考えられており、それによって人は人間として完全な性向を伴って行動することができるようになるという。プラトンは、これは哲学者のみに存在すると信じていた。社会によってこの目標が否定されれば、哲学者は疎外され、破壊する側の力となる。
聖書のエペソ人への手紙6章12節(ここでまた「72の法則」へのヒントが暗号化されている)を見ると、「戦いは肉と血に対するものではなく、この世界の暗闇の支配者にたちに対するものであり、天の邪悪な聖霊に対するものである」とある。この世の「悪魔のデーモン」であり、天にあって支配している「闇の勢力」がモロク神であること、そして、知的転移によって「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」の哲学から脱出すれば、このモロクの力が反転するかもしれない。そんな可能性を思うと、この物質主義的な金融の時代において、科学的ではないにせよ、エキサイティングではある。
自然との調和しながら繁栄するための地球の世話人から、経済霊の高利に衝き動かされる「マネー地益の管理人」という反対の観念へと、どのように知的連環が倫理観を反転させていったのか、その過程を聖書の物語が暗号化して伝えているのではないかという疑問に対する答えを創造すると、心が凍てつく。しかし逆に、もしかすると、このモロク神と経済霊の領土からの脱出(転調)が、単純に再転調するだけで達成できるのかもしれないと思えば、思索はさらに理性を超え、心霊的な次元に入り込んでいく。
環境汚染の害悪と、貧困をもたらす不公平な構造は、集合的な意思を反転させることによって修復することが可能である。目覚めた者によるほんの簡単なことで、おそらくは「地球の世話人カルト」が中心となった立法がなされるだけで、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率の神モロク」の神殿である中央銀行の息の根を止めるには十分である。
一般的に「金融」と言われている(聖書では「高利貸し」と呼んでいる)経済霊の活動を消滅させても、現代の経済システムはそのままで、十分に機能し、マネー・システムと豊かさは実現できる、そう思えるのだ。